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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟…
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2023年7月の記事一覧

藤井正雄『骨のフォークロア』|馬場紀衣の読書の森 vol.18

生きているものが死者へと向ける感情は、とても一言では言い表せないものがある。まず、死者への哀悼の念があるかもしれない。大切な人だったなら、愛惜も。それから、死という不確かな現象への恐怖をしみじみと感じるかもしれない。おそらく、腐敗していく屍体への嫌悪感もあるだろう。とにかく、複雑だ。わたしは死をまえにすると、今、この瞬間、こうして息をしている自分の生を、強く実感する。死の濃くなるとき、生もまた濃くなるように思う。 比較民俗学の視座から「骨」に関するフォークロア(伝承)をまと

『奥行きをなくした顔の時代』|馬場紀衣の読書の森 vol.17

「ヴァーチャルとは可能的に存在するものであって、現実に存在するものではない」とフランスの哲学者ピエール・レヴィは述べている。そして「ヴァーチャルなものは、アクチュアル化されることを目指しているが、それは実効的な、あるいは形相的な具体化という状態に置かれることはない」とも。 自己コンテンツ化された自分のことを考えるようになったのは、SNSが台頭してからだ。それ以前にも、舞台写真を撮影してもらう、という機会はあったけれど、これほどの「ままならなさ」は感じていなかった。誰もがタレ

田中ひかる『月経と犯罪』|馬場紀衣の読書の森 vol.16

昨今のジェンダー平等やセクシャリティをめぐる議論は、それに対して好意的であれ否定的であれ、無視できないものとなった。ここ数年、生理ムーブメントとでも呼べるような状況が注目を集めているのも変化のひとつだろう。実際、生理中の、あの「イライラ」は月経(生理)についてほとんど知らない男性でさえ知っているのだ。この期間に、落ちこんだり、涙もろくなったり、甘いものが食べたくなったりすることは、もうずっと女性たちの共通認識だった。とはいえ、歴史のうえで生理がどのように語られ、扱われてきたか

伊藤亜紗『手の倫理』|馬場紀衣の読書の森 vol.15

「さわる」と「ふれる」は、英語にすると、どちらもtouchになるけれど、ニュアンスは微妙にちがう。傷口はふれる、だけれど、虫にはさわれない、といった具合に。人はこの触覚に関するふたつのあいまいな動詞を、その都度、状況に応じて使いわけている。ところでtouchという単語には、かすめるような、相手を小突くような、ささやかな動作による印象を受けるのだけれど、これはわたしだけだろうか。 著者の伊藤亜紗さんは美学者で、これまでも身体をめぐる多くの著書を世に送り出してきた。そんな著者が

『心は機械で作れるか』|馬場紀衣の読書の森 vol.14

本書によれば、心の機械説を唱えるには二つの障害がある。一つは、意識。二つ目は、思考という現象だ。近年の「心の哲学」の関心事の中心は、まさにここにある。たんなる機械がどうやって意識をもつことができるのか。そして、機械がどうやって事物について考え、事物を表象できるのか、ということである。 まずは、この本の構成を知っておくことが読書の役に立つと思う。第一章では、表象、つまり何かを思い浮かべたりする心の働きに伴う問題が紹介される。第二章は、心理学の知見と思考の因果的性質をとりあげる