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最終面接で「そういう女の子、いらない」。社会に蔓延する性差別的な構造

こんにちは。
『アートとフェミニズムは誰のもの?』著者の村上由鶴です。
本書は、実はよく似た理念を持っているアートとフェミニズムを相互に活用することによって、どちらも一気に入門してしまおう、という一石二鳥的な入門書です。
人によっては一見無関係に見えそうなアートとフェミニズムの関係について、今日は、「なぜ、アートの入門にフェミニズムが使えるのか?」という観点からお話しします。

憧れていた会社の最終面接で

の、前に、まず、わたしの忘れられない経験をひとつお話しさせてください。新卒で就職活動をしていた時のことです。

第一志望の会社の最終面接で、そこまでの面接を緊張しつつも順調にクリアし、憧れの会社に入れるかもしれないという希望に胸がふくらんでいました。

最終面接はそれまでの面接とは全く違う雰囲気で、スーツを着た年配の男性が8人か10人くらい横一列にずらっと並んでいて、それによってこれまでにないほどに緊張が高まりました。

面接がはじまって一通り志望動機や自己PRなどを話していくうちにこんな話になりました。

君、長女?
「えー、はい、そうです」(なんでこんなこと聞くのか…?)
言いたいこととかあったら言うタイプ?
「言わなくてはならないと思ったことがあったら言いますが…
でも、人の話もよく聞くタイプだと思います」
そういう女の子、いらないんだよね

憧れの会社の最終面接でこんなことを言われて、わたしはとても動揺しました。それから先の面接のことは、今ではもう全く思い出せないのです(キレて暴れたりはしていないはずです)。そして「いらない」と言われたとおりに不合格になりました。

そういう女の子はいらない」――。その言葉にははっきりと性差別的な考え方が表れていて、これは非常に問題があっただろうと思っていますが、その一方で、もっとうまくできていたらこんなこと聞かれなかったのではないか、とか、もっとよい答えがあったのではないか、そして、自分の「女性の就活生」としての振る舞いが足りなかったのではないか、とも思わされた経験でした。

個人の問題ではなく、
社会の構造の問題であることに気づく

さて、その面接を経て、結局その会社からは不採用の連絡がきて、紆余曲折を経たわたしは、美学という学問分野で研究活動をしながら、アートや写真などについて文章を書く仕事をしています。

先日出版した『アートとフェミニズムは誰のもの?』の執筆の際の原動力となったのは、この個人的な経験を思い出したときの悔しさや、悲しさ、そして何度でも新鮮に湧いてくる怒りだったように思います。

とはいえ、いま、私が「個人的な経験」と述べたように、あの面接はわたしの経験ではありますが、実は世界中の多くの女性がこれと似たような経験をしています。もしかして似たような経験を男性もいるでしょうし、もしかしたら、あの面接官と似たような発言してしまったことに心当たりがある人もいるかもしれません。

このように、「似たような経験がたくさんある」ということは、つまり、わたしひとり、個人の問題ではなくて、社会の構造の問題だということです。そして、性差別的な考え方によって傷つけられたり、可能性を奪われたりするこの社会の構造は、残念ながら現在も温存されています。

そこで本書では、「差別的な考え方によって傷つけられたり、可能性を奪われたりすること」を減らしていくために、あえて、このような経験に引きつけて、アートを読み解く力を獲得していくことを提案しています。

フェミニズム・アーティストの代表格
シンディ・シャーマンの意図

例えば、本書『アートとフェミニズムは誰のもの?』で紹介したシンディ・シャーマンの「Untitled Film Still」シリーズは、フィルム・ノワールやB級映画で繰り返し登場する、いかにもこれからひどい目にあったりしそうな不穏さをまとった女性をシャーマンが自ら演じて、映画の宣伝等で使われるスティル写真のスタイルで表現したシリーズです。この作品について、シャーマンは「私は自分について名乗ったり、明らかにしたりするよりも、自分自身を消そうとしています」と語っています。

自ら演じることで自分自身を消そうとするというのはどういうことでしょうか。

ここで思い返して欲しいのが、冒頭でお話しした私が経験した面接のエピソードです。

例えば、あの面接のとき、わたしに求められたのは、「もの言わぬ使いやすい女子社員らしさ」であり、「わたし自身」は全く求められていませんでした。求められていないどころか、おそらく、そこで採用されるには、自分を消して、「もの言わぬ使いやすい女子社員らしく」振る舞わなくてはならなかったのでしょう。不器用なわたしにはそんなことは全然できませんでしたが……。

このような面接という場面に限らず、人はときどき、自分を消さなくてはいけないと感じることがあります。とりわけ女性は、時にジェンダーによって母親らしさ、妻らしさ、女子学生らしさなど、女性にはさまざまな「らしさ」が求められることがありますし、多くの女の子が幼少期には「女の子らしくしなさい」と言われた記憶があるのではないでしょうか。

シャーマンの作品は、このように多くの人、特に女性は「求められる役割」を要求されることで「自分」であることを消し去らなければいけない経験に引きつけて考えることができます。

シャーマンは、映画をはじめとする視覚芸術のなかで、女性が常に似たような役どころを与えられ続けてきていること、そして、それは男性中心主義の社会が作り出したステレオタイプな女性像を反映したものであることを指摘しようとしました。

「Untitled Film Still」シリーズの制作のなかで行われたのは「男性中心主義の社会が作り出したステレオタイプな女性像」によって、自分自身が消されてしまう経験の再演だったのです。

このように、あるアート作品を、性差別的な社会の構造、そして、そのなかで生じる経験やできごとを通じて読み解く方法をフェミニズム批評と言います。このことによって「アートを暮らしに引き付ける」ことができ、これが、アートの入門の手助けをしてくれるんじゃないかというのが、著者の考えであり、アートの入門書でフェミニズムを使うことの理由です。アートを生活や日々の暮らしにに引き寄せるためのツールとしてのフェミニズム。これを本書から受け取って、そして広めていただければと思っています。

次回(後半)は、そもそもなぜアートを暮らしに引きつけて読み解く必要があるのか?ということ、つまり、本書で主張するアートの効用について、考えてみます。

目次

第1章 アートがわからない
第2章 フェミニズムもわからない
第3章 アートをフェミニズムで読み解く
第4章 フェミニズムをアートで実践する
終 章 アートとフェミニズムをみんなのものに

著者プロフィール

村上由鶴(むらかみゆづ)
1991年、埼玉県出身。日本大学藝術学部写真学科助手を経て東京工業大学環境・社会理工学院 社会・人間科学コース博士後期課程在籍。日本写真芸術専門学校非常勤講師。公益財団法人東京都人権啓発センター非常勤専門員。共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(フィルムアート社)。POPEYE Web「おとといまでのわたしのための写真論」、The Fashion Post「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎plus「現代アートは本当にわからないのか?」を連載中。写真やアート、ファッションイメージに関する執筆や展覧会の企画を行う。専門は写真の美学。

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