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「つい・うっかり結婚」が50年続いた理由|下重暁子

「結婚するつもりもなかったし、結婚したいとも思っていなかった」と語る下重暁子さんは、「自分のことは自分で養って生きていく」と決めたのは小学3年生、9歳のときだったと言います。また、下重さんがNHKのアナウンサーをしていた昭和30年代は「24歳が適齢期」と言われ、当時、下重さんにもさまざまな紹介がもたらされたそうです。しかし、結婚願望がなかったにもかかわらず、36歳で結婚。「すぐに別れるだろう」と思われた結婚生活は、その後、50年続くことになりました。熟年離婚が増える中、長く続いた結婚生活を支えたものは何だったのでしょうか。新刊『結婚しても一人』の発売を機に本書の一部を紹介し、その秘訣の一端に触れてみます。

50年続いたのは
約束も束縛もなかったから

朝日新聞によると、20年以上同居した「熟年離婚」の割合は21・5%に上り、統計のある1947年以降で過去最高になった(2022年8月24日)。

そういう時代のすうせいがあるものの、私たちの結婚生活は今年、50年を迎えた。数字を聞くと自分でもおののくが、ふと気づいたら50年、というのが素直な実感である。

結婚したからには死ぬまで添い遂げよう、と約束するカップルもいるようだが、私たちに限って言えば、結婚に際して「約束」は一切しなかった。

私は人とめったに約束しない。一般に、自分を縛るものが結婚であるがゆえに、結婚を嫌悪していた。他人に、自分の立場を保証してもらわねばならないなど、情けないではないか。

結婚にあたり、何の約束もしなかったからこそ、つまり、互いを縛るものが何もなかったからこそ、私たちはまだ一緒にいるのかもしれないと思っている。

結婚したいと望む編集者の女性がいる。
この本をまとめるにあたり、「結婚」について、周囲の知り合いや編集者たちとさまざまなディスカッションをおこなった。とくに、私とは見解や生き方、世代の違う人間の意見に私は耳を傾けた。10人いれば10人の「結婚観」があるはずである。

この本では、その一部ではあるが、多様で移りゆく結婚観を浮き彫りにしたいと考えた。多様ななかにも、これが結婚の正体と言えるような「何か」があるのか、ないのかを見ていきたい。

また私は新聞の切り抜きからさまざまなヒントを得るので、「結婚」にまつわるデータも収集している。こうした客観的データも、結婚を考える上では参考になるだろうから、この本では折に触れて紹介していく。

さて、「結婚したい」という気持ちが私にはよくわからないのだが、現代は未婚・非婚が進む一方で、「婚活」(結婚相手を探す活動)という言葉が広がったように、結婚を望む男女も多くいる。そして、その切実度は昔よりも高まっているようにも感じられる。

結婚したいと言う知人女性は結婚を「約束」であり、関係性の「固定」であると形容する。約束や固定は「安心」を生む。だから結婚がしたいのだと。裏を返せば、約束や固定のない関係性は流動的であり、自由であるが不安であると。

この考えを理解はするが、私はそうは考えない。

むしろ反対で、約束はうつとうしいし、人間関係は固定したら面白くない。一人で不安な気持ちはわかるし私にもあるが、究極的に言えば、自分の不安は、夫婦であろうが親であろうが友人であろうが、他人が解決できるものではないのだ。

〝約束も束縛もない結婚〟だったから、私とつれあいはいまも続いている。

無論、離婚を否定する気持ちはまったくない。結婚するもしないも、離婚するもしないも、すべて個人の自由である。日本は制度が遅れているが、同性婚をはじめ、結婚のかたちも自由であるべきだと私は考えている。

共同生活が「思いやり」を育む

「なぜ結婚したのですか?」

これまでの人生で、この質問を何度受けただろう。

当然ながら答えはいつも同じなのだが、とはいえそれは、一つではない。
結婚したことのある方には同意いただけると思うが、必然と偶然が交ざり合い、さまざまな要因やタイミングが重なって、人は結婚に至るものではないだろうか。
生活の大切さに気づかされたことに加えて、もう一つ、私には、人と生活することも必要だと思う理由があった。それは私の生育環境に起因している。

すでにいろんな本に書いたり話してきた通り、私は幼少期、結核になって、2年間、学校にも行けず、疎開先で寝ているしかない生活を送っていた。身の回りのことはすべて母やねえやが世話をしてくれるという、甘やかされた生活を送らざるを得なかった。
さらに、私には兄がいたが、この兄と父の折り合いが悪く、このままでは何か事件が起きるに違いないと心配した母は、兄を東京の祖父母に預けた。その結果、父の赴任先である大阪で、私は一人っ子同然で育つことになった。

そうした生活は、客観的に見て、我がまま放題だったと思う。それでなくても女の子が欲しくて仕方のなかった母は、もとより〝暁子命〟だった。
よって私には、人としての訓練ができていないという自覚があった。何時間でも一人で快適に過ごすことができる反面、人とどう付き合えばよいか、どのくらい人に深入りしてよいかがわからなかった。大人になるにつれ、人との距離感を学んでいったが、学生時代はつらい思いをした。

いや、いまでも私は、人の気持ちがわからないままかもしれない。自分勝手で、人が自分をどう思っているかにほとんど関心がない。この性質は「個」を確立することに大きく寄与した反面、思いやりのない人間に育ったという自覚もある。

「人の気持ちに鈍感すぎる」と、よく怒られたものだ。早稲田大学で同級生だった芥川賞作家の黒田夏子さんに、そう言われたこともあったし、親しくしていただいた大島渚監督に、「あなた自身が思っている以上に、たくさんの人に愛されているんだよ」と諭されたこともあった。

そういう私だったからこそ、共に暮らす人ができたことで、少しは人を「思いやる」気持ちがはぐくまれたと思う。

一人で暮らしていれば、自分についてだけ考えていればよい。

しかし、一つ屋根の下に、自分以外の人間がいれば、否応なく、相手の立場やその日の状態などを思いやるようになる。朝起きて、相手の顔色が悪ければ、体の調子が悪いのではないかと心配する。連日帰りが遅ければ、仕事が忙しい時期なんだなあ、あまり無理はしないでほしいと、口に出さなくともどこかで気に留めている。

相手を思いやるのは、相手が自分の夫だからではない。家族であるからではない。身近な他人だからだ。そして、身近な他人を思いやる気持ちを持つことで、もう少し遠い他人をも、思いやることができるようになっていくものだ。

だから私は、人と暮らすことは大切だと常々言ってきた。相手は男性でなくとも、女性でもいいし、二人でなくとも、三人でも四人でもいいだろう。

最近は、気の合う仲間とシェアハウスで暮らす若者が増えているという。老後は友人とシェアハウスで助け合って生活したいと言う独身編集者もいる。それは新しい家族の在り方かもしれない。

私もつれあいも、互いにある程度の「思いやり」を持っているが、「関心」は持っていない。相手の気持ちを「想像」はするが、あくまでも違う人間なのだから「理解」はできないとあきらめている。

一緒に暮らしているのだから、相手のことをよく理解しているでしょうと言われることがある。とんでもない、と思う。夫をよく理解している妻、妻をよく理解している夫が世の中にはいるのかもしれない。だが、突き詰めていくと、疑わしいのではないだろうか。よくわかっている「気がしている」だけなのではないだろうか。

そして、それでよいと私は思う。

これが私たちが50年間、共に暮らしてきた秘訣かもしれない。

目次

第1章 なぜ私は結婚したのか
第2章 昔の結婚 今の結婚
第3章 離婚する道 しない道
第4章 結婚と子ども
第5章 私の矜持

著者プロフィール

下重暁子(しもじゅうあきこ)
1959年、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。同年NHKに入局。アナウンサーとして活躍後、’68年フリーとなる。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。公益財団法人JKA(旧:日本自転車振興会)会長、日本ペンクラブ副会長などを歴任。現在、日本旅行作家協会会長。『家族という病』『極上の孤独』(ともに幻冬舎新書)、『はがねひと 最後の・小林ハル』(集英社文庫)、『人間の品性』(新潮新書)、『孤独を抱きしめて 下重暁子の言葉』(宝島社)など著書多数。

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