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99歳の元搭乗員が語る、山本五十六の戦死

80年前(1943年)の今日4月18日は、山本五十六が太平洋戦争中の「海軍甲事件」で戦死した日です。国民的人気を誇った海軍大将の死は日本に暗い影を落とし、戦局をも左右する出来事でした。通説では、この事件では五十六を載せた機体ともう1機の計「2機」が飛んでいたとされています。
しかし、その説を覆す証言が。99歳(当時18歳)の青木藏男さんの証言によると、五十六長官の機体が離陸してから30分後、自分たち「3番機」が飛んでいたというのです。いったい、どういう背景があったのでしょうか…?
4月19日(木)発売の光文社新書『山本五十六、最期の15日間』(池田遼太/著 <語り>青木藏男)より、冒頭部分を掲載いたします。

プロローグ

「あの海軍甲事件で山本五十六長官が撃墜された時、私は1番機、2番機に続く『3番機』の搭乗員として、長官と同じ空を飛んでいたんです」

私がこの話を聞いたのは、令和元年9月のことだった。

当時の私は文学部歴史学科の大学3年生であった。子どもの頃から歴史が好きだった私は、大学でも日本近現代史を専攻し、卒業論文の題材として太平洋戦争を選んだ。そして自分の知見を深めるべく様々な戦争体験者の証言を聞いて回っており、そのフィールドワークの一環として、私は神奈川県に在住の青木藏男という人物の元を訪ねていた。

青木さんは大正12年5月4日、茨城県で生まれた。幼少期より飛行機に強い憧れを持ち、昭和13年に海軍に入隊、駆逐艦「響」乗組員を経て、昭和15年9月に転科試験に合格、偵察練習生49期となった。太平洋戦争開戦時は第六航空隊(第二〇四海軍航空隊)に所属し、輸送機の電信員としてラバウルに進出し、ソロモン諸島の激戦を経験した。部隊の解散後は横須賀に戻って海軍航空技術廠飛行実験部のテストパイロットとなり、「彗星」「天山」「銀河」「白菊」「深山」「連山」など、数多くの機体に搭乗した経験を持っている。

96歳という高齢でありながら、足腰もしっかりしており、記憶も明白で言葉も淀みがない。戦後76年を経た青木さんはかくしゃくたる好々爺になっていた。まだ20歳になりたての大学生に過ぎなかった私を、青木さんはひ孫を見るような目であたたかく歓迎してくれた。

青木藏男さん。令和2年2月、2回目の証言聞き取りに訪れた際に。

「とにかくその4月18日の出来事は忘れられません。先行した長官の1番機・参謀長の2番機が米軍機に撃墜され、私たちは奇跡的に襲撃を受けずに済みました。3番機はそのまま何事もなくブインへと着陸しましたが、降りた先ではみんなに長官の1番機と間違われましてね。ハハハ……」

海軍甲事件とは、太平洋戦争中の昭和18年4月18日に発生した事件のことである。大日本帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六大将が、日米の最前線となっていたソロモン諸島で、最前線を視察するためラバウルからブインへ移動中、搭乗していた機体をアメリカ軍の戦闘機に撃墜されて戦死した。これ以降の日本の戦争指導に重大な悪影響を与えた事件であり、ミッドウェー海戦やガダルカナル島(ガ島)の戦いなどを含め、太平洋戦争における一つの転換点といわれることも多い。

この事件では、五十六が搭乗した1番機、宇垣纏参謀長が搭乗した2番機、合わせて2機の一式陸上攻撃機が襲撃され、1番機はブーゲンビル島南端のモイラ岬付近に、2番機は海上へと不時着した。その結果、1番機の搭乗員11名は全員戦死し、2番機は12名中9名が戦死、宇垣参謀長ら3名のみかろうじて生存するという惨事となった。

通説では、海軍甲事件において登場する陸攻は2機だけである。事件を取り扱った多々ある先行研究の中でも、「3番機」が存在したということを書いているものは何一つ存在しない。果たしてこの話は真実なのだろうか。証言の信憑性に疑問を感じていた私に、青木さんは一冊の資料を手渡してくれた。

青木さんが所持していた航空記録。搭乗員の個人記録であり、月1回ごとに上官への提出が義務づけられていた。主に自身の履歴証明や危険手当の支給といった各種手続きに使用された。

「私の持っている航空記録です。今はもう、私の海軍時代の経歴を証明するただ一冊の手帳ですが、ここに私が『3番機』として空を飛んでいたことが書かれていますよ」

「航空記録」とは海軍の搭乗員が携行していた履歴書で、毎日の飛行時間や任務、搭乗した機体の番号、さらには累計飛行時間などを記録した個人資料である。

戦後の長い月日を経てボロボロに劣化し、持つだけで壊れてしまいそうな手帳であった。青木さんがページをパラパラとめくり、昭和18年4月18日の項を指し示す。そこには、青木さんが搭乗した輸送機の詳細な飛行時間と機体番号、そして「山本長官死亡」の文字が、鉛筆でハッキリと書かれていた。
青木さんが言っていることは、どうも本当のことらしい。先の戦争からもう75年以上が経っているために、オーラルヒストリーで語られるエピソードは慎重に考証を重ねなければならない。しかし当時の資料が残っているなら、その信憑性はぐっと上がる。

『航空記録』より、昭和18年4月18日の部分。ラバウル―ブイン間を往路2時間10分、復路1時間50分で飛行したことが分かる。他の日付を見ると、普段はラバウル―ブイン間を約2時間20分で飛行しているため、事件当日はかなりのスピードを出してラバウルまで帰投したことが窺える。

そこで、アジア歴史資料センターから当時の史料を探してみると、二〇四空輸送機隊の飛行機隊戦闘行動調書が見つかった。その昭和18年4月18日の項には、他の搭乗員の名前に混じって青木さんの名前が記されており、書かれている内容も青木さんの航空記録と完全に一致していた。

もはや一連の証言は事実として認めざるを得なくなった。長官を乗せた1番機、参謀長を乗せた2番機の他に、そのすぐ後ろを飛んでいた幻の3番機が存在していたのである。機体番号は「T2―902」、機種は旧式の九六式陸上攻撃機を輸送機型に改造した「九六式陸上輸送機」だと分かった。

青木さんとはその後も交流を持ち、事あるごとに家にお邪魔して話を聞きに行った。ラバウルの話題や青木さんとペアを組んでいた搭乗員の名前を挙げると、青木さんの目はみるみると輝きを取り戻し、生き生きと当時のことを語ってくれた。

繰り返し証言を聞いていく内に、私はこの「3番機がいた」という事実を、もっと大きく取り上げるべきではないかと考えるようになった。しかし、ただ事実を明かすだけでは意味をなさない。「3番機」には一体誰が乗っていて、どういう経緯で事件に巻き込まれたのか、そして誰が3番機を加えることを命じたのか、ということを調べなければならない。この重大な謎を解くためのキーパーソンとして、私はある人物のことを自ずと思い浮かべていた。山本五十六である。

山本五十六を知る。

五十六といえば、歴史に明るい人なら誰もが名前を知っている有名人である。太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃を立案した名提督。アメリカ駐在期間の経験から、日米開戦に反対していた先見性のある軍人。寡黙でカリスマ性があり、部下の人心を掌握する術に長けていた統率者。彼に対するエピソードは膨大な量に上り、いちいち挙げればそれこそ紙面を埋め尽くすほどにもなるだろう。

知識も経験も浅い、若い世代の私にとって、「山本五十六を知る」ということは途方もない難事業のように思えた。彼はもう、研究され尽くした歴史上の偉人だった。

だが、それでも丹念に調査を続けていく内に、私はあることに気がついた。海軍甲事件と五十六の最期についても、色々と謎が多いのだ。

五十六の遺体発見や検死解剖の状況、暗号解読の話など、海軍甲事件で検証すべき事柄は多岐にわたるが、その中で私が最も注目したのは、なぜ五十六は危険を冒してまでソロモン最前線の視察を行ったのか、という根本的な問題だった。

通説では、五十六はソロモン諸島の最前線で寡兵よく敢闘を続ける航空機の搭乗員に対し、督戦激励する意味を込めて視察を決定した、といわれている。しかし、連合艦隊司令長官が米軍の攻撃を受けるような最前線まで、わざわざ将兵の士気を高揚させるためだけに、リスクを承知で出かけていくことは非合理的である。必要以上の精神論をきらい、理屈と合理性を重んじる五十六の性格からして、彼がそんな無謀なことをするとは考えにくかった。

五十六はなぜ危険な最前線への視察を決断したのか。謎を解く手がかりは、昭和18年4月3日から五十六が作戦指揮のために滞在していたラバウルにあった。彼がラバウルに着任してから戦死するまではわずか2週間あまり。この非常に短い時間の中で、五十六は何を思い、何を決断したのだろうか。その答えこそ、青木さんが乗っていた「幻の3番機」の謎と密接に関わっていたのである。

私は、そんな山本五十六の知られざる最期の15日間に光を当てることにした。

目次

プロローグ
第1章 山本五十六、ラバウルへ
第2章 白装束の偶像
第3章 僕もショートランドへは行きたいからね
第4章 宇垣の入院
第5章 巡視計画の真意
第6章 過ぎゆく日々
第7章 野豚狩り
第8章 出発前夜
第9章 機上の人
第10章 悲劇と混乱
第11章 喪失
エピローグ
あとがき
参考文献

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