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バブル崩壊と「J-POP」の誕生|佐々木敦『90年代論』第2回

バブルは本当に崩壊したのか?

 まず、あらためて確認しておきましょう。日本のいわゆる「バブル景気」が弾けたのは、1990年3月の総量規制が引き金だとされています。90年代が始まって2ヶ月ほどしか経っておらず、ほんの少し前まで日本経済は栄華を極めていたわけですから、バブル崩壊を証し立てる事象はすでに続々と出てきていたのにもかかわらず、多くの人々にとって、戦後最大の好況期であった「80年代」は続いていました。多少雲行きが怪しく見えたとしても、たぶん大丈夫、まだまだいけると皆が漠然と信じていたのです。

 当時私は、現在の六本木ヒルズの端っこ、六本木通りに面していた「シネヴィヴァン六本木」という映画館で働いていました。シネヴィヴァンはセゾングループ(西武百貨店社長の堤清二ーー作家で詩人の辻井たかしとしても知られるーーが率いていた当時の流通最大手の企業グループ。80年代には多角的な文化事業を展開していた)系列のミニシアターで、開館は1983年。六本木WAVEという同時にオープンしたビルの地下1階にあり、地上1階から4階までは「WAVE」というセゾン系のレコードショップ(1階には武満徹の曲から店名を取った「雨の木(レイン・ツリー)」というカフェバーがありました)、その上にはSEDIC(西武デジタルコミュニケーション)という最先端の映像・音響スタジオもありました。私はシネヴィヴァンに1987年から1991年までの丸4年間、週6日勤務していました。同館の閉館は1999年なので、バブルから90年代を駆け抜けたミニシアターだったということです(ちなみに私がシネヴィヴァンで働いていた頃、すでに森ビルによる再開発の話は聞いていました。誕生するのは10年以上後ですが)。

 つまり私はバブル崩壊後もまだしばらく六本木でほぼ毎日働いていたわけですが、特に目立った変化は感じられなかったように思います(1990年の春以降、街の雰囲気が変わっていった記憶はありません)。当時の六本木の盛り場はアメリカ人が非常に多く、平日の夜も遅くまで賑わっていました。今は「文喫」になっている場所には「青山ブックセンター」があり、深夜四時までやっていました。まだ東京タワーが東京最高のランドマークだった頃の話です。六本木はかなり特殊な街ですが、あとで見るように、たとえば渋谷も、むしろ90年代に入ってから「若者の街」としての活況を更に強めていくことになります。

 端的に述べてしまうと、私の個人的な記憶や実感だけではなく、とりわけ広い意味での芸術、文化、カルチャーにおいては、90年代の前半は「80年代」の延長だったと思います。戦後最高の好景気がもたらした浮き足立った空気感が、まだ続いていたということです。その後に「失われたX年」と呼ばれる暗黒の時代が待っているとは、ほとんど誰もわかっていませんでした。そして先走って言えば、そんな「祭りの延長」とでも呼べるような雰囲気を断ち切ることになるのが、1995年に起こった二つの出来事ーー阪神・淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件ーーだったのです。

 祭りはまだ終わってなどいない、明日になれば、また音楽が流れ始め、人々が群れ集って踊り出して、皆が笑顔になって、それがいつまでも続く……もちろんこれは現実を見据えない願望でしかありません。明るく豊かで賑やかだった「80年代」が終わって欲しくない、祭りの終わりを認めたくない/認められないという無意識は、バブル崩壊の後も隠然と機能し、さまざまな影響を及ぼすことになります。私見では、それが最も顕著に表れたジャンルが音楽だったと思います。

「いかすバンド」はどこにいる?

 1989年2月、TBSの深夜枠で『三宅裕司のいかすバンド天国』という番組(実際には『平成名物TV』という深夜番組のコーナーの一つ)が始まりました。略称『イカ天』は1990年12月末に終了したので放送期間は2年足らずだったのですが(その後かなり経ってから「復活」しましたがここでは割愛)、毎週、アマチュアバンドが複数出演して生演奏を披露し、審査員たちによって選ばれたチャレンジャーが前回の「イカ天キング」に挑戦、勝てばそのバンドが新たなキングとなり、5週勝ち抜くと「グランドイカ天キング」としてメジャーデビューが約束される、という番組内容が全国的な人気を博し、多彩なイカ天出身バンドを輩出しました。日本の地上波テレビには、1971年から1983年まで12年の長きにわたって日本テレビ系列で放送された『スター誕生!』、そのこうえいで80年代のお笑いブームの波に乗って1980年から1986年まで続いた『お笑いスター誕生!!』、そして『イカ天』の後には、追って詳しく触れるテレビ東京の『ASAYAN』など、公開オーディション番組の長い歴史があるわけですが、『イカ天』は「バンド」にフォーカスしたのが新しかったと言えるでしょう。もちろん、こんな企画が成立するには前提条件がありました。いわゆる「バンドブーム」です。

 1988年にJICC出版局(現在の宝島社)が創刊した「BANDやろうぜ」、同年にCBS・ソニー出版(のちのソニー・マガジンズ)が創刊した「WHAT's IN?」など、邦楽ミュージシャンやバンドに焦点を絞った雑誌が80年代後半に続々と出現していました。日本の音楽受容は、80年代初期のテクノ~ニューウェーヴからマイケル・ジャクソンやマドンナ、シンディ・ローパーなどアメリカの超メジャーアーティストの世界的な成功(これには1981年に開局した音楽専門ケーブルテレビ局「MTV」の貢献が大きい)、ほぼ80年代を通してテレビ朝日で放送されていた小林克也MCの洋楽紹介番組『ベストヒットUSA』などの影響によって80年代後半には一般層にも浸透していた「洋楽」人気への一種の反動として、またスタイル的にはイギリス由来のニューウェーヴから分岐したと言ってもよい「ヴィジュアル系」の勃興もあいって、80年代末~90年代頭には「邦楽」への揺り戻しが起こっていました。今から思うと、それは紙媒体(雑誌)と波媒体(テレビ/ラジオ放送)と音楽産業(レコード会社)が一体となったメディアハイプの感もなくはないのですが、現在では日本以外の非西欧圏のポピュラー音楽のグローバル化によって完全に無効化されてしまった「邦楽/洋楽」という二項対立のこの時期の押し引きには、これから見ていくように興味深いねじれがあります。

コンペティションのジレンマ

 ともあれ、こうした背景の中で惹起していたバンドブームが『イカ天』のような番組を誕生させ、そして『イカ天』がバンドブームの更なる燃料になっていったわけです。だが、先にも述べたように、実際にはこの番組は2年も続きませんでした。その事情はわかりませんが、私の推理としては、アマチュアバンドのコンペティションという形態が足枷になったのではないかと思います。『イカ天』という番組が成立するためには、日本のあちこちに無名のアマチュアバンド、インディーバンドが多数存在していて、彼ら彼女らがメジャーのレコード会社からのデビューを望んでいるという状況が必要です。もちろん現実にもそうだったのですが、テレビ番組での生演奏に耐えるためには、そのバンドが『イカ天』に出場する時点で、ある程度以上「仕上がっている」ことが条件になります(出場者にはレベルの低いバンドも居ましたが、どんぐりの背比べ的にましなだけではない、それなりの実力と魅力を備えたバンドが皆無では番組になりません)。しかしそれは詰まるところデビューが決まった時点でバンドとして一定の「完成形」になっているということでもあります。番組企画の最終的なアウトプットを担うレコード会社としては、そのような即戦力が幾つも出てくれば大成功と言えますが、それはレーベル側の関与による変化や成長の阻害要因にもなりかねません。変に変えたりしたら番組を通してそのバンドのファンになった人たちの不評を買いかねない。また、名だたる音楽評論家を中心とする審査員たちは、当然ながらこれまでになかった新しいタイプのバンドを世に送り出したいので、結果として大衆性よりも個性が重視されやすい。このことは歴代イカ天キングを見てもわかります。グランドイカ天キングが、FLYING KIDS、BEGIN、たま、マルコシアス・バンプ、LITTLE CREATURES、BLANKEY JET CITY、PANIC IN THE ZU:(放送当時はパニック・イン・ザ・ズゥ)。5週勝ち抜きは出来なかったがキングになったバンドには、JITTERIN'JINN、セメントミキサーズ、突撃ダンスホール、宮尾すすむと日本の社長などがいて、説明は省きますが、かなりユニークな顔ぶれです。オーソドックスなロックを奏でるバンドは少数派で、バンドとはいえヴァラエティに富んだ音楽性を有する人たちが高い評価を受ける傾向が高かったのです。番組初期の熱気もあってBEGINやたまのデビュー曲はヒットしましたが、以後、メジャーな人気を得るに至ったのはブランキーぐらいで、他はどちらかと言えば(いい意味で)マニアックなバンドです。放送の後期になると比較的(いい意味で)普通のバンドも増えてきますが、日本の音楽シーンを一変させるほどの大成功を収めるバンドが出てこなかったこと(それはむしろ『イカ天』以外のヴィジュアル系から登場していました)は番組存続という意味では厳しかったのかもしれません。逆に言えば、もう少し後まで『イカ天』が続いていたら90年代の日本の音楽シーンの地図は多少違うものになっていた可能性もあります。

 これもかなり大雑把な印象でしかありませんが、イカ天バンドは音楽性はさまざまなものの、どちらかと言うと「洋楽」的要素が希薄だったとも思います。もちろん例外はありますし、表面的にはそう思えなくとも根っこには洋楽的センスが確固として存在しているバンドも居たと思います。しかし明確な洋楽志向はクリーチャーズくらいではなかったかと。この傾向性も時代を反映していたと言えるかもしれません。

「J-POP」の誕生

 『イカ天』の放送期間中に、日本の音楽シーンにはある(後から思えば)大きな変化を齎す出来事が生じていました。「J-POP(Jポップとも)」というワードの誕生です。

 私は1960年代末から2023年頃までの日本のポピュラー音楽の歴史を通覧した『ニッポンの音楽』(2014年、増補・決定版2023年)の中で、「J-POP」という言葉が生まれ、人口にかいしゃするに至ったプロセスと、その余波(?)について考察しました。以下、拙著をリライトしつつ、現時点からの視点も入れて記してみます。

 「J-POP」という言葉の最もよく知られている誕生エピソードは「J-WAVEが作った」というものでしょう。J-POPの基本文献として非常にしばしば参照されている弘道の岩波新書『Jポップとは何か―巨大化する音楽産業』の最初に、J -WAVEが「Jポップ」という言葉を最初に作ったという話が出てきます。

 J -WAVEは、1988年の10月1日に開局したFM放送局です。開局当初のコンセプトは、既存のAM/FM放送との差異化をはかって、ラジオ番組の基本である喋りの要素を極力無くして、音楽を、しかも洋楽ばかり掛け続ける、というものでした。有名な海外アーティストの新譜が出ると一枚丸ごと流してしまうようなことも行なわれていました。J -WAVEは日本で最初に「洋楽専門」を打ち出したラジオ局だったのです。とはいえ、それでも100%洋楽オンリーというわけにはいかないところもありました。人気洋楽アーティストの日本盤をリリースしているレコード会社は邦楽も出していますから、付き合いという点でも、やがて局としてのポリシーを守りながら日本の音楽をどうすれば紹介出来るのか、という問題が生じてきました。

 『Jポップとは何か』には、当時のJ-WAVEの社長がレコード会社の人間を集めて会議をする場面が描写されています。そこでは、どんな邦楽なら流せるのかという点が議題に上りました。開局当初から洋楽専門局としてのアイデンティティを強く打ち出していたので、日本の音楽を流すためには何らかのエクスキューズと方向付けが必要になったのです。『Jポップとは何か』によると、その会議では「どんなミュージシャンの作品をかけるのか。そのコーナーにどんな名前を付けるのか」、更にナレーションが基本的に英語だったので「英語の語りの中で『日本のポップス』をどう呼ぶのか」ということが議論されたそうです。

「ジャパニーズ・ポップス」は長すぎてアナウンスしにくいし、直訳にすぎる。「ジャパン・ポップス」では「和製ポップス」と大差がなく、芸がない。「都会的な音楽」ということで「シティ・ポップス」「タウン・ミュージック」という案も出た。いくつかの案がボツになったところで、誰かが言った。
「ジャパン・ポップスにしてもジャパニーズ・ポップスにしても「J」は同じなんだから「Jポップ」でいいんじゃない? 短い方がいいよ。ラジオで言いやすいし。第一、ここはJ -WAVEだし。「Jズ.リコメンド」とか、いろいろ「J」にひっかけて名前を作れそうじゃないか」
「Jポップ」という名前が生まれ落ちた瞬間である。同席者からは苦笑が漏れた。「Jポップ? 何だ、そりゃ?」と。関係者の記憶ははっきりしないが、八八年末から八九年初頭のことだ。

(『Jポップとは何か―巨大化する音楽産業』)

 おおよそこのような経緯を経て、J -WAVEで日本の音楽を流す際に「J-POP」という言葉が使用されるようになったようです。いわば「J-POP」命名神話ですが、しかし当時新興のFMラジオ局に過ぎないJ -WAVEが「J-POP」という言葉を使い出したからといって、それがすぐに広まったわけではありませんでした。「J-POP」が現在のように誰もがごく普通に使う言葉になったのは、もう少し後のことです。

「邦楽の洋楽化」ではなく「洋楽の邦楽化」

 J -WAVEの「J」、J-POPの「J」とは、もちろん「JAPAN」の「J」であるわけですが、J -WAVE開局の少し前から、それまでは「日本なんとか」といった漢字だった名称を「J~」に変更する動きが連続して起きていました。J -WAVE開局の前年、1987年の4月に国鉄が「JR」に改称していますし、その2年前の1985年には日本タバコ株式会社が「JT」になっています。このような「J」現象の決定打になったのは、何と言っても1993年3月に発足した「Jリーグ」だと思われます。Jリーグのスタートによって日本ではサッカーの一大ブームが巻き起こりました。これによって「J」という言葉があちこちで頻繁に用いられるようになり、その波に乗って誕生から4年ほどが過ぎていた「J-POP」という言葉も日本全国に流通するようになったのだと思われます。つまり「J-POP」という言葉を作ったのはJ -WAVEだったが、それを日本中に拡散させたのはJリーグ・ブームだったということです。90年代半ばには「J-POP」という言葉は、ほぼ現在と同じような使われ方が定着していました。

 J -WAVEが作った「J-POP」という言葉は、『Jポップとは何か』を読む限り、単に「ジャパニーズ(もしくはジャパン)・ポップス」の略称にすぎません。日本語に戻せば「日本の大衆音楽」です。J -WAVEは、れっきとした日本の放送局でありながら、基本的に洋楽しか流さず、DJは英語を喋っている特殊なラジオ局です。そこから聞こえてくる日本の音楽は「邦楽」や「歌謡曲」であってはならなかった。そこでこしらえられたのが「J-POP」だった。この命名、言い換えは、それ自体極めて「日本」的なものだったと思います。

 J -WAVEのDJは英語で喋っていたけれど、リスナーの多くは英語をさほど聞き取れていなかったと思われます。それは洋楽の日本における受容においても同様だった。かつての(今でも?)日本人の洋楽ファンの大半は、英語曲の歌詞を耳だけでは理解出来ず、もっぱら歌詞カードで対訳を読むことで、その曲で何が歌われているのかを知っていた。この意味で歌詞対訳やライナーノート(解説)が附された日本盤(国内流通盤)は意味を持っていました。日本の音楽市場は少なくともある時期まで、英語をほとんど解さないまま、英語の音楽を大量に受容していた。これは極めて特殊な現象だったと言えます。ニッポンの音楽をJ-POPと言い換える変換回路には、この時代背景が深く関わっています。日本のポピュラー音楽の発展の影響源はーーおおよそ60年代から90年代半ばくらいまではーー日本の「外部」にありました。しかしそれが「内部」で機能するためには、いわば「内部」と「外部」をクラインの壺のように無限循環させるようなことが必要だった。「邦楽の洋楽化」ではなく「洋楽の邦楽化」が、日本という「内部」に留まったまま「外部」を取り入れることが必要とされたのです。この回路を端的に表しているのが「J-POP」という言葉の誕生のメカニズムだった。ある時期以降の、そしてある時期までのニッポンのポピュラー音楽の礎になっていたのは英語で歌われる横文字の音楽です。国鉄がJRになったり日本タバコがJTになったり農協がJA(1992年)になったり「日本の大衆音楽」が「J-POP」になったりするのは、要するに横文字化です。「J」という記号は、世界の中の日本、海外から見られた日本、といった国際感覚(のようなもの)を表すと同時に、日本人の生活や文化に「横文字」が急激に入り込んできた戦後のプロセスの完成形でもあった。「J」の誕生時期はバブル景気の真っ只中です。「J」とは、経済発展と国際化を突き進み、一時期はアメリカを脅かすまでになっていたバブル時代の日本を象徴する記号だった。そしてバブルが崩壊してしまった後は、それは今度は刻々と失われてゆく日本(人)のプライドが倒錯的に込められた頭文字になっていったのではないかと。

「J」への回帰

 時代が飛びますが、浅田彰がPHP研究所発行の雑誌「Voice」の2000年3月号に「「J回帰」の行方」という文章を寄せています。次のように始まります。

 2000年になって振り返ってみると1990年代の日本文化を「J回帰」という言葉で特徴付けられるのではないかと思う。J? JAPANのJである。

(「「J回帰」の行方」)

 「それは「J-POP」というネーミングから始まった。中身は「洋楽」に対して「邦楽」と呼ばれていたものと大差ない。ただ、「J-POP」というと、いかにもポップな、しかし日本的で身近な感じがする、というわけだ。それに追随したのが「J文学」である」と浅田は続けています(「J文学」については後の章で触れます)。浅田は90年代の福田和也、さわらあずま浩紀といった批評家の仕事を「J批評」と呼びます。フランス文学者だった福田、先端的な海外アートの紹介者だった椹木、ジャック・デリダ論でデビューした東のいずれもが、ある時から日本文化への転回=回帰を遂げたと、浅田は指摘します。

 そこからは、80年代のポストモダニズムは、日本という条件を忘れた表面的なコスモポリタニズムとして批判されるのである。
 繰り返すが、このような日本回帰の対象は、あくまでもサブカルチャーや「おたく文化」の日本なのであって、伝統の日本ではない。その意味で、それは「J回帰」と呼ぶにふさわしいだろう。

(同)

 このような「J回帰」の理由について、浅田は「かなりの程度まで経済的に決定されていると見ていいだろう。(中略)ポストモダン消費社会のコスモポリタニズムは、名実ともにボーダーレスとなった世界資本主義の文化的表現である。現在でもそのような多文化主義が世界の大勢であるには違いない。だが、とくに日本の場合、80年代の好況から90年代の不況への転換の中で、そうした世界資本主義への反発のほうが前面に出て、「J回帰」につながっていったのである」と分析しています。つまり「外部」へと開かれてゆくモード(外部から開けろと要求されるモード)が加速する中で、それでも上手く開かなかった/開けなかった結果として日本回帰が起こり、その際に伝統文化と「サブカルチャーや「おたく文化」の日本」との差異化のために「J」という記号が召喚されたのだということです。
 しかし私は、すでに述べたように、この「J」には、ただ単に「日本」への揺り戻しのベクトルだけではなく、外部を内部に包含しようとするトポロジカルな無意識の欲望が宿っていると思います。そこには海外文化へのコンプレックスと自国文化へのこだわりが複雑に入り交じりながら両方とも存在しているのです。
 「「J回帰」の行方」は、次のように結ばれています。

 90年代に不況の中でグローバル化の波に晒された日本が、文化のレヴェルで自閉しようとする。「J回帰」とはおそらくその徴候にほかならないのだ。それは不況が終わるまで続くのだろうか。それは一体いつのことなのだろうか。

(同)

 浅田彰がこう問うてから四半世紀後の現在、率直に言って状況は好転したとは言えないと思います。今なお不況が終わっていないのだから当然かもしれません(しかしこんな事態をいったい誰が予想し得たでしょうか!)。しかし私は、ここにはもう少し複雑で厄介な問題が潜在(顕在?)しているのではないかと、この文章をリアルタイムで読んだ時にも思ったし、今はもっと強く思っています。それをこれから時間を掛けて考えていきたいのですが、そのためには「イカ天」や「バンドブーム」と同時期に胚胎し、90年代前半のニッポンの音楽のいささか特殊な有様を「J-POP」の「J」という記号とはまた別の角度からーーだが本質的には同根の問題としてーー表象していたと思われる流行現象をあらためて論じる必要があります。そう、渋谷系と呼ばれたムーヴメントです。

(つづく)


佐々木敦(ささき・あつし)
1964年、名古屋市生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。多目的スペースSCOOL運営。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学、立教大学などで教鞭もとる。文学、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで批評活動を行っている。『ニッポンの思想 増補新版』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『映画よさようなら』(フィルムアート社)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『「教授」と呼ばれた男 坂本龍一とその時代』(筑摩書房)など著書多数。最新刊は『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)。

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