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「終わり」と「終わり」に挟まれた時代|佐々木敦『90年代論』第1回

 90年代について考えてみたいと思います。

 1990年代、すなわち1990年から1999年までの10年間は、2024年の現在から見ると、ずいぶんと過去の時代に思えます。なにしろ30年以上が経過しているのだから、実際、かなり昔です。読者の中には、まだ生まれていなかったり、物心がついていなかった方も多いと思います。すでに歴史化された時代と言ってもよいでしょう。それは百も承知で、あらためて「90年代」のことを、じっくりと考え直してみたいのです。

 私の専門(?)は、種々の芸術文化やサブカルチャーですから、基本的には、90年代にはまだ人々の趣味において特権的な地位を保っていた音楽をはじめ、この時期に何度目かの地殻変動を経験した映画、同じく不可逆的な変質を遂げたと考えられる文学/小説など、文化的なジャンルをベースに語っていきます。しかしあらゆる表現の背後にあるのは、その時々の社会的/経済的/政治的な状況、コンディションですから、ただ単に文化や芸術を論じるだけでよしとするわけにはいきません。また、島国である日本の場合、海の向こうの諸外国や、世界情勢とのかかわりも非常に重要です。さまざまな要因やコンテクストを踏まえつつ、できる限りトータルに「90年代」の肖像を描き出してみたいのです。

なぜ、デケイド論なのか?

 90年代に限らず、ひとは「⚪︎⚪︎年代」論、デケイド論が大好きです。60年代論、70年代論、80年代論、90年代論、2000年代(ゼロ年代)論といった括りの書物や記事、論考などは、数多く存在しています(なぜかテン年代=10年代論は他と比べて数が少ないように思うのですが、この点も追って考えてみたいと思っています)。

 デケイド論は、ある意味ではナンセンスなものだと思います。たとえば1989年12月31日までが「80年代」で、たった1日過ぎたら「90年代」だなんて、考えてみれば奇妙なことです。デケイド論は、その10年が過ぎた途端に(あるいは終わりがけに)語られ始めるという特徴(?)があります。今は2024年の7月ですが、このタイミングで「2020年代とは」と問うことは、当然ながらほとんどなされていない。常に後出しジャンケン的に終わった10年を論じているわけで、正直どうとでも言えるような気もしてきます。

 デケイド=10年単位で時代を区切るのは、あくまでも恣意的なことでしかない。現実の時間は刻々と流れているのだし、10年はそれなりに長いので、ひとまとめに「⚪︎⚪︎年代は××だった」などと語るのは本来かなり乱暴な話ですし、細部の差異や矛盾に目を瞑って、あえてざっくりと「ある10年間」を掴み出さなければ、デケイド論なんてやれません。

 しかし見逃せないのは、そのようにして仮構され提出された、なかばフィクションであるのかもしれないデケイド論に、ひとが影響されるということです。私たちは「もはや⚪︎⚪︎年代ではない」的な物言いに、それが恣意的なものであることをわかっていながら、どうしても囚われてしまう。重要なのは、デケイド論の「論」の部分、言説としての効果と作用です。「もはや⚪︎⚪︎年代ではない」には、しばしば直前のデケイドに対する批判や否定の主張が含まれています。実際、90年代が始まった時にも「もはや80年代ではない!」と声高にぶち上げる論者が少なからず存在していました。こうして「⚪︎⚪︎年代」という言説は、たった10年ごとに人々の思考や欲望を意識的/無意識的に拘束し、振る舞いにバイアスをかけたり行動を方向づけたりして、社会や文化に変化を齎すことになる。新たな10年に入るごとに、終わったばかりのデケイドとの違いや変化が意識されることになり、むしろそのせいで実際に変わっていくことになるわけです。

 この意味で、私はデケイド論はやはり重要だし有効だと思っています。「90年代とは何だったのか」を問うことは「90年代とは何だったとわれわれは考えているのか」を問うことでもある。したがって、これから論じてゆく「90年代」は、その前後の「80年代」と「ゼロ年代」とのそれぞれの関係性において、事象のレヴェルだけではなく言説のレヴェルについても、差異化のありようが検討されることになります。

「デケイド論」論として

 先の言い方を踏まえれば、1989年12月31日までが「80年代」であり、1990年1月1日から「90年代」で、2000年1月1日からが「ゼロ年代」であるという、いわずもがなの事実を、断絶と連続の双方において考えてみること。本論は、ひとつの「90年代」論であると同時に、いわば「90年代論」論であり、一種の「デケイド論」論でもあろうとする野心を持っています。

 こう考えてみると、「⚪︎⚪︎年代」を論じるには、そのデケイドからある程度時間が経っているほうが望ましいのではないかとも思います。先ほども述べたように、次のデケイドに入って間もないと、肯定的にであれ否定的にであれ「もはや⚪︎⚪︎年代ではない」が意識されがちであり、そのせいで見えづらくなってしまうことが多々あるように思われるからです。90年代から30年が経過した今だからこそ、わかること/言えることがあるのではないかと。

 しかし逆に言えばこれは、今から見てゆく「90年代」が、2024年の現在時から顧みられたものであるということでもあります。つまりこれはあくまでも「2020年代」の半ばから見た「90年代」なのであって、10年前だったら、あるいは10年後なら、そこで描き出される「90年代の肖像」は、多少とも違ったものである可能性が大です。

 この「90年代論」は、「90年代」と「20年代」のあいだに横たわる(時間的なものだけではない)距離を浮かび上がらせることにもなるでしょう。「90年代の肖像」が、他ならぬ「現在」を逆照射することにもなるかもしれません。

なぜ、90年代なのか?

 ではなぜ「80年代」でも「ゼロ年代」でもなく「90年代」なのでしょうか? 私は、80年に及ぶ戦後の日本の歴史において、「90年代」には他のデケイドとは異なる特別さがあったと考えています。それは今回の章題でもある「「終わり」と「終わり」に挟まれた時代」ということです。すぐにおわかりになる方が多いと思います。何よりもまず、90年代とは、「昭和の終わり」と「20世紀の終わり」に挟まれた10年だったのです。

 もちろん、正確に言うと昭和が終わったのは1989年1月7日、20世紀が終わったのは2000年12月31日なので、それぞれ少しずつズレているわけですが、90年代という時代が、昭和が終わって平成と呼ばれた時代が始まってまもなくであったということ、と同時に世紀末と新世紀の始まりに向かって歩んでいく10年だったということは、極めて重要だと思います。20世紀の終わりは最初から決まっていましたが、昭和天皇が崩御する日は当然ながら誰にも予想できませんでした(とはいえ、その前に長期に及ぶ闘病期間と、それに伴う数々の「自粛」があったのですが)。前者は既定事実で後者はいわば偶然ですが、この二つの「ある時代の終わり」に挟まれた10年が「90年代」だったということです。

「90年代」を挟み撃ちする「終わり」は「昭和」と「20世紀」だけではありません。90年代の始点に位置する「終わり」から述べていきましょう。まずは「バブル経済の終わり」です。

バブルの終わり

 日本経済は戦後の復興期を経て1950年代半ばから高度経済成長期となり、1968年には早くもGNP(国民総生産)がアメリカに次いで世界第二位になりました。1974年には世界的なオイルショックがありましたが、その後、いわゆる安定成長期に入り(社会学者エズラ・ヴォーゲルが「日本的経営」を賞賛した『ジャパン・アズ・ナンバーワン―アメリカへの教訓―』は1979年の出版)、80年代以降も景気はどんどん上昇し、1985年のプラザ合意をきっかけとして、のちにバブル景気と呼ばれることになる空前の好況期に突入しました。土地の値上がりが異常に加速し、銀行は不動産投機のために際限なくお金を貸し付け、そのせいでまた土地が高騰するという天井知らずの状況の中、好景気に沸く日本社会は狂乱と言ってよいほどのお祭り状態になりました。80年代後半は今なお日本が戦後もっとも豊かであった時期です。

 ところが、1989年から度重なる利上げ(公定歩合の引き上げ)が施行され、1990年3月に不動産価格の上昇に歯止めを掛けるために総量規制(不動産向け融資の伸び率を総貸し出しの伸び率以下に収めることを銀行に求めたもの)が導入されると、予想をはるかに超えるマイナスの影響が出ることとなり、日本の経済成長には急激にストップが掛けられました。これがいわゆるバブル崩壊です。地値、株価ともに暴落、1992年頃には景気の失速は明確になっており、その後、いわゆる「失われたX年(Xは「10」→「20」→「30」と更新されていった……)」が訪れることになります。

 バブルという用語は非常にインパクトがありますが、現実にバブル景気の真っ只中だった頃には、当然ながら「バブル」という言い方はされていませんでした。弾けてはじめて、それは「バブル=泡」だったとされたのです。しかもーーこれはあとでもっと詳しく述べますがーー文化的な側面で言うと、バブル崩壊以後もバブルの時代の空気感は数年にわたって持続していたと思います。カルチャー/サブカルチャーの世界でバブルが弾けたのは、私見では1995年以後のことです。

冷戦の終わり

 次は「(東西)冷戦構造の終わり」です。ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が消滅したのは1991年です。簡単に経緯を辿ると、複数の社会主義国から成る連邦国家として1922年に誕生したソ連は戦後長らくアメリカと世界の覇権を争ってきましたが、長年に及ぶ共産党の一党独裁による政治の腐敗や経済の停滞、何よりも西側(資本主義)諸国の豊かな生活の情報が漏れ聞こえてくることによって次第に連邦(国家)運営に失調を来たし、1985年3月にソビエト連邦共産党書記長となったミハイル・ゴルバチョフは「ペレストロイカ=改革」を押し進めることになりました。ゴルバチョフは「グラスノスチ=情報公開」も行って国民の信頼を回復しようと努めましたが、結局、ベルリンの壁の崩壊を機として、まさに壁が崩れ去るようにソ連は解体、ロシア(ロシア連邦)が生まれることになります。

 西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)を分断するベルリンの壁は、第二次世界大戦の敗戦国であるドイツがアメリカとソ連によって二つの国に分けられて以後、東西冷戦の象徴として機能してきました。しかし80年代後半より東側から西側に違法に脱出する者が後を絶たなくなり、困り果てた東ドイツ政府が移動を実質的に合法化しようとしたところ、人々がベルリンの壁を打ち壊して乗り越えて大挙して東から西へと渡り(1989年11月9日)、結果としてドイツが「再統一(正確にはドイツ民主共和国がドイツ連邦共和国に加盟するかたちで統一がなされた)」されることになりました(1990年10月3日)。この出来事からソビエト連邦最高会議による連邦解散宣言(1991年12月26日)まで一年ちょっとです。

 周知のように、ソ連と同じく中国共産党の実質的な一党体制である中国(中華人民共和国)にも、この時期、軋みが生じていました。天安門事件です。正式には「六四天安門事件」(1976年4月5日の「四五天安門事件」と区別するため)。1989年6月4日、中国の民主化を求めて北京市の天安門広場を占拠していたデモ隊に中国人民解放軍が武力をふるい、多数の死傷者が出た事件です。デモ隊は制圧され、今日にまで至る共産党中央委員会の独裁を、より強固なものにすることとなりました。天安門事件とベルリンの壁崩壊は半年も離れていません。昭和が平成になったのも同じ1989年ですから、記憶を呼び起こしてみても、何か大掛かりな変化が世界に、そして日本にも起きようとしている、大げさではなく、歴史が動こうとしている、という得体の知れない興奮を、当時まだ二十代半ばの青二才だった私自身、まざまざと感じたことを覚えています。

歴史の終わり

 もうひとつ、90年代の始まりに置かれた「終わり」は「歴史の終わり」です。これはアメリカの政治経済学者フランシス・フクヤマが1989年に発表した論文を発展させた著書『歴史の終わり(The End of History and the Last Man)』(1992年)に由来します。この本は原著出版と同年に日本語訳されて(訳者は渡部昇一)大ベストセラーになりました。

 フクヤマの主張は、冷戦の終わり、より具体的にはソ連の崩壊を契機としています。ソ連が消滅したことによって、長らく続いてきた民主主義 vs 社会主義(資本主義 vs 共産主義)という対立構造に終止符が打たれたとフクヤマは言います。人類の最良にして最終の政治形態は民主主義である、ということです。

「歴史の終わり」とは要するにイデオロギーの弁証法的な展開は、ここでおしまい、という意味です。この先の発展はもう何もないのだと。その後の「歴史」は、この時点でのフクヤマの読みが必ずしも当たってはいなかったことを証明していると言えるかもしれません。フクヤマの議論はヘーゲルの歴史哲学を踏まえたそれなりに込み入ったものですが、しかしシンプルに民主主義=アメリカの勝利宣言として受け取れなくもない「歴史の終わり」は日本の保守論壇では当然のごとく好意的に評価されました。次回以降に触れるように、90年代、日本は国際政治におけるアメリカへの追従を更に強めていくことになるのですが、ソ連が消えて「歴史」が終わってアメリカ(と民主主義と資本主義)が残った、という主張は、ある種の人々にとっては心地の良いものだったと言えるでしょう。それは日本の戦後の立ち居振る舞いを肯定することでもあるからです。

世紀の終わりとノストラダムス

 では続いて、90年代の終わりに待ち構えていた「終わり」について。それは「20世紀の終わり」であるわけですが、この直近の(そして今生きている人間全員にとって最初で最後の)世紀末には、一種の「終末論」が、かなり昔から纏わり付いていました。ノストラダムスの大予言です。

『ノストラダムスの大予言ー迫りくる1999年7の月人類滅亡の日』は、五島勉というライターが1973年に出して大ベストセラーになった本です。ノストラダムスは16世紀フランスに実在した占星術師(他にもさまざまな職業を持っていました)で、謎めいた膨大な「予言(詩篇)」を書き残しました。五島はその中から後の世と照らして「的中」したと言い得るような断片をピックアップしてわかりやすく解説を加えた上で、最終的に「1999年7月に人類は滅亡する(とノストラダムスは予言している)」と同書に記しました。

一九九九年、七の月
空から恐怖の大王が降ってくるだろう
アンゴルモワの大王を復活させるために
その前後の期間、マルスが幸福の名のもとに支配するだろう。

『ノストラダムスの大予言-迫りくる1999年7の月人類滅亡の日』

 一大センセーションを巻き起こした「人類滅亡の予言」です。アンゴルモアの大王って? マルスとは? 疑問は尽きないと思いますが、それはともかくとして、当時は子供だった私でさえ覚えているほど、この「大予言」はテレビや雑誌で頻繁に取り上げられ、原因も詳細も不明でありながら、とにかく1999年7月に世界は終わってしまうのかもしれない、という得体の知れない不安と恐怖が、日本全国のお茶の間や私が通っていた小学校にまで蔓延する事態になったのです。

 もちろんいささか大げさに述べているのですが、ひとつ言えることは、ノストラダムスの大予言が日本中で話題になった時、1999年はまだかなり遠い未来だったということです。おおよそ四半世紀後ですから、そもそもまともに信じるにたる話ではないとはいえ、ひょっとしたら、という疑心が芽生えたとしても、現実に予言が当たっていたかどうかが判明するまでには、まだまだ時間の余裕があるわけです。「それまでに人類はもっと進歩して滅亡を回避するのではないか」という前向きな意見を真顔で口にする者もいました。五島勉は『ノストラダムスの大予言』をシリーズ化して次々と続編を出していきましたが、当然ながら「1999年7月」ほどのインパクトを持ち得るような「予言」はないわけで、だんだん先細りになっていきました。気づけば、私も含めてほとんどの人が忘れてしまっていました。

漠たる「嫌な感じ」

 ノストラダムスの大予言がキャッチーだったのは、人類滅亡が1999年という「世紀末」に設定されていたことです(実際の世紀末は2000年なのですが)。それは「終末論」的な想像力と結びつき、具体的な年月を持った「世界の終わり」というイメージを起動します。繰り返しますが、そんなことを本気で信じる人は五島の本が売れに売れている頃でさえ実際には皆無に近かったでしょう。ただ、万に一つもそんなことが起こるはずがあるまいと思ってはいても、なんとなく不安というか、嫌な感じはある。なぜならば、今はまだ相当先であるとはいえ、やがて「1999年」は必ずやってくるからです。そしてこの「嫌な感じ」が、90年代に入ってから、じわじわと効いてきたのではないかと思うのです。

 三度繰り返しますが、それはノストラダムスの予言を信じて恐怖した、ということではありません。きっと何も起こりはしないだろう。起こるわけがない。だがしかし、人類滅亡とまではいかなくても、もしかしたら何かは起きるのではないか? その何かが何であるのかはわからないが、予言が当たるかどうかということでもなく、それが起こった時、ああこれのことだったのか、とつい思ってしまうような出来事が、1999年の7月に起きたりなんかして。起きたらどうしよう……こんな漠たる「嫌な感じ」が日本社会を薄暗く覆っていったのではないか。

 なんだか妄想を書いているようですが、もちろん現実の1999年7月には特に何も起こりませんでした。「大予言」は当たらなかった。当然です。しかしノストラダムスが、というか五島勉が流布させた「世紀末」の「終末論」、人類の終わり、世界の終わりという「呪い」は、90年代を通して日本社会の奥底に潜在していたと私は考えています。このことについては後でもっと詳しく論じることになるでしょう。

「2000年問題」と「終わりの感覚」

 この点にかかわってもうひとつ触れておきたいのが「2000年問題」です。別名「Y2K問題」は、西暦2000年に入った瞬間に、コンピュータの多くが西暦の下二桁のみを用いているため、表示が「00」となり全世界規模で誤作動を惹き起こすというものです。これも実際には(ほぼ)何も起こりませんでしたが、ノストラダムスよりずっと現実味があり、マスコミも結構本気で注意喚起していましたし、多数のメディアにも取り上げられていました。私自身、パソコンの表示が2000年1月1日になった時は多少緊張していたことを記憶しています。1999年7月に「大予言」が外れたと思ったら、今度はこれかよと少しうんざりしたことも覚えています。

 最近日本公開されたタイの双子姉妹監督ワンウェーウ&ウェーウワン・ホンウィワットのデビュー長編『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』は、監督たちと同じ一卵性双生児の姉妹ユーとミー(新人俳優ティティヤー・ジラポーンシンがひとりで演じ分けています)の数ヶ月の出来事を描いた瑞々しい青春映画ですが、物語の舞台となる時代が1999年の夏から2000年の初頭に設定されています。なんとも興味深かったのは、ユーとミーが『ノストラダムスの大予言』(のタイ語版)を読んで慌てて生活用品を買い占めようとしたり、二人の父親が「2000年問題」対応のパソコンで一儲けしようと目論んだりすることです。タイでも同じだったのか。

「90年代の終わり」は、他のデケイドの終わりとは、この点で違っています。それはほとんどの人(というのはこの時点では19世紀生まれの人がまだ生きていたからですが)が初めて(そしてただ一度きり)体験する「世紀末」だった。そして日本には(タイでも)、ノストラダムスの「呪い」(+「2000年問題」という「警告」)が存在した。それは終末論的な想像力の温床となり、信憑とはまったく別の次元で、人々は何かしらの意味で「終わり」を、より正確に言うと「終わりに向かっていく感覚」を頭のどこかで意識しながら(あるいは意識するともなしに感受しながら)日々を生きていくことになったのではないか?

「終わり」と「終わり」に挟まれた時代とは、このような意味です。ニッポンの90年代はいわば「終わり」に取り憑かれたデケイドだった。私はこの「終わりの感覚」に強い関心があります。通常、何かが終わったら、また別の何かが新たに始まるものです。だが、幾つものことが終わって、新しい時代が始まると思ったら、実は別の終わりに向かって歩んでいるだけだったという……ネガティヴ過ぎる見方でしょうか? そうかもしれません。しかし「終わりの感覚」は、けっして無意味なものではないし、非生産的でもなかったと私は思います。複数の「終わり」に挟み撃ちされた時代だったからこそ生まれてきたすぐれた表現や貴重な作品は数多く存在しています。それらは「90年代」という特殊なデケイドの刻印であると同時に、日本文化や日本社会の(不可逆的な?)変容の記録でもあります。この「90年代論」を通して、それを明らかにしてみたい。

 では、始めていきましょう。


佐々木敦(ささき・あつし)
1964年、名古屋市生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。多目的スペースSCOOL運営。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学、立教大学などで教鞭もとる。文学、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで批評活動を行っている。『ニッポンの思想 増補新版』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『映画よさようなら』(フィルムアート社)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『「教授」と呼ばれた男 坂本龍一とその時代』(筑摩書房)など著書多数。最新刊は『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)。

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