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「渋谷系」とは何だったのか?|佐々木敦『90年代論』第3回

フリッパーズギターの登場

  1987年、当時はまだ10代だった5人の若者がバンドを始めます。名前はロリポック・ソニック、東京都内のライブハウスに出演して少しずつ存在を知られるようになり、カセットで音源をリリースしたのち、バンド名をフリッパーズ・ギターに改名、レコード会社ポリスターと契約し、1989年8月にアルバム『three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった』でデビューしました。このアルバムは当時の日本のバンド、それも新人の一作目としては極めて珍しく全曲英語の歌詞による作品で、音楽雑誌では話題になりましたが、リリース直後にメンバー3人が脱退し、フリッパーズはざわけんやまけいのデュオになってしまいます。とはいえもともと曲作りはこの二人が行なっており、バンドとはいえ彼らも含めてメンバーの演奏技術はけっして高くはなかったので、さほど問題はなくフリッパーズはセルフ・プロデュースの二人組ユニットに移行します。1990年に前作から一転して全曲日本語詞のセカンド・アルバム『CAMERA TALK』をリリースすると、そのポップでウェルメイドな音楽性によってフリッパーズは一挙に注目され、二人のルックスとキャラクターの魅力も相俟って、あっという間に人気者の仲間入りを果たします。しかし次第に二人の関係が険悪になっていき、1991年にサード・アルバム『DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-』をリリースした直後に突如解散を宣言、予定されていたツアーもキャンセルとなり、フリッパーズはあっけなくその歴史に幕を下ろしてしまいました。デビュー作から数えると約2年間という非常に短い活動歴でした。

『DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-』(1991年)

 しかしフリッパーズ・ギターは、本人たちの意志とは無関係に、90年代の音楽のある側面を象徴する、ひとつの流行現象を惹き起こしました。「渋谷系」です。

「渋谷系」の誕生 

 「渋谷系」というワードはどこから出てきたのか、誰がこの言葉を言い出したのか、音楽ライターのわかすぎみのるは、その名も『渋谷系』という自著の中で、当時を知る複数の関係者に取材して、その淵源を探っています。そしてこう述べます。

 渋谷系ということばはどこからやってきたのか。結論から言えば〝風の便り〟でやって来た。ようするに口コミによるものである。 

『渋谷系』

 若杉の本によれば、「渋谷系」という言葉が口にされ出したのは、1993年の夏くらいからだったようです。フリッパーズ・ギターの解散からすでに2年が経過しています。しかし元メンバーの二人がソロ活動を開始したのはちょうどこの頃で、小沢健二が「天気読み」でソロ・デビューしたのがこの年の7月、小山田圭吾がCornelius名義のソロ・デビュー曲「THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵」をリリースしたのが同年9月のことでした(これに先立ち1992年に小山田はポリスター内に自己レーベル「トラットリア」を設立しています)。『渋谷系』にはソロ活動の開始にあたって受けた雑誌取材の中で小山田が「これからは〝渋谷系〟というのがくるらしい」「HMV(外資系大型CDショップ)で売ってるのとか渋谷のこのへんで遊んでるひとが聴いているモノをそう呼ぶみたい。たとえばオレとか」などと語ったという逸話が紹介されています。

 私は1988年から映画/音楽ライターとして仕事を始めたので、考えてみればフリッパーズ・ギターとほぼ同期(?)ということになります(年齢は私のほうが大分上ですが)。1993年には多数の音楽雑誌やカルチャー誌などに原稿を書くようになっていたので、実感としても若杉の記述は正しいと思えます。私が「渋谷系」の総本山であるがわちょうに自分の事務所「HEADZ」を構えたのは1995年5月なのでまだ少し先のことですが、なぜ宇田川町だったのかといえば、これは間違いなく、当時の渋谷がいうなれば「世界一の音楽の街」だったからです(今ではすっかり変わってしまいましたが)。

「このへん」の音楽

 若杉実の『渋谷系』は「渋谷系」という一大(とまで呼んでいいのかどうか微妙ですが)ムーヴメントを総体的に扱った名著です。著者の視点に立った「渋谷系」の勃興と衰亡、光と影が活写されているのですが、小山田圭吾が「HMV(外資系大型CDショップ)で売ってるのとか渋谷のこのへんで遊んでるひとが聴いているモノ」と言っていたように、何よりもまず渋谷という街の特異性を抜きにして、この現象は語れません。

 小山田発言に出て来たHMVはイギリスで誕生した国際的なレコードショップチェーンですが、2010年に日本のローソンに売却されており、本体のHMVはその前後に二度にわたって経営破綻して実質的に消滅してしまいました。つまり今も日本にあるHMVはローソンの経営です。しかし90年代のHMV渋谷は非常に影響力のあるレコード店でした。2024年現在はHMV&BOOKS SHIBUYAとしてマルイが運営する商業ビル渋谷モディの上層階にありますが(しかしその業態はかなり様変わりしています)、出店当初は現在はMEGAドン・キホーテ渋谷本店になっている文化村通りのONE-OH-NINEビルに、1998年9月から2010年8月までは宇田川町の井の頭通り沿い、いわゆる渋谷センター街のど真ん中にありました(HMV閉店後はFOREVER 21が入ったが2019年10月末に閉店。現在はIKEAが入っています。なんとなく時代の変化を象徴しているような気もしますが)。

 渋谷にはもうひとつ、タワーレコードもありました(現在もあります)。タワレコも元々はアメリカ資本ですが、HMVと同様に業績不振に陥り、2002年に日本企業に全株式を売却、本国では店舗営業を廃業、現在はオンラインショップと海外の一部のフランチャイズのみが存続しています。日本のタワーレコード株式会社はその後も数奇な運命を辿り、今も最盛期と同じ場所にありますが、アイドルやタレント、声優、KPOPなどの特典商法やイベントでかろうじて延命しているように見えます(これはHMVも同じ)。

 つまりタワレコもHMVも現在は外資系ではなくニッポンのレコードショップなのです。この事実は非常に重要だと思いますが、まずは先に進みましょう。

 HMVとタワレコという二つの大型ショップ(当時の渋谷にはもう一つ、現在はPARCOの地下フロアにアナログ盤専門店として存在する西武百貨店系列のWAVEもありました)以外にも90年代の渋谷宇田川町には多数の中小規模のレコード店がありました。マンハッタン・レコード、DMR、シスコなどなど、いずれも輸入盤店で、90年代はハウスやテクノ、ヒップホップなどのダンス/クラブ・ミュージックの隆盛期でもあるのでその種の専門店も多いですが、「渋谷系」との繋がりという点で最も重要なのはZESTです。1991年にすでに自らのレーベルCrue-L Recordsを興しており、DJとしても知られていた瀧見憲司、フリッパーズ・ギターに次ぐ「渋谷系」の人気ミュージシャンとなるカジヒデキ、現在は原宿に自らの店BIG LOVEを構える仲真史などが店員をしており、小山田圭吾も足繁く通っていたというZESTはHMV渋谷と並び(店の規模は比較にならないですが)「渋谷系」の爆心地と言ってよいと思います。HMVは国内盤(輸入盤も扱っていましたが)、ZEST(など)は輸入盤という棲み分けもよかったのだと思います。こうして渋谷というトポスに強く紐づけられた音楽の流行現象として「渋谷系」はいつのまにか生まれ、元フリッパーズやその近傍にいたミュージシャンたちの活躍とシンクロしつつ、やがてメディアに盛んに取り上げられるようになり、あれよあれよという間に、渋谷にも東京にもまだ一度も行ったことがない地方の若者たちや一般層にも知られるようになっていったのです。

「センス・エリート」の街 

 現時点から振り返ってみると、「渋谷系」のブームは、幾つかのポイントによって説明できると思います。まず第一は、ここまで述べてきたように渋谷という街の特別さ。昔も今も渋谷は「若者が集う街」の代表です(70年代までは新宿がそうだったと思いますが、80年代に重心移動があったように思えます)。もっとも現在の渋谷は「若者とインバウンド客の街」になっていますが。音楽だけではなく、SHIBUYA109(マルキュー)を核とするユース・ファッションや、後の章でも触れますが映画のミニシアター文化も90年代以降は渋谷が中心でした。ここで重要なのは、先にも述べたように「渋谷」が具体的現実的な街であると同時に、一種のイメージでもあったのだということです。実際の渋谷を知っているかどうかよりも、メディアを通してシブヤの幻像が増幅され、拡散されていったからこそ、あの頃の渋谷は「若者の街」の最高位に昇り詰めたのです。

 ではシブヤとはどんな「若者」の街なのか。むろんそれは時代とともに変化していきます。「若者」自体が変わっていくからです。つまり渋谷は、その時代の若者たちの生態とユースカルチャーのありようを映し出す鏡なのです。そしてこれが第二のポイントですが、「渋谷系」が表象していた「若者」とは、端的に言えば「オシャレな若者」のことでした。しかも単に服装がオシャレなだけではなく、そこには「趣味の良さ」や「最新のカルチャーへの敏感さ」も含意されていました。私は80年代に層として出現してきた、このような先端志向で文化的感度の高い人たちのことを「センス・エリート」と呼んでいます(それは同時期に現れた「おたく」と表裏一体だったと思います)。つまり「渋谷系」とは、音楽というジャンルのセンス・エリーティズムのひとつの突出点だったのです(とはいえ当時の渋谷には「オシャレな若者」だけでなく「チーマー」や「コギャル」もいたわけですが)。

 第三点は「輸入文化としての音楽」です。これはフリッパーズ・ギターの二人が明確に現しています。小山田圭吾も小沢健二も、いわゆるプレイヤー気質ではなく(現在の小山田はすぐれたギタリストになっていますが)、敢えて言うならコンポーザー気質でもなく、コンセプトとアイデア優先のプロデューサー気質だと言えます。しかしより正しくは、彼らはリスナー気質です。自分の音楽を作る/演るよりも他人の音楽を聴く/知るほうが音楽に向かう初手の動機としては上位にあるということです。私は『ニッポンの音楽』において「リスナー型ミュージシャン」なる系譜を描きました。他者の音楽を浴びるように摂取したあげく、いわば我慢が出来なくなって、自分でも曲作りを始めてしまった人たち。要するに音楽ファン/マニアから出発した音楽家ということです。フリッパーズは明らかに「リスナー型ミュージシャン」です。ファーストでは80年代後半のイギリスのギターポップ・バンド(ギタポと略されていました)へのオマージューー曲調はもちろん曲名や歌詞にも「愛」は溢れていますーーとしてなんと全曲英語で歌い、セカンドでは音楽性は前作の延長線上にありながら歌詞を日本語にすることで「日本語ロック」ならぬ「日本語ギタポ」の名盤を作り上げ、ラストになったサードでは、やはりイギリスで当時流行り始めていたマンチェスターサウンド(マンチェと略されていました)=マッドチェスターなど、ロックとダンスがした「セカンド・サマー・オブ・ラブ」的スタイルを大胆に導入してみせました。フリッパーズの音楽はパスティーシュでもパクリでもありませんが、どれも海外(主にイギリス)に元ネタがある、引用元や参照項を記名付きで辿れるものばかりです。そしてそれは才能の欠如によるものではなく、彼らはそれがしたかったのです。『ニッポンの音楽』でも書いたことですが、いうなれば音楽オタク同士の目配せとして、元ネタをすぐわかってくれるような受け手に向けてフリッパーズはやっていた、だがしかし、当然のことながら彼らの音楽を聴くのはオタクだけではない、むしろそれはごく一部であり、他の多くの人々は「海の向こうの最新の音楽をいち早く取り入れている」という雰囲気だけを感じ取っていたわけです。つまりこれもセンス・エリーティズムなわけですが、フリッパーズがそんなスタンスを取れたのも、渋谷の無数のレコード店というインフラ、彼らの「学校」があったからこそでした。 

「渋谷系」の三つの条件

 何度も述べていますが、90年代の前半はインターネットがまだありません。音楽に限らず海外のカルチャーの最新動向は、直接現地に赴くか(渋谷の輸入レコード店のバイヤーの多くが当時は頻繁に海外に「買い付け」に行っていました)、雑誌や放送媒体に頼るしかなかった。毎週のように海の向こうで出たばかりの新譜が大量に入荷され、知識が豊富で耳の確かな、遊び友達でもある店員のいるレコードショップは、非常にありがたい存在だったのです(私にとってもそうでした)。ZESTで輸入盤を買い漁り聴きまくった若者の音楽をHMVが売るという生態系が、この頃の渋谷には出来上がっていたわけです。

 まとめると、(1)渋谷というイメージ。(2)センス・エリーティズム。(3)輸入文化。以上の三つが「渋谷系」を準備した。しかしそれが発火するためには元フリッパーズ・ギターのような「スター」が必要でした。そして彼らを全国区の人気者にまで押し上げたのは、この頃はまだまだ元気があった雑誌文化と、聴く雑誌とでもいうべきラジオ(と一部のテレビ番組)でした(「渋谷」をイメージ化したのもこれらのメディアです)。1995年以降はインターネットも使えるようになってきます。実際の宇田川町は、ごくごく小さな地域です。現在の渋谷は東口~新南口を中心に大規模な開発が行われて「イメージ」が一新していますが、90年代は渋谷といえばハチ公口から出てスクランブル交差点を渡った先に広がる一帯のことであり、センター街の先にあるレコ屋が密集するゾーンは、ジャンルを超えた音楽好きが集まる「聖地」でした。前にも述べましたが、私が宇田川町のマンションに事務所を構えたのも、それが理由でした。HEADZは90年代後半から2000年代半ばくらいまで海外ミュージシャンの招聘、コンサート制作を盛んに行なっていましたが、初めて来日して渋谷を訪れた外国人たちは皆驚き歓喜していました。この街で手に入らない音楽はないんじゃないか、と言われたこともあります。「世界一の音楽の街」と述べたゆえんです。思えばあの頃の渋谷は毎日が祭りみたいで、大小のレコード屋の棚は光り輝いていました。今から思えば、それは音楽がモノ(フィジカル)で買われていた時代の最後の輝きだったのですが。

「渋谷系」と洋楽の距離

 渋谷HMVの往年の名バイヤーで、「渋谷系」ブームの仕掛け人のひとりと言われることも多いおおひろしは、ウェブメディア音楽ナタリーに連載された記事をもとにした単行本『渋谷系狂騒曲 街角から生まれたオルタナティヴ・カルチャー』(もちづきさとし編)の冒頭に登場します(ライターはきょう)。太田は新星堂を経て日本進出したばかりのHMVにヘッドハンティングされ、渋谷店のオープン時から在籍していたそうですが、もともとは洋楽ロックの担当でした。邦楽に異動するまでは日本のロック/ポップスにはほとんど興味がなかったといい、新星堂時代にフリッパーズ・ギターのファーストをポリスターの営業に「英語で歌ってるんで聴いてみてください」と渡されてもほったらかしにしていたと語っています。しかし期せずして「洋楽耳」の太田にも興味が持てるバンドが続々と出て来た(特に彼の認識を改めさせたのはじまたかのオリジナル・ラブだったそうです)。そこで洋楽バイヤーとして培ったノウハウを新しいニッポンの音楽に適用してみたところ、これが見事に当たった。

『渋谷系狂騒曲 街角から生まれたオルタナティヴ・カルチャー』(2021年)

 今も語り継がれているのは、太田氏が手がけた「SHIBUYA RECOMMENDATION」というコーナーだ。その後、渋谷系と呼ばれることになるアーティストのCDを輸入盤の紹介文のようなスタイルでレコメンド。今では当たり前になった“レコメン"を邦楽でいち早く取り入れ、予約カウンターには新譜情報とともにライヴやクラブのフライヤーを置き、情報発信基地としての機能も充実させた。 

「予約システムを始めたら、思っていた以上に反応がよく、たくさんの予約注文が入るようになったんですが、予約カウンターに女子高生がたむろするようになり、井上陽水を買いたいサラリーマンが困惑するような光景が見受けられたんです。店としては両方の売り上げを確保したいわけですから、ここは思い切ってユーザーを分けちゃおうと。それが1993年の邦楽売り場拡大につながっていったんです。社内での根回しもしたつもりです」

『渋谷系狂騒曲』

 太田は邦楽の新譜の横に、それと関連づけられる洋楽のCDを並べるという、やはり今でもよく見られるディスプレイも始めました(それが洋楽担当者との軋轢も生んだそうです)。そこには「洋楽が好きな人は、年齢を重ねても音楽を聴く」という考えがあったと太田は語っています。

「邦楽ファンは自分の好きな歌手なりバンドに興味を失うと売り場から去って行ってしまう。僕としては、きっかけは邦楽でも、お客さんにずっと音楽を聴き続けるようになってほしいという気持ちがあったんですね。〝渋谷系〟のような洋楽の影響を受けた音楽を好きな層なら、その可能性は高いはずだと思ったんです」
 フリッパーズ・ギターからネオアコやギター・ポップ、オリジナル・ラブ経由でアシッド・ジャズやソウル、ピチカート・ファイヴの流れで映画音楽やソフト・ロックという具合に、リスナーが好きなアーティストのルーツや影響を受けた音楽を〝掘る〟または〝探す〟行為を楽しむようになるのもこの頃から。 

(同)

 ここではじめて名前の出て来た、フリッパーズ・ギターと並ぶ「渋谷系」の立役者ピチカート・ファイヴにかんしては、論脈の都合上、90年代後半を扱う第2部で取り上げたいと思っています。一言だけ予告しておくと、そこでは「渋谷系」の終焉と「90年代」の終わりが重ね合わされて論じられることになるでしょう。 

「どんな音楽か?」ではなく

 若杉実は『渋谷系』で、このワードが最初に使用されたのはセゾン・グループ(西武)が当時出していたタウン誌「apo」の記事であるという説(『渋谷系狂騒曲』で太田浩も同じことを語っています)を踏まえ、同記事を書いた、のちに雑誌「バァフアウト!」の編集発行人になる山崎二郎に取材していますが、山崎もすでに流行り始めているワードとして編集者から聞いただけで自分が考案したわけではないと答えています。

 渋谷系ということばはだれがつくったものでもない、時代がつくった。渋谷で局地的に売れている音楽、アーティストを総称することば。そして彼らの作品を受容するリスナーにも、そのことばは寄与された。

『渋谷系』

 若杉は「渋谷系」という「流行語」がアンビヴァレントなものであったことも記しています。ジャンルを問わず、いつの時代でも、わかりやすい言葉で一括りされるのは、当の括られる側としては疑問や不満があったり傍迷惑だったりするものです(オリジナル・ラブの田島貴男がライブで「オレは渋谷系じゃねえ!」と叫んだというエピソードは『渋谷系』にも出てきます)。 

渋谷系ということばが流布されはじめた年を仮に93年とする。 そのとき渋谷系と発言することは少々勇気がいることだった。ネガティヴな意味合いが含まれていたからだ。具体的に言えば嘲笑の対象となるケースが多々あった。「渋谷で売れているから渋谷系」という命名の理由がとてもシンプルだったからだろう。ネガティヴに捉えているひとはシンプルを短絡的と読み直しているからにちがいない。その嘲笑は時間が経過するにつれ自虐的な意味も含むようになり、緩和される。いずれにせよ会話の中にそのことばが持ち出されると、そこには鼻白む空気が流れる。
 

(同)

 若杉は「○○系」という言葉遣いが持つ危うさや浅薄さについても述べています。こうした便利で安易なカテゴライズは、カルチャーだけではなく「ロスジェネ」や「Z世代」などといった世代論でも頻用(乱用)されています。「渋谷系」が特殊だったのは「渋谷発」の「オシャレ」な「洋楽に影響された」音楽ということだけで、具体的な音楽性の共通点をほとんど持っていなかったことです。それはまさに「渋谷」という街に紐づけられた音楽でした。しかも何度も述べたように、そこでの「渋谷」とはイメージとしての「シブヤ」だったのです(実際に渋谷に生息していた若者たちにも、その「イメージ」は作用していたと思います)。「渋谷系とは「どんな音楽か?」ではなく、「どんな感じか?」「どんなひとに好まれているのか?」ということである」と若杉実は述べています。「どこまでも直接的な解釈を拒み、あくまでもイメージを重視しているのだ」と。

 太田浩は渋谷HMVの一店舗だけで小沢健二のアルバム『LIFE』(1994年8月リリース)を1万枚以上売ったそうです。これは五桁売れるとチャートの上位に入ってしまう現在はもちろん、今とは比較にならないくらい音楽が売れていた当時としても驚異的な数字です。「渋谷系」の流行は前章で取り上げた「イカ天」と「バンドブーム」とも無関係ではありません。邦楽ロック雑誌(もちろん渋谷系アーティストも登場するようになります)が次々と創刊されたのが1988年、『三宅裕司のいかすバンド天国』の放送開始が1989年2月、放送終了が1990年12月末。フリッパーズ・ギターのデビューが1989年8月、解散が1991年7月。そして「渋谷系」ブームが始まるのが1993年。表面的にはかなり違う、ほとんど対立しているかにも見える「イカ天」と「渋谷系」は実際には並行現象であり、ある意味で相互補完的だったのだと思います。そして、そこに働いていたのは、日本における「輸入文化」と「センス・エリーティズム」のリミット(臨界点)だった。

「渋谷系」のピークは1994年頃です。翌年になると音楽シーンでは小室哲哉の時代が始まります。「小室系」についても語るべきことは多々あるのですが、ここでいったん音楽から離れて、90年代前半の他の文化的事象に目を向けてみたいと思います。まず鍵となるのは、海の向こうで起こった「湾岸戦争」です。

(つづく)

佐々木敦(ささき・あつし)
1964年、名古屋市生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。多目的スペースSCOOL運営。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。早稲田大学、立教大学などで教鞭もとる。文学、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで批評活動を行っている。『ニッポンの思想 増補新版』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『映画よさようなら』(フィルムアート社)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『「教授」と呼ばれた男 坂本龍一とその時代』(筑摩書房)など著書多数。最新刊は『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)。

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