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水月昭道著『高学歴ワーキングプア』全文公開/第5章「どうする? ノラ博士」

光文社新書編集部の三宅です。『「高学歴ワーキングプア」からの脱出』刊行を5月20日に控え、2007年刊行の『高学歴ワーキングプア』の全文を順次、公開していきます。本日は第5章「どうする? ノラ博士」です。

目次、はじめに、第1章はこちら。第2章はこちら。第3章はこちら。第4章はこちら

第5章 どうする? ノラ博士 

ノラ博士

放置され続ける余剰博士問題。一万二〇〇〇人の無職〝博士〟に加え、その数倍の規模で存在する無職のオーバードクター(博士課程に三年以上在籍し、かつ、博士号を得ていない者)。そして、毎年新たに加算される五〇〇〇名の無職博士卒(単位取得退学者および修了者)たち。

彼らは、三〇歳を超えて──四〇歳オーバーも少なくない──、行く当てもなく、街をさまよい歩く日々が続いている。本業では食えないので、コンビニなどでバイトをしたり、あるいはパチプロ生活のようなその日暮らしをしながら、日陰者として細々と日々の飢えを凌いでいるのだ。

大学院重点化政策により、大学院に入る時にはちやほやされ、博士課程までの五年間に三〇〇万円(私立では六〇〇万円)ほどのお金を支払った後に、「就職は自己責任でしょう」と、手の平を返したように冷たく放り出される。これは、飼い犬を「用がなくなった」といって捨ててしまう行為と、一体どこが違うと言うのだろう。

仕方なくフリーターや無職者になってしまった彼ら。だが、さらに追い打ちをかけるように、世間から白い目が向けられる現実が、そこには待ち構えている。「いい年して、なにふらふらしてんだ。あっちへいけ、この穀潰し」と。これでは、まるでノラ犬同然の扱いである。

子連れの夫婦などは、日中から街をふらふらと歩いている「博士」を見つけると、危険なものを見つけたかのように反応し、我が子を自らの背中にサッと隠すことも珍しくない。「アアは、なっちゃだめよ」との声が聞こえてくるのは、こんな時だと、博士たちは涙ながらに語るのである。

どこにも行く当てのない〝ノラ博士〟たち。このまま、ノラ犬として朽ち果てていくだけなのだろうか。あるいは、世間という目からの〝野犬狩り〟にあって、社会との縁を失う末路が待ち受けているのか。

ノラ犬にも五分の魂。ノラ博士たちは、そろそろ、生き残るための反逆の狼煙をあげてもよい頃ではないか。どうすれば、本業と少しでもかかわりのある社会貢献ができるのか。ノラ博士たちを生かすための何らかの方法は社会のなかにないのだろうか。

ノラとはいえ、博士をこのまま朽ち果てさせるのは、あまりにももったいなくはないか。こんな人材の無駄遣いを知ったら、マータイさんも、びっくりだろう。「さすが、モノ余りの国、日本。高等教育を受けた博士までも、余っているのですか。MOTTAINAI」と。

このあたりで、自立したノラとなるための方法を模索してみる必要があるだろう。

サトウ教授の提言

「博士をフリーターにして世の中は得するの?」

こう疑問を呈するのは、立命館大学のサトウタツヤ(佐藤達哉)教授だ。サトウ先生が問いを投げかける理由は、次のようなものだ。

「専門を、ある程度極めた人間を、それとはまったく関係のない仕事につけることは、社会全体の不利益にもなると思うのです。なぜなら、そうした専門家を作り上げるために、社会はそれまで大きな投資をしているのですから」

大学入学から数えて、博士号を取得するまで最低約一〇年。博士の教育には、家庭からの支出の他に、社会からも多額の税金が投入されている。博士の専門知識を生かさず、本来得意とはしないような分野で働かせ、その能力を眠らせてしまうのは、社会的投資をまったく無駄にしているということなのだ。

投資した社会資本が無駄に使われた場合、通常であれば、市民の怒りを誘発するはずだ。だが、無職博士問題については、労働意欲や向上心、責任感といった若者のパーソナリティと関連づけた、軸のずれた問題と混同され、その問題の本質は個人に帰結され、うやむやのままに放置されがちだ。

それは、「博士」を作り上げるのに、社会的資本が投資されたという重大な事実が、誰からもほとんど認識されていないからではないだろうか。道路を造って、もし誰もそこを利用しないようであれば、「なんでこんなところに道なんか造ったんだ」と、市民から非難されることは必至だろう。博士とて、同じではないか。

「なんで、こんなに博士を作ったんだ」。市民から、こう非難の一つもあってよさそうなものだ。なぜなら、博士は、国策によって増産されたからだ。気がつくと、大学院に引っ張り込まれ、課程博士が終わればノラ博士。今や、右を見ても左を見ても、ノラ博士で大学キャンパス近くの道はあふれかえっている。だがそれは、計画によって生み出された光景であって、決して個人の問題ではないのである。

だからこそ、社会は、こうした人的資源の無駄遣いを生み出している政策を指弾し、資源の再利用を求める権利を行使していくことが求められる。なにしろ、自らの税金が無駄に使われているのだから。

日本には、もはや無駄金を使う余裕は、これっぽっちもないのは誰もが知っていることではないか。庶民の大切なお金が、一〇年以上も無駄に使われているのである。

さて、その無駄をどうすれば、解消することができるのだろうか。先のサトウタツヤ教授は、その解答を示してくれる。

「ボトムアップ的人間関係の構築にこそ、〝博士〟資源の再活用の道が隠されています」

サトウ教授は、現在、「ボトムアップ人間関係論の構築」というテーマで研究を行っている。人間関係というと、通常は、次のようなものがすぐに思い浮かぶ。親子関係、恋人関係、職場の人間関係など。だが、と教授は続ける。

「これらとは別の視点で捉えられるべき、人間関係があるのです」

医者と患者。先生と生徒。介護士と介護される人。すなわち、医療、教育、福祉の場での人間関係が非常に重視されるようになってきたと、教授は考えているのだ(「現代のエスプリ441 ボトムアップ人間科学の可能性」至文堂)。

だが、こうした人間関係には、通常、ある種のパワーポリティクスが働いている場合が少なくない。そして、これが、相互の関係にさまざまな悪影響を与えていると考えられている(「ボトムアップ人間関係論の構築(特集 現場からの知)」二一世紀フォーラム〈政策科学研究所〉94)。

たとえば、〝治療する人/される人〟、〝教える人/教えられる人〟、〝世話をする人/される人〟。こうした場合、どうしても前者が強く後者が弱い立場に立たされる。人間関係は平等ではなく、強者と弱者という構図が生み出されている。

「これを、平等的な人間関係にすることが大事です」

それぞれが、〝共に治す〟、〝共に学び考える〟、〝共に心地よい生き方を支え合う〟。こうした人間関係が構築されることが、よりよい市民生活を送るための重要な視点になる、とサトウ教授は考えている。つまり、高度なサービスを一方的に〝受ける〟のではなく、〝サービスを介した良好でフラットな人間関係の構築〟こそが、大事だということだろう。

「博士の力を活用すれば、これは解決し得るのです」

高度なサービスを介した人間関係に、上下関係ができてしまうのは、サービスの供給側が圧倒的に高度な知識を大量に有しているからだと考えられている。こうしてできた上下関係の間に介入し、高度な専門知を一般の言葉へと置き換え、難解な情報が正しく理解された形でサービスの受け手に共有できるようになるとすれば、歪みは解消される。

「博士こそが、そのつなぎ手として最も可能性を秘めた存在となるのです」

あぶれるノラ博士を生かすには、こういう方法もあるという例として、希望あふれるものではないだろうか。高度なサービスの仲介者として、手数料収入を得ることもできるかもしれない。

ノラ博士が弱者を救う

近年、法科大学院というものが、全国の大学に雨後の筍のように設置された。この専門職大学院は、ニュースでもよく取り上げられていたように、日本の法曹人口を増やそうという目的で設置されたものだ。

平均修養年限三年の課程を終えると、「法務博士」が授与される。同時に、新司法試験が受けられるようになる。だがそれは、修了後、五年以内に三回までという制限がある。

では、三回までのチャンスに合格できなければ、彼らはどうなるのだろうか。いくら法務博士になったといっても、司法試験に合格しなければ、専門職課程での経験も生かす場がないではないか。

実は、大学院に再入学すれば、二年後(法学の知識を修めた経験〈法学士〉があると認められた場合には、三年ではなく二年で修了できる)には、また、再受験のチャンスを得ることができる。こうした抜け道が、密かに用意されているのだ。だが、こんなことを一体誰が望むというのだろうか。

新司法試験の合格率が、医師国家試験並み(平均八〇%以上が当たり前)というのであれば、万一、運悪く三度の試験に失敗しても、「もう一度だけ」という気が起こるかもしれない。

だが、〝新〟とはいっても、そこは司法試験だ。受験者の半数以上は落ちることとなる(第一回の〝新司法試験〟合格率四八・三五%)。大学院が大増産された今、その合格率は、学校の設置数がアップしていくのとは裏腹に、大きくダウンしていくことは必至だ。

つまり、何度チャレンジしても合格しない人たちが生まれることが避けられない情勢となっている。彼らは、〝法務博士〟ではあるが、〝ただの人〟となるのだということを、このことは意味している。

いつか辿ってきた道が、今また、ここに現れようとしていることがお解りだろうか。そうだ。ノラ博士が、またここに、大量に生まれようとしているのである。多くの時間とお金、そして税金をかけて、どこにも活躍の場を求めることができない、高学歴無職者を、またもや生産しようとしているわけだ。こんなことは、無駄以外の何ものでもあるまい。

今後、大量に輩出されていくと予想されるノラ〝法務博士〟は、一体どこに行き場を求めればよいのだろうか。

法学博士の池田さんが取り組もうとしていることが、その解決策を示し得るヒントとなるかもしれない。

池田さんは、大学院博士課程を修了し「法学博士」(前述の「法務博士」とは異なる)を取得している。だが、司法試験は受けたことがないため、弁護士や検事、裁判官などのいわゆる法曹人とは少々異なる位置にいる。現在の身分は大学の研究員だ。

「ゆくゆくは、専任教員になりたいと思ってはいますが、現在、その可能性はほとんどありません」

ご多分に漏れず、池田さんも〝准〟ノラ博士というわけだ。現在の手取りは約一五万。一年契約で最大三年までという約束で、現在二年目の任期だという。

「ボーナスや一時金など、もちろんありません。唯一、健康保険だけは何とかつけてもらいましたが、病院に行くような事態になれば、そのお金にもたぶん苦労すると思います」

任期が終了する来年三月以降のことは、何も決まっていないという。

「だから今、生きるためにあることを考えているんです」

池田さんは、来年以降の生活を見据え、現在、障害者の係争支援に取り組もうという構想を練っている最中だという。

「障害者、とくに精神障害や知的障害がある人にとって、裁判などで争うことは大変な困難を伴います。私は、こうした人たちの支援ができないかと考えているんです」

司法の場で使われる言葉は、一般的に非常に難解だ。弁護士の言葉を理解することが難しいということも多々起こる。だが、弁護士などは大変忙しいので、クライアントであっても、そうした言葉の解説をお願いするのははばかられる。

「私は、その仲介をしてみたいのです」

こうしたニーズは、実のところ小さくないのではないだろうか。高度な技能を有する専門職業人と、その知識や経験・技術を必要としている人との、〝間〟をつなぐ「専門家」に対する世の中からのニーズは、まだ決して大きくはないかもしれないが、今後、必要となってくる分野であることは間違いなかろう。そこには、専門の仲介職として、ユーザーからの手数料収入が得られる可能性もある。これは、たとえば専門家がパソコンの使い方を教えることと似たような形だ。

もっと安心して満足できる高いサービスを享受したいという思いは、法律のように素人には理解が難しい専門性の高い分野であればあるほど大きいはずだ。高度医療などもこれに当たる。基本的には分からないことが多いし、不安だし、できるなら避けたい、だが利用せざるを得ないという場合、その道の〝博士〟がセカンド・オピニオンを与えてくれたら、どんなに安心できるだろう。

専門のことを深く勉強したノラ博士なら、高度であるが故に複雑さがつきまとうコミュニケーションの場を、クライアントにとって安心できる、顧客満足度の高い場へと昇華させていくことが可能かもしれないのである。

現実的には、池田さんが考えているような仲介の仕事は、大した報酬が得られるわけではないだろう。だが、自らの専門知を生かす場という意味では、ノラ博士にとって自身の誇りを満たす場ともなりうる。人間、行き場のないことほど辛いものはないのだから。

ノラ博士も、お日様の下を堂々と歩けるようになるわけだ。彼らの専門知は、人助けに生かされ、それは、自らにとってもクライアントにとっても喜ばしいこととなるはずだ。「ノラ博士、万歳!」。もしかすると、世間の人たちが、そういってくれる日が遠からず来るかもしれない。

塾講師という二番目の選択肢

研究職に就けない博士たちが、その道をあきらめ、食うために選択する就職先として、日本では塾講師が定番の〝准〟進路となっている。

アメリカの場合、アドミッション・オフィスなどの、公的な入試を手がける組織に、博士号取得者が、〝高度な専門的知識を有する人間〟として就職するなどの道が開けているが、日本では、公的な機関からの求人というものはまだほとんどない。そのため、日本では、塾が大学予科として、似たような位置づけとなっている。

だがそれは、アメリカでの博士号取得者が行う〝進路選択〟とは、決定的に意味が異なっている。アメリカでは、大学などの研究機関でないところへの就職も、〝専門家〟としての積極的な選択肢の一つと位置づけられているのに対し、日本では、第二の選択肢として〝しかたなく〟選択しているという大きな違いがあるのだ。

当然、雇用側からも専門家とは捉えられてはいない。学部卒者の塾講師も博士号持ちの塾講師も、ほとんど同じように位置づけられている。

日本では、博士はつぶしがきかないと信じ込まれている。研究職に就けなかった博士は、その時点で〝ダメ〟の烙印を社会から押されるようなものだ。そのため、研究職以外の選択をせざるを得ない当の博士も「しかたがないから」というような、後ろ向きな態度で行き先を決定せざるを得ない状況にある。これでは、〝高度な専門的知識を有するもの〟としての矜持を維持することは難しいだろう。

やはり、サトウ教授が提案するように〝社会が博士を必要としているのだ〟という環境が構築されることこそが、ノラ博士たちを生かす最大の施策となり得るのではなかろうか。本業が無理なので仕方なくというような現在の状況は、人に誇りを与えない。これは、なにもノラ博士問題だけに限ったことではない。

日本には現在、あまたの非正規雇用者がいる。彼らは、正社員と同じ仕事をしているのに、その待遇はあまりにも低い。「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る」と、石川木が詠んだあの時代は、〝ワーキングプア〟と呼ばれる彼らにとっては、現在そのものなのである。政府は、〝再チャレンジができる世の中に〟ということを声高に謳っているが、これでは、再チャレンジをしようにも、環境的に無理である。

東国原宮崎県知事が再チャレンジの具現者のように持ち上げられているが、そもそも彼は、再チャレンジのための潤沢な資金を持つ〝お金持ち〟だったはずだろう。そういう状況から行うものを、普通は、再チャレンジとは言わないのではないか。それは、単なる、チャレンジだろう。「再」がつくチャレンジを心底望んでいる人は、他にいるはずだ。いや、現状では、むしろ多くの国民がそれを望んでいるのではないか。

だが、本当に大事なことは、再チャレンジなぞ、最初からしなくともよいというような、人びとが誇りを持って一番目の選択肢として働く環境を選択できる体制を保障することだろう。それこそが、人びとに勇気と安心を与えていくのではないだろうか。国民が元気になってこそ、国も元気になるはずである。誤解のないように言っておくが、東国原知事のチャレンジが、人びとに勇気と希望を与えたことは間違いない。私自身、知事選の結果に胸のすく思いだった。

三行半を突きつけよう

教員市場のバランスが完全に崩れた今、ただ状況の改善を願ってみても、何も変わりはしない。今は、超のつく買い手市場であるから、なおさらだ。しがみつけばつくほど、足元を見られるだけである。では、一体どうすればよいのか。

「いっそ、博士号を返上しようか」

関西の大学でポスドクをしている堤さんは、ある飲み会の席上で、こんなドキッとする台詞を吐いてくれた。堤さんが、冗談でもこんなことをチラッとでも思ったわけは、こうである。

「私が所属する大学で、研究発表会が行われた時のことです。私は、その時、事務の人たちと裏方で働いていました」

その研究会は、堤さんらが所属する教員や研究員が、一年の成果を発表する場であった。だが、その時、堤さんら、ポスドクの人には、講演会での発表の機会を与えられることはなかった。発表は、もっぱら専任教員によって行われたという。

「要請された仕事は、パソコンの設置や演台、花瓶などの設置。発表者用の水とコップの取り替え。ビデオ撮影や写真記録。メモなどを含めた雑用全般でした。それも、事務の人の指示の下でです」

堤さんは、大学院生時分のことを思い出したという。

「院生時分は、こうした下働きをかなりこなしました。でも、それは、いろんな意味で勉強になっていたので、何も悪いことはなかったんです。むしろ、感謝しています。でも、博士号を取得した後も、同じような仕事をするのはどうかという思いに駆られることは、正直、時々あります」

堤さんが博士号を取得してから、すでに五年。最初の三年間はノラ博士だったという。ポスドクに就いたのが二年前。

「これで、ようやく少しは研究者らしい生活を送ることができると思いました」

だが、多くの場合、専任教員や事務からの、下働き的仕事を求められるのが、こうした〝准〟ノラ博士の実態だ。

「私は、何もそれが必ずしも悪いことだとは思っていません。なぜなら、最初から分かっていたことでしたから。でも、今回の場合、ちょっとだけいつもと事情が違っていたのです。それが、私を虚しい気持ちにしました」

発表が進み、ある教員が演台の前に歩いてきた時のこと。その時、堤さんは、発表者が立つステージの袖にある、裏方が控える部屋に待機して、発表者用の水やコップを片手に、それらを取り替える準備をしていたという。

「水を持っていきながら、発表者の顔を覗くと、明らかに私より若い先生だということがわかりました。すぐに袖に戻り、プログラムを開くと、その助教授の女性は三一歳とあったのです」

同じ大学にいるとは言っても、所属が違えば普段は顔を合わせることもない。なので、知らない顔がいることは何ら不思議ではないのである。その助教授は、前年に配属されたばかりだった。

「同じように博士号を持っていても、片や専任教員、こちらは任期付きの非正規雇用者です。彼女は、演台の前で発表し、私は、彼女の飲む水を替える係。しかも、彼女は三一歳で私は三五歳。心が折れそうになったんですね」

年をとればとるほど、博士号の価値が自分のなかで低下していっていることをハッキリと自覚するようになったと、堤さんは語る。

「博士号を取っても、何もいいことなどありません。むしろ、そのプライドのために苦しみに振り回されることのほうが多いのです。それならば、いっそ返上して、一市民として生きるのもいいかなと思ったのです」

堤さんは、すでに、教員になる気はまったくなくなったと言う。

「博士号のことは忘れ、教員にはできない仕事をしようと思っています」

いわば、自らこの世界に三行半を突きつけようというわけだ。堤さんのように考える人が、もし大量に出てくれば、いびつな姿に変化した教員市場も、少しは改善されていくかもしれない。

決して望んで辿りついたわけではないだろう。しかし、堤さんの決断には「その手があったか!」と考えさせられる。ノラ博士たち皆で、この世界に三つ指をついてみるのもいいかもしれない。

もしかしてチャンスなのか?

堤さんは、教員になろうと思い博士号を取得し、よんどころない事情から、別の世界で生きる決断をしたのだった。それは、辛い選択であったように見える。だが、もし、教員になるつもりが最初からなくて、博士号を取得するということであったなら、堤さんには、また別の人生が開けていたのかもしれない。

中国地方の大学に勤める井上教授はこう語る。

「私たちの時代は、博士になろうと思ってもなかなかなれない時代でした」

今から三〇年ほど前は、ドクターコースに入るのはなかなかに大変だったと先生は言う。今とは違い、大学院には定員を確保する義務も大してなかったので、教室を運営する指導教官が「こいつはモノになるぞ」という判断を下してくれなければ、門前払いをくっていたからだ。

そういう選別が、入学段階で働いていたからかどうか知らないが、その当時の同級生は、皆、現在、専任教員になっているとのことである。つまり、彼らは優秀と見込まれたから教員になれたということのようだ。

大学院重点化以前(平成三〈一九九一〉年以前)に、ドクターコースを出て、現在、教員をしている人のなかには、こうした考えを持っている方も少なくない。

つまり、重点化による余剰博士問題は、「優秀でないから、ノラ博士になっているのだ」という論理である。もちろん、こうした考えが、まったく本質からずれたものであることはすでに見てきた通りだ。

社会における構造的問題を個人の問題としてすげ替えていこうとする動きは、枚挙にいとまがない。たとえば、平成一八(二〇〇六)年以降の博士号は、取りやすくなったので、こうした博士が就職を見つけられないのも当然だ。それ以前の博士だって就職がないのだから、文句を言わず業績をあげろ、というような粗野な論法が展開されるようになるのも、この先時間の問題だろう。

「昔は、二流、三流私大から帝大に入ってくるものなど皆無だった。皆、門前払いされていた。帝大で博士を取ったといっても、そういう学生は、もともとは実力がないのだから、就職できなくとも当然だ」

こういう学歴差別意識丸出しの論法も、まことしやかに、さまざまなところで囁かれているのである。

だが、およそこうした意見には、なんらの根拠も見いだせないケースが多い。要は、問題の本質を見極めることなく、安易に原因を個人に転嫁してしまい、不都合なことには目をつぶりましょうというにすぎないのだ。そうすることで、既得権を有するものたちが、守られるからであることはいうまでもない。つまり、個人に責任を転嫁しようとする意見は、論理的に破綻している場合が多い。なので、その意図するところなどに目を向けようとすること自体、時間の無駄である。

一方で、差別的発言のなかに出てきた〝現象〟そのものには、注目すべき点がいくつかある。いわく、「三流私大から帝大に入ってきたものが増えた」という件である。

現実に、このパターンは増えている。大学院重点化によって、確実に定員を確保せねばならないということと、大学院間に人材の流動化を求めた文科省の意向がその背景となっている。つまり、自学出身者だけで研究科を構成するのではなく、他学出身者を導入する比率を上げていこうということだ。

学部を卒業し、大学院でステップアップをしようと考える学生には、純血主義をよしとする旧来の勢力は嫌がるかもしれないが、よい風が吹いているといえるのだ。ただし、こうした学生には、さまざまな苦労がつきまとうのも事実だ。

生え抜きなどから、「学歴ロンダリング」(通称、ロンダ)などと蔑称をつけられたり、大学生え抜きが有する就職ネットワークの中に入れてもらえなかったりということは、当たり前に見られる。

だが、こんなイジメのようなものは、どんな社会の中にでも見られるだろう。むしろ、さまざまな人たちに、ドクターコース進学の門戸が開かれたという視点からすると、今は結構いい時代なのかもしれないのだ。

博士号取得という視点に特化してみれば、間口が広くなった現在のほうが、誰にでもチャンスが開かれているという意味で、歓迎されるのは間違いないからだ。要するに、逆転の発想だ。高学歴フリーターになる可能性も高いが、最初から、教員など目指さないという選択のもとに、ドクターコースに入ることを決断するのであれば、そう悪いものでもないかもしれないということだ。

専任教員への道にこだわるからこそ、苦しみが生まれているのである。はなから、そんなものには目もくれず、別の目的のために学位を取得するという態度で臨めば、現在のノラ博士たちが味わっている苦しみをなぞることもあるまい。

ノラ博士たちも、今からでも遅くはあるまい。国立大学の最高号俸でも一二〇〇万円程度の給与しか手にできない教員などには見切りをつけ、お金ではない、もっと大きな夢を追いかけてみたらどうだろうか。

臨機応変に見切る

教員を、一生の夢と位置づけるのではなく、ある時点での目標と位置づけるのもよいかもしれない。

大学院博士課程に進んだ院生は、通常、「もうシャバに後戻りはできない。研究者になるしかない」という悲壮な決意を抱く場合が少なくない。だが現在、研究者にこだわればこだわるほど、苦しまねばならない状況が生まれていることは、飽きるほど見てきた通りだ。

もはや、「教員にならなければ生きていけない」などという間違った〝信念〟は捨て去るべきだろう。いや、そうでなくては、〝ノラ博士地獄〟に落ちて苦しむ、大勢の博士たちが生まれ続ける連鎖に、歯止めをかけることはできないのだ。

ストップ・ザ・固執。もう少しだけ、自らを自由に解き放ってもいいかもしれない。

一つのことだけにこだわることを、あえて避けた生き方を実践しようとしている、羽藤さんに話を聞いてみた。羽藤さんは、現在、ポスドク一年目。残りの任期は二年である。あと二年以内に、専任教員への道が開けなければ、別の道を探すのだと彼は言う。

「最初から、教員へトライするのは三年だけと決めていました。そうでなければ、キリがないからです」

現在のような状況で、教員になることにこだわり続けるのは、あまりにもリスクが高すぎることだと、羽藤さんは考えている。

「私は、いわゆる三流私大から旧帝大に移った〝ロンダ〟組です。移った直後から、自分に割り当てられたチャンスが、他の人たちよりも少ないことに気がついたのです」

羽藤さんは、学部時代の大学で、一人の面白い教授と出会った。その先生の教えを受けるうちに、「もっと深く学問を学びたい」と思うようになったそうだ。

「ですが、ウチの大学には、大学院博士課程がなかったのです」

研究の面白さに目覚めた羽藤さんは、どうせなら博士課程まで進みたいと思った。だが、自学の院には修士課程までしか設置されていなかった。

「教授に相談すると、他学の院試を受けなさいと勧められました。どうせなら、旧帝大を受けろとも」

三流私大から旧帝大なんかに受かるわけがないというのが、その時の、羽藤さんの正直な気持ちだった。だが、教授の迫力に押され断り切れず、ついに旧帝大の院試を受けるハメになってしまった。

「院試の勉強は必死にやっていましたが、自信を持つことは最後までできませんでした」

合格発表の時、そこに自分の番号があるのを見て、羽藤さんは、「見間違いじゃないか」と何度となく確認したという。すぐに合格の報告をしに教授のところへ伺うと、「君はチャンスを掴んだんだよ」と言われたという。そして、その日は教授主催によるお祝いの晩餐会が開かれたそうだ。

大学院重点化によって、広く高等教育への門戸が開かれたことによって、羽藤さんの、「もっと研究がしてみたい」という夢は、ここに現実になったわけだ。

しかしこれは、彼にとって喜ばしいことだけではなかった。

新しくできたルールの下にチャンスを掴んだ人たちを指して、ロンダなどと蔑称をつけ、「ずるをやった」とでもいわんばかりに非難めいた口調で陰口を叩く世の現実にも、羽藤さんは同時に晒されることとなったからだ。だが、当の羽藤さん、実はそのことにまったく動じてはいなかった。

「私は、ルールのなかで正々堂々と勝負したと思っています。だから、人の目はあまり気にしてません。むしろ、チャンスをどう生かすかに関心があるのです」

その後、帝大で無事に博士号を授与された羽藤さんは、「ここまで来たら、研究職の道で一生やっていってみたい」と思うようになった。

博士取得後、羽藤さんもご多分にもれず、一年間はノラ博士だった。だが、次の年には、何とかポスドクに採用されることとなった。

「今がチャンスだ、と思いました。このチャンスを生かしたい。そのためには、三年間だけ、また必死になって挑戦してみようと思ったんです」

三年という期限を決めたのは、それが勝負の流れだと思ったからだという。いくら一生懸命にやっても、うまくいかないときは、どうしたってうまくいかない。逆に、うまくいくときは、スッと物事が運ぶ。羽藤さんは、テニス部に長く所属した経験から、勝負事に関する独自の哲学を披露する。

「私が、旧帝大の院試に合格できたのも、何らかの運があったように思います。見えない力に導かれるように、私は研究者を目指すこととなりました。ですが、一生、研究職でいけるのか、それはまだわかりません。だから、三年という時間に賭けてみたいと思ったのです」

縁があれば、研究者になれるだろうと羽藤さんは考えている。

その縁を自らたぐり寄せるかのように、彼は、昨年一年間に論文を六本書いている。

「最低、毎年六本書く」

三年で一八本。これでダメなら、しょうがないと、彼は、たんたんと語る。その語り口には、ある種の潔さがみられ、清々しい空気が彼の周りには漂っていた。

「もしそれでダメなら、それは、私にとってやらなければならないことが他にある、ということなんだと思っています」

あと二年後に、専任教員が決まっていなければ、迷うことなくこの道は捨て、他の道を探しますよと、羽藤さんは、はにかんだ。

その時は必ずやってくる

望むと望まざるとにかかわらず、大学という場で生活の糧を得ている人たちには、羽藤さんのように、第二の選択肢を常に見据えておく必要性が急激に高まっている。大学倒産の危機がそこに迫っているからだ。

すでに、立志館大学(広島県)、酒田短大(山形県)、萩国際大学(現・山口福祉文化大。山口県)などは、それぞれ、平成一五(二〇〇三)年に休校、文科省から解散命令、負債累積約三七億円を抱え民事再生法などといったことで新聞紙上を賑わしている。また最近では、再建計画を策定中だった、小樽短大(小樽市)が、平成二〇(二〇〇八)年三月末での閉校を決めたことは記憶に新しい。

平成一九(二〇〇七)年度の入試で定員割れを起こした私立四年制大学は、二二一校あまりで、その割合は約四〇%(全五五九校中。日本経済新聞平成一九年八月一日付朝刊)。もちろん、今後も増加の一途をたどるはずである。短大と大学をあわせ一〇〇〇校近い学校も、近い将来には三分の一に淘汰されるのではないかと噂されている(講談社web現代、平成一四〈二〇〇二〉年一二月四日)。

現在大学に所属する教員は、各人が所属大学の法人の運営に目を光らせておく必要があるだろう。潰れる予兆というものは、必ずどこかに出るものだ。そうしたものを発見したときのことを今から考えておかねば、〝その時〟がきたときには、もう間に合わないという事態になる。

これは、今から大学の専任教員になろうと考えているノラ博士たちにとっても、同様に必須のこととなる。なぜなら、異常とも言える高倍率(現在、専任教員の公募が出ると、八〇倍などという競争率になることは珍しくない)を突破して奇跡的に専任教員になっても、その大学がほんの数年で潰れてしまったとすれば、一体どうするというのか。

おそらく、優秀な教員には、その前に引き抜きがかかり、目利きのいい人間はイの一番に逃げ出しているはずだ。そんななか、残された教員に再就職先などあるわけはない。とくに就職したての教員なぞ、研究者としての実績も少ないのだから、あっという間にノラ博士に舞い戻ってしまう。もし、〝その時〟のことを念頭に置いていなければ、これほど悲惨なことはないだろう。路頭に迷わないためにも、自衛する必要性が高まっていることがわかるはずだ。

こうして見てみると、現代のノラ博士は悲惨そのものである。少子化の波が確実に訪れるとすでにわかっていた平成三(一九九一)年、意図的に大学院生の増産が行われ始め、現実的に大学経営の現場に少子化の影響が見え始めた頃、研究者として独り立ちの準備をしなければならないことになった。

大学市場が急速に冷え込むなか、新規教員予備軍は最大規模を迎える上、さらに既存の大学は淘汰で次々と消滅していくという負のスパイラルのなかに放り出されたのが、彼らなのである。

私の知人に、建築会社を三度移った人間がいる。最初に就職したのは、平成九(一九九七)年。バブルのツケがさまざまなところに噴出していた時代のまっただ中だった。その会社は二年で潰れ、コネで次の会社に彼は移った。だが、そこも一年で潰れてしまう。再度コネで再再就職するも、またもや一年後にはその会社がなくなった。そして現在、彼はスロプロ(スロットを専門に打って収入を得ているプロ)をしている。

今から専任を目指すノラ博士も、同じようにならないとも限らない。高倍率をクリアし、やっと就職したかと思えば、三年後には法人解散。その頃までに培ったコネで、再就職するも、またもや二年後には大学閉鎖。気づくと、全国に生き残った大学は半分程度しかなく、もはや、再就職など夢のまた夢。こんなことが、現実になる可能性が非常に高いのが今なのだ。

そう考えると、遮二無二、専任教員になることだけを目指すことは、危険極まりないことではないだろうか。四〇歳や五〇歳になって、無職に転落した博士は、一体どうやって生きていったらいいのか。三十代のノラ博士でさえ、ツブシがなかなかきかず、苦しんでいるというのに。

〝その時〟は必ずやってくるのである。

運のいいことに、現在のノラ博士たちは、今ならまだ方向転換がギリギリできるところにいるのではないか。このまま、大学にぶら下がることを最優先目標にしておいてもいいものか、今こそ、じっくりと考えてみるべきだろう。まだ、その時間はわずかながら残されている。

空前の人余りのなかで、教員市場にエントリーをし続けるノラ博士たちは、正規雇用されることを必死に願い、今日も低賃金・無保障の非常勤講師などをやり、ひたすらにそのチャンスを待ち続けている。

だが、待てども待てども、彼らに春がやってくることは、ほとんどの場合〝ない〟のが現実だ。多くのノラ博士は、そのことをすでに実感しているはずだ。だが、それでも待ってしまうのだ。

理由はいくつもあるだろう。他の仕事をやろうにもツブシがきかない。研究がしたい。教授になりたい。とにかく大学に居続けたい。博士にふさわしい仕事をしたい、など。だが、そこまで固執する必要が本当にあるのだろうか。

運よく、専任教員になれたとて、就職先の大学がいつ潰れるとも限らない世の中なのだ。そんなことになれば、必死になっていたその分だけ、立ち直れないダメージを受けかねない。

もはや、大学という市場にうま味はまったくなくなっているのだ。専任教員であっても、ある日突然、給料が減額されたなどという話は、そこかしこで耳にするではないか。給料程度なら、まだましだ。ある日突然、「大学閉鎖が決まりました」などと法人から突きつけられたらと思うと、彼らとて、おちおち寝てもいられないのではないだろうか。

専任になったとて、決して安心できるわけではないのである。とすれば、そんなにも必死になって大学にしがみつく必要性は、どこにあるというのか。ノラ博士の大半は、まだ、二十代三十代なのだ。アカデミズムの世界に執着することなく、もっと別の人生の選択肢を見つけることも、まだまだ可能な年代なのだ。

自らの人生について、今一度、ここらで考え直してみるのも一手ではあるまいか。私自身、仏門に入ったのは、このことと無関係ではない。現世の無情とどう付き合えばよいのか。我の思いとはならぬこの身を仏にまかせ、「生きる」という問題への知恵を仰ぎたくなったのだ。

優秀で前途洋々であった同期や先輩、そして後輩。博士課程に在籍した結果は、無惨を極めている。あたら若く有能な人たちが、なぜ、このような境遇に身を落とさねばならないのか。一体、何のために博士課程へと進学したのか。もはや、仏に教わるより道は見えてこない。ポスドク問題の現場には、このような惨状の荒野が広がっている。その先に何があるのか。袈裟を纏い、答えを求め、白骨に埋まる大地を歩き続けてみようと思う。

(第6章に続きます)

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