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ブロックチェーンのダメなところ――『Web3とは何か』by岡嶋裕史 第1章 ブロックチェーン⑥

過去の連載はこちら。

岡嶋さんの話題作。現在6刷です。

「メタバースとは何か」というテーマで、岡嶋さんが講演します。

第1章 ブロックチェーン⑤

ブロックチェーンのダメなところ1

ここまでブロックチェーンの特徴を取り上げてきた。特長と書いてもいいだろう。みんなが期待しているブロックチェーンの美点である。Web3でひともうけを、あるいは世直しを目論んでいる組織はこの美点を武器に既存システムに殴り込みをかけている。

私自身、ブロックチェーンにはさまざまな美点があるけれども、使いどころが難しい技術だと考えている。2018年に書いた本では次のように記した。

「インターネットがそうであったように、ブロックチェーンも一つのインフラとして育っていくだろう。しかし、そのプロセスにはまだ何回かの失望が予測され、また広がる範囲も限定的なものになるかもしれない。そして、ここが最重要だが、非中央集権の旗印であったはずの技術が、その発展の中でむしろ既存の権力者を強化する方向に働く可能性すらあるのだ。我々は、インターネットで一度それを目にしたばかりである」

これを踏まえて、今度はブロックチェーンのダメそうなところを説明していく。

短所は長所の裏返しであるので、ポイントになるのは長所と同じ3つの要素だ。

1.分散型で単一障害点がないこと
2.非中央集権であること
3.書き込み専用・改ざん困難であること

長所の時もそうだったが、3つの要素は互いに重なり、影響し合っている。特に1,2は不可分に絡まっているので、ここではあわせて書いていく。

「分散型」「非中央集権」であるがゆえの短所

まず、サービスを止められない。

非中央集権で偉い人がいないので、その人の号令でサービスを止めることができない。全員にデータを配り、1人1人がシステムの要素を代替、補完できるから、参加者がいる限りは止まらない。設計の組み方によっては、1人いればシステムが回る。

それでいいではないか、永続性を保証するためのブロックチェーンだろう。政府の横暴で管理者が逮捕され、有用なシステムが止まることなどあってはならない。そう捉える人もいるだろう。

この側面だけを切り取れば確かにそうなのだが、やはりコントロールできないと不便な局面はあるものだ。たとえば、マネーロンダリングのしくみや児童ポルノ交換のしくみがあって、参加者の多くが捕まったとしても、誰かが生き残っていればそのシステムは続く。

長所でも取り上げたWinnyがそうである。あれは開発者の思いとは裏腹に、違法コンテンツの交換所として栄えた。ブロックチェーンは使っていないが、P2Pシステムなので「分散型」「非中央集権」であることは一緒だ。

開発者が亡くなってシステムの更新もなく、セキュリティ上の脆弱性に満ちた危険な場所になっている。古い仕組みなので利便性も低い。したがって、誰もが使いたいようなシステムではない。いまWinnyを使い続けている利用者の目的は、ほぼ違法コンテンツの交換一拓だ。

有用か有害かで言えば有害で、社会的コンセンサスとしてはおそらく止めるべきシステムである。でも、止められない。先に述べたとおりだ。少数でも、参加者がいる限り、分散した非中央集権システムは動き続ける。たとえそれが有害なものであり、多くの人が止めたいと願っていても。コントロールがきかないのだ。自由を突き詰めるって、そういうことだ。

自由には責任が伴う。多くの人はその責任を引き受ける準備ができていない。日常生活でもそうなのに、情報システムの上であればなおさらだ。ビットコインで間違ったアドレスにお金を送ってしまったら、永久に戻ってこない。そのアドレスを保有する人のものになるし、組み戻しなどをする調停機関はない。秘密鍵をなくしても一発アウトだ。

既存のシステムで、集権的な力をもつ管理者が適切に仕事をすればこれらは戻ってくるだろう。自由と自己責任が無条件にいいわけではない。

その代わり永続性が保証されていると主張することはアリかもしれない。でも、これもかなり怪しい。ブロックチェーンのネットワークは、不特定多数が参加することが重要な要件だ。ブロックチェーンの透明性や公平性は、見ず知らずの多くの人たちの猜疑に満ちた相互監視によってはじめて機能する。

いくらオープンでも、参加者が少なくなってくると、隠れた不正のやりようが出てくる。そして、もっとまずいのが参加者がいなくなることである。そのブロックチェーンは消滅してしまう。記録されていたデータはぱぁだ。

だって管理者がいないのだ。ブロックチェーンは自発的に集まった不特定多数の貢献によって維持・運営される。ブロックチェーンに魅力がなくなったとき、歯が抜けるように参加者が減っていくことは止められない。

「責任持って私がやります!」責任感の強い人がそう言うのだろうか。実際に言っている人を目にしたことがある。でも、それは意味がない。ブロックチェーンの参加者が1人きりであれば、ブロックチェーンのしくみがあってもデータの改ざんはしたい放題である。相互監視が働かないからだ。

「そんなことはない。私を信じてください」と言っても、それが信じられるなら、しくみはブロックチェーンでなくていい。管理者を信頼するタイプの従来システムと同じことである。

プライベートチェーンとパブリックチェーン

「責任感の強い人」を「責任感の強い会社」に置き換えても同様だ。企業がブロックチェーンを用いる場合、しくみとしてはブロックチェーンだが、運用は自社のみで行うプライベートチェーンにすることが多い。本来の意味でのブロックチェーン(不特定多数での相互監視)は、プライベートチェーンとの対比ではパブリックチェーンと呼ばれる。

ブロックチェーンをコントロールしたい意図がある。それはよくわかる。責任もってサービスを業務として提供するとき、そのサービスのインフラは自分の支配下に置いておきたい。何か事故が起こったときに、「制御できません」では業務とは言えないからだ。でも、ブロックチェーンの目指す非中央集権ではなくなる。

私はプライベートチェーンには意味がないと思う。仮にチェーンの内容をオープンにしても、ブロックの生成過程を一手に握っているため、不正データを承認してブロックに組み込むことが可能だからだ。

この辺のしくみは選挙に似ている。パブリックチェーンでも、不正なブロックの追加を試みることはできた。でも、みんながそれを検証するため、不正なブロックはバレてしまい、みんなは不正ブロックが追加されたチェーンは使わない。結果として、不正ブロックを含むチェーンは淘汰され、正当なチェーンが生き残る。複数のチェーンが出てきてしまったときに、みんなで選挙をして生き残るべきちゃんとしたブロックに投票しているようなものなのだ。

それに対してプライベートチェーンは選挙をしていない。ある企業Aがブロックの生成を独占しているのだから、まっとうなチェーンと不正なチェーンなど現れない。企業Aが不正や間違いをすれば、不正や間違いを含んだチェーンだけがみんなの前に現れる。

そもそも内部システムとしてチェーンを動かしているだけで、みんなには見せないかもしれないし、見せたとしても「みんな」の側にそこに働きかける手段はない。ちっとも分散していないし、民主的でもない。ブロックチェーンという名前に民主的なブランドが張り付いているので、それを利用しているだけである。

もちろん、企業Aを利用するとき、利用者は企業Aを信用しているのだろうから、企業Aが運営するチェーンを信用すること自体は不自然ではない。でも、内緒の場所で動かされているチェーンを信用するのであれば、密室で稼働する既存システムを信用するのも一緒である。ならば、後で述べるように、既存システムのほうがパフォーマンスが良いのだ。

コンソーシアムチェーン

それを是正するために、コンソーシアムチェーンというのもある。複数の企業、管理者が運営するブロックチェーンである。単独の企業や管理者に密室政治をさせない意図があるが、これもブロックチェーンの美点を大きく削ぐ。単一企業が運営するよりは相互牽制がきくだろうが、そもそもコンソーシアムに集まるのは仲が良く、利害が一致する企業群ではないのか? 先の例で言えば、特定の人間が票を握った状態で選挙をするようなものである。

他の例でもたとえよう。クラスの中で先生が専制君主であるとき、その先生は古典的な既存システムだ。クラスの児童全員の投票でクラス運営の方向を決めるのがパブリックチェーン、いやいやそれだと票が割れるだけ割れてちっとも運営が進まないから先生のお気に入りの児童数人のみに票を与えるというならコンソーシアムチェーンである。

コンソーシアムチェーンがひねり出す結論は、投票の形を取りながらも限りなく先生の考えに近いものになるだろう。それが悪いことかどうかはわからない。寡占のように見えて、能力も責任感も持ったコンソーシアムの結論はクラス運営をいいほうへ導くかもしれないし、もっと言うなら何でもかんでも先生が決めた方が物事が円滑に進むかもしれない。

選挙は、やったから必ず民主的になるわけではないし、まして効率的になるわけでもない。その理念を踏まえてきちんと運営して、はじめて民主制の礎になる可能性が出てくる程度のものである。同様に、ブロックチェーンも入れたら必ず大権力・大資本や権限の一極集中から解放されるわけではない。

だから、一般に言われるような意図でブロックチェーンを導入するなら、パブリックチェーンにすべきだと思う。そして、パブリックチェーンには先ほどの問題がつきまとう。コントロールがききにくいのだ。

消滅問題

コントロールのしくにさ自体が民主化の表れだと割り切るならまだいいが、製品やサービスとしては扱いにくいし、なにより消滅問題がこわい。不特定多数の参加者が確保できなくなれば、そのチェーンは消えるのだ。

だから永続性を求めてブロックチェーンを採用するのは、よくよく考えたほうがいい。ビットコインくらいまで育てば、当面はまあ安心だ。イーサリアムでも大丈夫だろう。でも、小さなブロックチェーンは永続性どころか、明日の心配をしたほうが良い。

アーティストが後述するNFTに参入する理由の一つに、永続性があると思う。みんな自分の作品を後世まで、できれば永遠に残したい。キャンバスや壁画では不安だし、CDだっていつまで読めるか怪しい。そこでNFTにする。真っ当な理由である。実際に、アーティストが表明する意見を読んでも、NFTにしたことで永遠に残ると考えている人が多いことがわかる。

しかし、実態はこれまでに記した通りである。

ブロックチェーンは一企業のものではない。みんなに開かれている。運営企業が倒産したらおしまいの、プロプライエタリなシステムとは違う。確かにそうなのだが、では一企業が運営するシステムに比べてずっと先まで残るかどうかはわからない。

たとえば私は重度のゲーマーだ。おこづかいのほとんどをゲームに突っ込む。投資したからにはゲームには存続して欲しい。重課金してSSRカードを何百枚と集めても、サービスが終了してしまえば紙くずだ。というか、サ終ならゲームにアクセスできなくなるので、キャプチャでもしておかないと、レアカードの絵面すら拝めなくなる。

ではブロックチェーンゲームにすればすべて解決かといえば、そうではない。ゲームシステムそのものはブロックチェーンに載っけられない。ブロックチェーンはあくまでデータベースである。

「そんなことはない、スマートコントラクトやEVMがあるではないか」という意見もあるだろう。でも、EVMがPS5やゲーミングPCのようにプログラムを実行してくれるわけではない。あれはゲームのしくみを収容する器ではない。ゲームシステムはブロックチェーンとは別に作られ、それを運営するのはゲームメーカーである。収益が出なければゲームは閉じる。

ゲームとカードのしくみが切り離されていて、ゲームが終了になってもカードにアクセスできるシステムはまだ救いがある。ただ、終了したゲームのカードにいつまでアクセスや、カード交換取引の需要があるかは疑問がある。
プライベートチェーン方式で、ゲームが終わったら明らかにカードを記録しているブロックチェーンのほうも終わるだろうと考えられるサービスもある。それは「とりあえずブロックチェーンを使っているだけ」とか、「カードの売買を、ふつうは公式のプラットフォームでは認めていないけど、このゲームでは認めてみました」くらいの意味しかない。

カードの売買は、メーカーさえ認めてくれれば既存システムで可能だし、永続性の点も同様だ。少人数の泡沫チェーンより、しっかりしたメーカーが運用する既存システムのほうがずっと長続きする可能性が高い。(続く)


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