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【都知事選】れいわ新選組 山本太郎は稀代のポピュリストなのか?

現在、光文社新書の執筆を進めていただいている評論家の真鍋厚さんの原稿から、目下7月5日投開票の都知事選に出馬中のれいわ新選組の山本太郎氏に関わる記事のみ、こちらで緊急公開いたします。山本太郎氏について詳細に分析した論考です。ぜひこれを機会にご覧いただければと思います。画像提供/AFLO

政治が綺麗事、つまりはビジョンを語らないで誰が語るんですか? 私たちが目指す世界はそういう世界なんです。力を貸していただきたい。大暴れしてやります。国会が一番面白い見世物だって言わしてやりますよ。テレビが放送しなきゃならないようなそういう見世物にして参ります。(2019年7月5日に東京・新橋駅SL広場で開催されたれいわ新選組街頭演説会における代表の山本太郎の発言)

警戒されるれいわ新選組

れいわ新選組は、参院選の前後からその人気ぶりに警戒感を示す言説が続出していました。

曰く「ファシズムの兆候である」、曰く「危険な極左政党である」…有識者から一般人までこのような危惧をあらわにする人々が少なくなかったのです。なかでも説得力があったのは、「ポピュリズム」とか「ポピュリスト」といったもっともらしいレッテル貼りでした。

ポピュリズムは、人民主義と訳されたり、大衆迎合主義と訳されたりしている政治学の用語ですが、一般的に分かりやすい出来事を挙げると、2001年〜2005年の「小泉旋風」が例としてわかりやすいでしょう。当時の自由民主党総裁の小泉純一郎は、「郵政民営化」に反対する議員などを「抵抗勢力」と呼んで、バブル崩壊後のうっ屈をもてあましていた庶民を味方に付ける手法で選挙に圧勝しました。つまり、カリスマ的な人物の人気を最大限に利用して、それまで政治に無関心だった無党派層などを扇動し、一種の独裁政治のような体制を作ってしまうイメージです。これがポピュリズムという現象について、わたしたちが最も馴染んでいる理解ではないでしょうか。

しかし、ポピュリズムという言葉は、このような現象について大枠で名前を付けたものに過ぎず、特定の政治思想などとはまったく関係がないことに注意が必要です。近年では2017年の、東京都知事の小池百合子が率いる「都民ファーストの会」の都議選での電撃的な大勝利、立憲民主党立ち上げ時に湧いた「枝野フィーバー」による衆院選での野党第一党への躍進は、まだ記憶に新しい日本におけるポピュリズムの典型例です。結論を言ってしまえば、ポピュリズムは良くも悪くも選挙に勝つための政治手法の一つであって、今やどのような政党もチャンスとその気さえあればポピュリズムに乗っかることができるのです。もちろん、カリスマ的な人物が存在することが大前提となりますが…。

そのような意味で、れいわ新選組の参議院選挙における議席獲得と、その中心で広告塔の役割を果たし続けた山本太郎は、まさにポピュリズムという現象を作り出しているポピュリストの一人といえるでしょう。実際、山本は、「生活苦」という状況を変える気概で旗揚げしたこと、「人々を救うということをポピュリズムというなら、私はポピュリストです」などと様々な媒体で話しています。「枝野フィーバー」ほどの大きな波は起こりませんでしたが、設立からわずか3ヵ月半ほどで比例区で二議席を獲得しました。得票率が2%を上回ったことで政党要件を満たし、いわゆる諸派から国政政党になったのです。

とはいえ、現状は野党の中でも弱小政党に過ぎません。そんな政党になぜ「ファシズムの兆候」「危険な極左政党」といった懸念が噴出したのでしょうか。ここには山本が採用した日本政治史上稀に見る政治戦略が大きく関係しています。

それは、インターネットを情報発信の武器として最大限利用し、不満を抱えている庶民に「生きているだけで価値がある」と呼びかけ、既得権益にしがみ付く政府や財界人を舌鋒鋭く追及するーーこのような山本の言論スタイルのことにほかなりません。

具体的には、小泉政権からはじまった新自由主義路線の経済政策、大企業を優遇し続けてきた安倍政権と経団連を槍玉に上げ、消費税の廃止や奨学金徳政令などを打ち出し、その財源については新規国債の発行と富裕層への課税強化でまかなうという姿勢です。つまり、このような方針が熱狂的支持を集める「れいわ旋風」に「持つ者(富裕層)と持たざる者(貧困層)の戦い」(古い言い方をすれば、支配階級と被支配階級との階級闘争)を見い出し、暴力革命による支配階級の打倒といった「左翼のリバイバル」のように受け止める人が結構多かったのです。「社会的弱者」を扇動して「取れるところから金を取る」強行策を企んでいるといったところでしょうか。そんな体制破壊的な意図を感じ取って距離をおいた人も少なくなかったのです。

たしかに、これは従来の「小泉旋風」や「枝野フィーバー」といったポピュリズムの様子とは明らかに異なっています。政治学者の水島治郎は、ポピュリズムには二つの定義があると述べています。一つ目は「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」で、二つ目は「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」です(★1)。これを便宜的に【定義1】【定義2】と呼ぶことにします。「小泉旋風」は、定義1に見事に当てはまっています。しかし、定義2の要素は乏しいように思われます。逆に「れいわ旋風」の場合は、定義2を教科書的に実行しているように映ります。恐らく2000年代以降の日本の政治において、定義1よりも定義2のポピュリズムが急速に先鋭化してきたことが、れいわ新選組を脅威として認識される主な要因になっていることが想像できます。

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れいわ新選組の主要な政策

ここで改めてれいわ新選組の主要な政策メニュー(★2)を見てみましょう。「政権とったらすぐやります/今、日本に必要な緊急政策」と銘打たれたものです。

・消費税の廃止
・中古物件などを活用し、初期費用のかからない、格安の公的住宅を拡充
・奨学金徳政令(555万人の借金を救済)
・最低賃金を全国一律1500円に引上げ(不足分は政府が補償)
・公務員を増やす(保育、介護、障害者介助、事故原発作業員など公務員化)
・一次産業戸別所得補償(食料の安全保障)
・災害に備えて防災庁を創設
・水道、鉄道など公共性が高いものは国が投資を積極化
・デフレ脱却給付金(一人当たり月3万円。インフレ率2%到達時に終了)
・新規国債の発行で財政出動(インフレ率二%到達時に終了。その後、場合によっては法人税に累進性を導入する)
・日米地位協定の改定
・TPP(環太平洋連携)協定、PFI法(民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律)、水道法、カジノ法などの一括見直し・廃止
・原発即時禁止
・障がい者への「合理的配慮」を徹底

ざっと目を通しても、既存の政治体制を転覆するような、過激な文言はどこにも見当たりません。

不思議なくらい「従来の枠組みの範囲」で知恵を尽くしており、所与の条件に中で何ができるのかに注力している様子がうかがえます。古典的な意味での「革命」にはまったく当てはまりません。それどころか、格差や貧困の解消を基軸にした「社会民主主義的」な取組みといえますし、最終的な目標が社会主義国家の建設であるようにも到底思えません。ここは非常に重要なポイントです。

山本太郎は、むしろ現行憲法の精神が蔑ろにされている現状に憤っているのです。とりわけ憲法第一三条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)の履行にこだわっています。

死にたくなる社会から、生きてたくなる社会を皆んなで実現するために、この熱い熱が放出されてんですよね。実現しますよね。実現しましょうね。もう食いものにされるのは終わりだ。そのスタートがこれだ。見とけよ、永田町。この国に生きる人々をなめるなよ。食いものにするんじゃない。ひとりひとりを大切にする。ひとりひとり、その個人を尊重するということは、憲法にも書かれていること。憲法13条。個人として尊重される。個人として尊重されるはずが、国は、介護、保育、そこのお金はなかなか出さない。逆にいったら、一番、ケチってる。だから待機児童もいれば、そればかりでなく、待機老人までいる。じゃあ結局、呆けた親、どうすればいい。家で看るしかない。(★3)

つまり、山本は、新自由主義的な経済政策を断行する政治によって、もともと存在している「日本国憲法に基づく民主的な諸制度」が著しく阻害されていると考えているのです。

これは定義2の「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」としてのポピュリズムにおける悪い面を周到に排除したアプローチです。悪い面とは、既存政治やエリートを打倒すべきシンボルに仕立て上げ、現行の民主的な社会や民主主義、自由と平等の原理に敬意を払わず、政権を奪取すればそれらに制限を加えることです。

政治学者のシャンタル・ムフは、すでに欧州でも現れ始めていた山本のようなポピュリズムのあり方について、排外主義や人種主義、反グローバリズムなどに走りがちなものと区別し、民意からずれてしまった政治体制を軌道修正する「民主主義の回復」を目指すものであるとして歓迎しています。

ムフのいうポピュリズムは、共産主義革命のような既存秩序の転覆を志向するものではありません。「立憲主義的な自由‐‐民主主義的枠組みの内部で、新しいヘゲモニー秩序を打ち立てることを求める」(★4)と述べているように、あくまで立憲主義に基づく自由と民主主義を尊重するルールの下で、多様性やマイノリティを包括する新しい政治勢力を作り出そうとするものです。一部のエリートたちが唱道する新自由主義的な経済政策がとことんまで推し進められた結果、民意=主権者の生の声が政治に反映されているとは言い難い現状に対し、もう一度「人民による支配」という民主制の根本に「原点回帰」しようと試みる運動といえるでしょう。そこでは、行き過ぎた不平等の是正や差別の解消などの公平性の実現など、様々な境遇にいる主権者である国民がそれぞれに民主的な要求を掲げて、既存の秩序と社会正義のバランスの最適化への道程を探っていくことが示唆されています。これは「民衆こそが正義でエリートは敵」とする、単なる「反エリート主義」とは似て非なるものです。

つまり、現状を見る限り、どこの民主主義国家も 経済原理を優先して失業や貧困への手当が十分でなかったり、同じ国民なのに教育機会に大きな差があったり、実質的に職業選択の自由がない人々が何百万人もいたりと、ムフの言葉を借りれば、多かれ少なかれ「自由と平等の原理」の実効性が失われた状態にあるわけです。「近代の民主的社会の問題とは、『すべての人々の自由と平等』という構成的な諸原理が、実行に移されていないということだった」(★5)という認識を出発点にしているのです。言うまでもなく、これは山本=れいわ新選組が取っているスタンスそのものなのです。

感情を動員する対話

国民のうちの少なくない人々が、今の国会議員たちの働きを見て、その多くが「国民の真の代弁者」たり得えているだろうかと疑問を持っています。

「自由と平等の原理」の実効性が不完全であればあるほど、そのような政治不信はどんどん拡大してしまいます。そうであるがゆえに「国民の真の代弁者」の待望と、「すべての人々の自由と平等」の「実効的な履行」への期待はより強いものとなります。そのような意味において、れいわ新選組から立候補して参議院議員に当選した難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の舩後靖彦(ふなごやすひこ)が、「障害者、重い病気の人たちが国会議員になれないとなれば、代議制による民主主義は成立しません」と話していることはとても象徴的です(★6)。このような見立てができるというところに、れいわ新選組が「ただのポピュリズムに過ぎない」といった批判を、やすやすと乗り越えられる可能性が秘められているといえるのではないでしょうか 。

前出の水島は、定義2のポピュリズムの特徴として、①自らが「人民」を直接代表すると主張して正統化し、広く支持の獲得を試みる、②「人民」重視の裏返しとしてのエリート批判、③「カリスマ的リーダー」の存在、④イデオロギーにおける「薄さ」の4つを挙げています(★7)

これまでの山本の立ち振る舞いと、れいわ新選組の主要な政策メニューを見れば、これらの特徴をすべて満たしていることがよく分かります。なかでも山本が最も重視しているのが、①におけるエモーショナル(感情的・情緒的)な結びつきの創出です。「喜怒哀楽」の共有を全面に打ち出した街頭演説により、社会的に孤立し生活に不安を抱えた人々の内面に入り込むとともに、山本のキャラクターを介した新しい「連帯」を形づくる種をまいているのです。これは手の込んだ「感情の動員」といえます。

一方で、この過度に聴衆の感情に訴えかける側面は、ヒトラーの大衆扇動になぞらえられたりして、一部識者などから批判の的になっています。しかし、「小泉旋風」から「枝野フィーバー」に至るまで、程度の違いはあれ「感情の動員」は繰り返し行われていたわけです。なぜ山本やれいわ新選組だけ特別視されるのでしょうか。それはその街頭演説の具体的な中身を読み解くことで明瞭になります。

「生産性」で人の価値をはかるなんて、あまりにもえぐい世の中ですね。だから、皆んなが生きることを諦めたくなる。それを変えたい。それを変えるために政治があるんじゃないの? それを変えるために選挙があるんじゃないのかってことなんですよ。ひとりひとりが持ってる力を、あまりにも過小評価してませんか? 私なんて。私なんて何ですか? あなたがいなきゃ始まりませんよ。あなたがいなきゃ、世の中なんて変えられないんだってことですよ。力貸してください。(★8)

街頭演説では「あなた」という呼称が頻繁に出てきます。「皆さん」ではなく「あなた」。これは有権者の人々に「個」としての当事者性を意識してもらうとともに、一人ひとりの聴衆に「一対一」で向き合う姿勢を示すことを意図したものだと思われます。「あなたの生活の苦しさを、あなたのせいにされてませんか?」と問いかけ、それらがすべて政治の決定によってもたらされた災難だと言い、そして「あなたは、いてるだけで、価値がある」と励ます。

このような距離感の取り方は、山本自身によって考え抜かれた末に、生み出された最良のスタイルなのでしょう。自らの主張をできるだけ平易に説いて回ることと、それらに耳を傾ける聴衆の感情に強く訴えることがセットになっているのです。いわば「政策」と「情動」が一体的に伝播していくことが、この新しい運動の核となる思想であるかのように。

「自分は生きてていいのかって? 生きててくれよ! 死にたくなるような世の中止めたいんですよ」(★9)

これは2019年5月2日に兵庫県の神戸三宮マルイ前で開催された街頭演説での一幕です。長時間にわたる演説の後半のくだり、主権者である国民が自信を奪われている現状に触れ、先の台詞を叫んだ山本は感極まって涙を浮かべたのです。このような「感情の発露」は、山本にとっては〝平常運転〟といえるものです。笑いあり、涙あり、怒りありといった「メッセージの感情化」「街頭演説の劇場化」は、耳目をひき付けるためには不可欠な手法であり、国民の政治離れが叫ばれる状況下における、短期的に関心を惹き付けるための苦肉の策といえます。それがエモーショナルな結び付きの創出=「感情の動員」による「自由と平等の原理」の再確認であったのです。後述するように、この「感情の動員」が上辺だけのものにとどまらず、呼びかける側もそれに応じる者も本気で立ち上がっているように映るからこそ、「何か大変な出来事が起こりつつある」かのように受け止められているのです。

街頭演説の一般的なイメージといえば、「欠伸が出るような退屈さ」です。その理由は、口当たりの良いスローガンの連呼に典型的な予定調和にあります。「何か重大な事件の目撃者になっている」ような迫真性からはほど遠いものですが、他方、山本は「政治不信」の奥底にあるドロドロした感情を呼び起こし、そのドロドロした感情をともに共有することを通じて、自身の演説が一つの事件であるかのように人々の心に印象を残すよう腐心しています。実際このスタイルに「外野にいる人」も魅力を感じ、少なからず心を動かされているからこそ、これがネット上で話題になるまでさほど時間はかからなかったのです。 

つまり、「山本やれいわ新選組を危険視して騒ぐ外野」も、山本の思惑通りに動かされているコマの一つに過ぎないのです 。

この「政策」と「情動」が合わさった「感動ポピュリズム」とでも評すべき政治運動の核心にまずあるのは聴衆との直接対話です。

街頭演説では、あらかじめ質問者を選んでおくなどということはせず、ぶっつけ本番でその場にいる人々の生の声に応じるのが通例です。いきなり投げ付けられる批判や抗議、要領を得ない話などに付き合うリスクもありますが、そこで試されているのは山本の「度量」「キャパシティ」「人間性」なのです。普通の政治家であれば、このような場面は全力で排除するでしょう。「恥をかかされたくない」からです。しかし、山本はあえて「恥をさらけ出す」ことを選びました。理由は簡単です。皆「本音を聞きたい」「真の姿を見たい」と望んでいるからです。直接対話によって、聴衆の多くは、ノーカットで山本の人となりを知ることができます。もちろん、それが山本という人間のすべてではありませんが、情動のリアリティというものは主張の信憑性を確証するのです。山本の〝本気〟を目撃した聴衆は、その〝本気〟が政治を変える原動力となり得ることを信じ始めるのです。これは俳優として積み重ねてきたキャリアの中で体得されたメソッドが、政治活動に出会うことによって化学反応を起こして〝発明〟されたものなのでしょう。このスタイルは参院選後の2019年9月からスタートした全国キャラバン以降さらに磨きがかかっています。

例えば、奈良県で開催した街頭演説では、「消費税10%の何が高い」「世界(の国々)は消費税払とるやろ」「えらそうに抜かしやがって」などと突っかかってくる高齢の男性に対し、山本は「お父さんの話を聞きたいんですよ」と誠実に向き合い、消費税の問題点について一通りレクチャーしました。「あんたの詭弁や」「ごまかしたらあかん」「国民を愚弄したらあかんで」と返す男性に、「お父さん、先の選挙ではどこに入れはったんですか」としつこく聞き、「新選組」という意外な返答によってどっと周囲が沸いたりしました。また静岡県での街頭演説では、山本は酔っぱらいの男性が話し掛けてきたためにマイクを渡しました。彼は「安倍政権は変わるんか、変えてくれるんけ。今この瞬間に」などとまくし立てると、山本はすかさず「すいません、わたし魔法使いじゃないんですよ」と応じました。それから「私が変えたい。先頭に立ちたい。そのためにここに来ている。そのわたしに権利を付与できるのはあなたなんですよ」と話しかけたものの、男性は「いや、それクズだね」などといった冷笑的な態度に終始しました。15分ほどの会話にならない会話の末、男性が退場すると、山本は「ま、すいません。ちょっとチャレンジしてみました」と頬を緩ませました。「お酒が過ぎてる人とはやり取りは無理だということが分かりました」…。

全国各地で街頭演説を行なう度に、このようなリスクを何食わぬ顔で引き受ける山本は、パフォーマーとして非常に優秀であるだけではなく、ネット上でどのように扱われていくかについてもよく理解していました。ネットにおいては、直接対話において絶えずフェアであろうとする山本の姿勢が、最も効果的に伝わるだけでなく、とても高く評価されているのです。

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SNS活用と政治のエンタメ化

次に、「感動ポピュリズム」の仕組みと切っても切り離せないのがソーシャルメディアにおけるコミュニケーションです。れいわ新選組は当初からソーシャルメディアの使い方に秀でていました。

山本がれいわ新選組や自らのTwitterアカウントなどで、街頭演説の様子を随時「ツイキャス」(モイ株式会社が運営するTwitCastingのこと。iPhoneやAndroid端末、パソコンなどからライブ配信が行えるサービス)などで流し、その場に足を運んだ人々とともにリアルタイムで閲覧できるようにしていました。街頭演説と直接対話という「草の根」活動は、ソーシャルメディアなどを通じて膨大な数の人々にも同時に共有されることで、ネットでの「草の根」活動としても恐るべき訴求力を発揮することになったのです。新聞記者の牧内昇平が取材したれいわ新選組の支持者の多くが、ネット上で見た山本の街頭演説に心を打たれたことがきっかけになったと証言していることがそれを裏付けています(★10)。

ソーシャルメディアへの異例の波及効果は、「感情の動員」がネット上においても可能なことを示していました。Twitterアカウントのプロフィールなどにれいわ新選組の支持者、ボランティアなどを自称する者が爆発的に増え、実際にポスター貼りや発送作業などを通じて交流が生まれるだけでなく、かつてのオフ会のような感覚でつながりを深めるようになっていきました。日本において、ソーシャルメディアの個人アカウントの自己紹介やユーザーネーム、ツイートなどで特定の政党の支援者であることを表明することは稀です。しかし、れいわ新選組の場合は当てはまりませんでした。有名人などを中心に山本を応援することを公言する者が次々と現れるようになったのです。

また、政治のエンターテインメント化を大きな柱にしました。「政治を面白く」というキャッチフレーズを掲げているだけでなく、街頭演説やインタビューなどで有権者の関心を引くための仕掛け作りを意識していることを「ネタばらし」しています。あえて行う政治のエンタメ化です。山本は、「炎上要素」を盛り込んだ宣伝戦略が、費用対効果から言っても、最も効率的に党勢を伸ばす方法であることを心得ていました。

沖縄県出身で創価学会員の野原善正を擁立し、誰もが矛盾を感じている「公明党」とその支持母体である「創価学会」のズレを、参院選という大舞台で公明党代表・山口那津男との「ガチンコ勝負」として具現化するーーこれはほとんどプロレス的発想です。野原との街頭演説では、山本が得意になってプロレスのリングアナウンサー役に徹して振る舞っているほどです。

政治改革するための手っ取り早い方法は、公明党を潰すことです。言葉は悪いんですけど、本当潰さないといけない。これ私が勝手に言っていることじゃないんです。池田(大作)先生がそう言われてるんですよ。公明党の前身である公明政治連盟を池田先生が立ち上げたときに、こう言われました。将来公明党が政権になびいて立党の精神である平和福祉を忘れた場合には、そして国民をいじめるようになったときには、そのときは遠慮なく潰していいよって言われたんです。(★11)

野原のこの演説は、創価学会員によるラディカルな学会批判をやってのけました。

いわば「公明党版ポピュリズム」です。「現在の公明党のトップは、公明党の立党の精神を忘れている。立党の精神に基づく政治を取り戻すには、一人ひとりの学会員が立ち上がらなければならない」ということなのです。野原は、日蓮仏法は師弟の仏法であり、師匠の思いをどれだけ弟子として自分の思いとして行動できるか、この一点にかかっていることを強調したうえで、「池田先生の指導に従えば、今の公明党は潰すしかありません」と締めくくりました。この発言は瞬く間にソーシャルメディア上に拡散され、話題を呼びました。

エンタメ化に関する重要な出来事では、「れいわ祭り」と銘打ったイベントが外せません。「感情の動員」を祝祭的な空間として演出する試みだったからです。ソーシャルメディアなどネットを通じて集まった人々が、野外フェスのような興奮と熱気を作り出し、ネットという離れ小島のような空間においても、現場のテンションを同時に共有できることを証明してみせました。選挙と祭り。水と油のごときこの相反するイメージを融合させることに見事成功したのです。2019年7月12日に東京・品川駅港南口で開催された「れいわ祭」では、和太鼓・津軽三味線・尺八ユニット「斬月〜Zangetsu〜」の演奏から始まり、ミュージシャンのSUGIZO、作家の島田雅彦、脳科学者の茂木健一郎が応援演説を行ないました。参院選の立候補者全員が映画監督の岩井俊二からプレゼントされたという「新撰組」風の薄紫の羽織を着込み、通りすがりの人々を含む聴衆らに思い思いのスタイルでアジテートしました。従来の街頭演説の硬直したある種の〝暗さ〟を打ち破るムードを作り出したのです。しかし、それでも「れいわ祭り」は、ネット上で「選挙を利用した祭りで金集め」「こんなのに国を任せていいのか」「完全に宗教」などと叩かれたわけですが。

社会の個人化が進んだ末の政治手法

これらの怒涛のラインナップは、決して行き当たりばったりや、でたらめに実行されたものではありません。わたしたちを取り巻く社会環境の変化に「政治活動」を適合させるために生み出された「必然的な手法」なのです。これは山本が実際にそのように意図していたかどうかとはまったく関係がありません。社会環境の変化への適応は、自然環境の変化への適応と同じく無意識に行なわれる場合が多いからです。

わたしたちは現在、かつてないほど「徹底的に個人化された人生」を歩んでいます。家族や地域社会といったソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が失われる過程において、特定の集団の中であらかじめ決められていた定型的なライフコースからわたしたちは解放されました。例えば、家業の跡継ぎや二代目・三代目といったプレッシャーです。その一方で、定型的なライフコースに後戻りすることも著しく困難になりました。昭和的なコミュニティであれば、人付き合いなど世渡りに難がある人でも、就職のあっせんから結婚相手の紹介までを周囲に期待することができましたが、このようなネットワークが急速に姿を消していきました。

これは様々な慣習にわずらわされない「かけがえのない個人」の誕生を促すとともに、ライフプランの全責任を引き受けなければならない「不安な個人」の出現をも招きました。つまり、多様な商品やサービスに恵まれた消費者的な側面が大半を占める「かけがえのない個人」の実態とは、情緒的なつながりや社会的な承認を「自発的」に形成しなければならない存在であり、持ち前の能力や、親のコネクション・資産状況などスタートラインに大きな違いがあるにもかかわらず、進学や就職、結婚など人生の重要な局面で「自己責任」を強いられてしまう存在でもあります。その結果、時代状況に上手く適合することができずに、一度の失敗で社会から脱落してしまう「個人化弱者」であふれ返ることになりました。「個人化弱者」は、労働市場と新自由主義的な政策の影響をもろに受けてしまいます。

さらに、わたしたちは2010年代以降、スマートフォンが生活に密着した端末と化し、「過剰接続の時代」へとモードが移行しました。「過剰接続の時代」とは、一言で言えば、万物がフラットなコンテンツとして消費され、政治さえも「コンテンツ」の一つに過ぎなくなるということです。わたしたちが朝目を覚まして、仕事や遊びなどに取り掛かり、再び眠りに就くまでに、ニュースアプリで世の中の出来事をチェックし、オンラインゲームに興じ、Instagramのストーリーズをタップし、YouTubeで人気急上昇中の動画を調べ、Amazonプライム・ビデオやネットフリックスで映画やドラマを視聴し、電子書籍・コミックを読み、ショッピングサイトなどを回遊しています。コミュニケーションの面では、LINEなどの通信アプリなどに加えて、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアの閲覧や投稿が日常化しており、それぞれのメッセージ機能などでのやり取りが頻繁に交わされています。とある調査によれば、日本人の一日当たりのスマートフォンの平均利用時間は3時間5分です(★12)。総務省の「社会生活基本調査」(平成28年)で、「通学や通勤をのぞいた移動」「テレビ・ラジオ・新聞・雑誌」「休養・くつろぎ」「趣味・娯楽」「スポーツ」「交際・付き合い」などの時間である「3次活動」は、一日当たり平均6時間22分でした。これがおおよその可処分時間に相当します。そのうちの半分がスマホの画面に奪われていることになるのです。もちろん、利用時間には通勤や食事中のものも含まれるため、一概に単純化することはできませんが、かなり高い割合を占めていることが分かるでしょう。

無意識にスマホの画面を眺め、無意識にいずれかのアプリを立ち上げ、スクロールさせてしまっていることはないでしょうか。アプリのアイコンに表示された通知をチェックするだけのつもりが、そのまま他の投稿やメッセージなどを何十分も見てしまってはいないでしょうか。わたしたちは知らず知らずの内に、デバイスと距離を取ることが難しくなっているのです。物理的にではなく「心理的に」です。2010年以前にはまだあり得たオンラインとオフラインの分離が不可能になりつつあるのです。これが「過剰接続の時代」です。「ありとあらゆる情報が洪水にように押し寄せ、それらすべてが一元化されたコンテンツとして立ち現れる社会」といえます。

そこでは内容の〝真贋〟や〝善悪〟に関係なく、コンテンツとして価値がある否かが問われます。ここにおける「価値」とは「目新しさ」「面白さ」です。ネットの動画や画像、テキスト、それらをまとめあげる表現、パフォーマンス等々が、個々の重要性などは脇に置かれ、「見る価値があるのか」「参加する価値があるのか」という好奇心によって瞬時に判断されていくのです。「可処分時間の奪い合い」とはよく言ったもので、これが政治の舞台においても同様の条件を課せられているのです。つまり、新興政党が国政選挙で新たに票を掘り起こすためには、膨大な消費コンテンツとの競争に勝たなければならないのです。スマホの画面の中では、ソーシャルメディアのタイムライン上では、政治家の街頭演説よりも、大型犬と子猫が仲良くじゃれ合っている動画の方が、故障したエスカレーターに人が吸い込まれる動画の方が、多くの人を惹き付けます。政治に無関心な層に関心をもたせようとすれば、「エンタメ要素」は必須とならざるを得ないのです。「馬鹿馬鹿しい」と思う向きもあるかもしれませんが、事実として「面白く」なければスルーされるのです。これが「感動ポピュリズム」の出現を促すおおまかな時代背景です。

山本はこのことを皮膚感覚で熟知していたのでしょう。

後編につづく


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著者プロフィール

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真鍋厚/まなべあつし●1979年、奈良県天理市生まれ。大阪芸術大学大学院芸術制作研究科修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。専門分野はテロリズム・戦争、宗教問題とコミュニティの関係など。著書に『テロリスト・ワールド』『不寛容という不安』がある。

参考一覧

★1 水島治郎『ポピュリズムとは何か』中公新書
★2 政策 | れいわ新選組https://reiwa-shinsengumi.com/policy/
★3 【動画&文字起こし全文】「新宿センキョ」19.7.20 東京・新宿【山本太郎:前編】https://reiwa-shinsengumi.com/activity/2817/
★4 シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』山本圭・塩田潤訳、明石書店
★5 同上
★6 「介助は社会全体で負担を」 ALSのれいわ・舩後氏にインタビュー
二〇一九年一二月一六日、西日本新聞、https://www.nishinippon.co.jp/item/n/568498/
★7 『ポピュリズムとは何か』(前出)
★8 【動画&文字起こし全文】「れいわ祭」19.7.12 東京・品川駅港南口【山本太郎】https://reiwa-shinsengumi.com/activity/1399/
★9 兵庫・神戸三宮マルイ前 れいわ新選組代表 山本太郎 街頭演説 19.5.2、山本太郎 住まいは権利! (@yamamototaro0)、ツイキャスhttp://twitcasting.tv/yamamototaro0/movie/541931612
★10 牧内昇平『「れいわ現象」の正体』ポプラ新書
★11 れいわ新選組 「れいわ祭」 品川駅港南口、れいわ新選組
https://www.youtube.com/watch?v=HT6IYQs8uDM&t=7504shttps://www.youtube.com/watch?v=HT6IYQs8uDM&t=7504s
★12 若年層の月間の動画視聴時間は1年間で約2時間増加~ニールセン スマートフォンの利用状況を発表~、ニールセン デジタル株式会社https://www.netratings.co.jp/news_release/2019/03/Newsrelease20190326.html

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