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新人編集者時代の柿内芳文が悩みに悩んで「神吉晴夫」にたどりつくまで

柿内芳文さんは、言わずと知れた『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』『嫌われる勇気』『漫画 君たちはどう生きるか』…など、数々の大ベストセラーを世に送り出した編集者。今回のインタビューは、光文社新書のOBである柿内さんに、現編集長の三宅が「神吉晴夫」についてお話を聞きにいくものとして企画されました。インタビュー中にも出てきますが、2人は10年近く机を並べて新書編集部で働いていただけでなく、三宅は入社当時の柿内さんの指導社員でもありました。インタビューは、そんな気のおけない2人の間柄をそのまま収録しています。

取材当日、いつものようにブラックの缶コーヒーを両手いっぱいに持って取材の場となったnote社の会議室に現れた柿内さん。「ぼくほどコーヒーを飲む人間を見たことがない」と笑う柿内さんは、別段銘柄へのこだわりはなく、Amazonでいちばん安い一缶56円のものを箱買いして、美味しく飲んでいるのだとか。

撮影/市原慶子 聞き手/三宅貴久(光文社新書編集長) 構成/田頭 晃(光文社新書) 取材協力/note株式会社

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やりたいこともなく、たまたま光文社に入社した

――すみません、今日は忙しいところをありがとうございます。

柿内 よろしくお願いします!

――なぜこういう企画が生まれたかを最初にお話しすると、光文社新書が「note」を始めるにあたっての記事で、ほんの一言だけカッパ・ブックス創刊編集長である神吉晴夫の「無名の人と一緒に成長していきたい」といった言葉を引用したら、そこの部分に多くの反響があったんです。神吉晴夫という人が、何かいまの時代に刺さる部分がちゃんとあるんだろうなということで、光文社新書のnote1周年を記念して、編集者・神吉晴夫の思想を実践している柿内さんにいろいろ訊いてみたら面白い記事ができるんじゃないのかなと。

柿内 ちょっと待ってください。三宅さんに「柿内さん」と言われると、なんかね……こそばゆいというか……

――気持ち悪い?(笑)

柿内 そう、気持ち悪い!(笑)。今日はもう、いつものように呼び捨てでお願いします。

――わかりました。じゃあ気さくにやりましょう。続けて柿内が入社するまでの光文社新書の歴史をちょっと説明すると、光文社新書ってもともと反カッパ的な教養新書を目指したところがあったんです。一世を風靡したカッパ・ブックスがどうもうまくいかなくなって、後継の新書版レーベルを創刊するといったときに、カッパとは違うことをやろうというのがコンセプトだったんですね。
ちなみにぼくは、最初は営業で4年間カッパ・ビジネス、カッパ・サイエンスなどを担当して、その後同じく4年間カッパ・ブックス第一編集部にいました。だからずっとカッパのノンフィクションに携わってきたのだけれど、残念ながら、その間に出る新刊が、往時のカッパに比べると部数的に伸びなくて。だから、カッパのようないわゆるブックス型新書は、読者に受け入れられにくい、カッパの時代は終わったんだというのが、当時光文社新書を始めた人間の共通認識としてあったんです。柿内が新卒で入社したのは、光文社新書創刊の翌年、2002年4月ですね。

柿内 そうですね。だけど入社当時、ぼくはまるでそういう背景も神吉晴夫のことも知らなかったです。

――そりゃそうだよね。直前まで大学生だったわけだし、カッパで育った世代でもないし。だけどどこかのタイミングで、いきなり柿内が「神吉さんはスゴい!」と言い出して。

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神吉晴夫(かんき・はるお)

柿内 覚えてないですけど、いきなり言い出しましたっけ?(笑)

――うん。それにすごく違和感があって。光文社新書ってカッパ的な方法論をあえて排除して始まったはずなのに、入社して活躍し出した柿内は、ずっと「神吉さん、神吉さん」と言い続けていた。そこがすごくずっと引っかかっていたんです。

柿内 たぶん三宅さんとは距離が近すぎて、逆にその理由についてちゃんと話していなかったんでしょうね。

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――そうかもね。いまnoteを始めたことがきっかけで、神吉さんへの興味というのが自分の中でもう一度生まれていて。ちょっと調べてみたら、神吉さんが言っていたことと、その後カッパがやっていたことって、じつは少しずつズレていたのかなあと思ったりもしました。だからうまくいかなくなった部分もあるのかなと。柿内は、神吉晴夫という人をいつ知って、どういう形で深掘りをしていったの?

柿内 まず、もう一度くり返すと、ぼくは神吉さんのことなんて、入社するまでまったく知らなかったんですよね。ただ、いま思えばぼくはカッパのおかげで光文社に入ったんです。

――えっ、それはどういうこと?

柿内 カッパ担当の役員に、ぼくは拾い上げられたんです。光文社の最終面接って、社長と役員の回と、副社長と役員の回の、2回やるじゃないですか。
で、当時の並河社長の面接で、最後の最後に社長が「そういえば、君は……」みたいに質問しかけたのに「あ、やっぱりいいや」って、やめてしまったんです。ぼく、これにものすごく動揺しちゃって。社長が途中で質問をやめた、もうだめだ、落ちた!と思って(笑)。
ところが、もうひとつの副社長の面接のほうにカッパ担当の役員がいて、たまたま訊かれた質問の流れで松本清張の話をしたんです。べつに松本清張を世に出した光文社だから狙ったわけじゃなく、ほんとうに中学時代に清張をけっこう読んでいて。
じつは父の書斎の本棚に、やっぱりカッパ・ブックスやカッパ・ノベルスはけっこうあったんですけど、カッパ・ブックスのほうはもう古くさいイメージというか、まったく食指も動かなくて、手に取った記憶もないんですよ。『頭の体操』とか石原慎太郎の『スパルタ教育』とか、たぶんあったはずなんですけど。
ところがカッパ・ノベルスは違った。もともとアガサ・クリスティーとかのミステリーが好きだったから、カッパで出ていた松本清張の『砂の器』とか『点と線』といった代表作を手にとってみたら、これが古い作品だけどめちゃめちゃ面白い。父親の書斎で貪るように読みました。社会派だとか言われていますが、そんな難しいこと抜きに、単純にミステリーとして最高級の完成度ですよね。
だけどそんな話を光文社でするとわざとらしいというか、あざといなと思って、一次面接でも二次面接でも話題に出さなかったんです。だってぼくはどう考えてもカッパ世代じゃないから。

――べつに話してもいいと思うんだけれど、あえて話さなかったんだ。

柿内 でもたまたま話の流れで言ってみたら、どうやらそれがよかったみたいで。若いのに松本清張を読んでいて、こいつはいい!みたいな感じにその役員が早合点してくれたんです(笑)。で、たぶん社長含め他の役員の評価はイマイチだったのに、なんとか最終面接に受かったんですよ。入社したあと、その役員には「おまえはオレが入れたんだ」って言われましたもん。。

――へえ、そんなことがあったんだ。その役員って、松本清張の担当もしていた、松下さんのことだよね。ちなみに柿内の志望はどこだったの?

柿内 マンガです。マンガ志望で出版を受けてました。

――でも、マンガは光文社には……。

柿内 ないからどうしようかなと思って、いちおう少しだけいいかなと思っていたのは雑誌の『BRIO』(※現在は休刊)でした。

――へぇー、意外。松本清張の話はしたけど、カッパをやりたいとか、そういう話をしたわけではなかったんだ。

柿内 1ミリもそんなことは考えていなかったですよ。ノンフィクションをやるという発想がそもそもゼロだったので。

――小説というわけでもなかったんだね。

柿内 べつに文学に興味はなかったし、文芸編集ができそうな気もしなかったので。いや、だからこれがぼくのルーツなんですけど、べつにぼく、出版社にも編集者にも興味なかったんですよ(笑)。マンガで志望しましたが、といってマニアではなく、嫌いじゃないくらいな感じで、マンガだったらできるかなー、くらいのミーハーな感じでした。

――ちなみに、他はどういう業界を狙っていたの?

柿内 純粋に好きで興味があったのは映画だけですね。でも映画会社って3社ぐらいしか採用してないんです。氷河期でしたし。そこも選考で早々に落ちて、他に行きたい業界ややりたい仕事も特にないので、どうしようかと困ってしまって。父と兄が編集の仕事をしていたこともあって、仕事としてギリギリ興味持てるところが出版かなあという感じだったんです。

――身近だったんだね。

柿内 そう。でもそんな感じだったから、ぜんぜん受からないんですよね。春から数十社落ちて、最後の最後の秋採用のチャンスで光文社に引っかかったのは、本当にカッパと、勘違いしてくれた松下さんのおかげです。しかも新書編集部に配属されたのは、創刊直後で人がちょっと足りなかったところもあっただろうし。すべて偶然でした。

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苦しすぎて、メルマガに返事を書いていた新人時代

柿内 そんなちゃらんぽらんな入社経緯だったから、配属されて困ったんです。本当に最初の数年はしんどかった。入社してから、十何年ぶりにノンフィクションの新卒配属だよと言われたけれど、雑誌で経験を積んでから書籍に異動するという流れのほうが、編集者のキャリアとしてはやりやすかったと思うんです。

――そうかもしれないけど、普通にやっていたよね?

柿内 いや、メインは三宅さんのお手伝いでしたよ。『温泉教授の日本全国温泉ガイド』とか。この本に掲載するデータ確認のため、400件近い温泉宿に電話をかけることがぼくの最初の仕事でした。

――ああ、そうだ、そうだ。

柿内 配属1日目にリストを渡されて、三宅さんに「確認して」って言われて。ぼくはやり出すと細かいから、源泉の温度とか泉質とか最寄りからのアクセスとかのデータを、徹底してやったんです。

――渡した気がする。

柿内 そうです。で、冬期は何月何日から何月何日まで営業とか。まだ4月で閉じている山荘の秘湯なんかもあったんですよ。すべてなんとか連絡とりましたけど。

――ああ、そうか。その節はありがとうございました(笑)。

柿内 いや、やっぱりやる以上はデータに間違いがあっちゃダメだなと思って。知るべき情報はすべて知りたいからすべて掲載すべきだし。

――ぼくの印象ではなんでもこなしているところがあったけど。でもたしかに、新書志望かどうかとか、仕事のそもそもの話をした記憶はないかもしれないね。

柿内 光文社新書は立ち上がったばかり、とはいえレーベルとして毎月刊行があるじゃないですか。だから三宅さんもそうだし、他の先輩たちも本当に忙しそうでしたよ。古谷さん(注:光文社新書創刊編集長)もずっと本を作っていましたし。

――そうだね。とにかく4人で毎月4、5点を出さなきゃいけないという感じで。

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柿内 ぼくも気ぃ遣いだから、そんな忙しい三宅さんに自分の苦しさを相談することができなかったんです。だから配属当初は、いま振り返ってみてもクソみたいな企画を出していましたね。

――なんか左官の人にこだわっていたね。

柿内 ああ、そうですね。やたら左官とか土壁にこだわってましたね。あれはクソ企画じゃないですけど(笑)。でも結局、いろいろ動いても本にはならなくて……。その後、その人はスゴくメジャーになりましたけど。

――著者に会ったりはしていたんだよね?

柿内 していましたけど、自分で企画を立てて、著者を口説いて、そこから本になるまで早くても1年がかりじゃないですか。

――そうだね。

柿内 一方で雑誌にいった4人の同期は、配属1カ月後ぐらいには、もう担当のページがあるんですよね。やっぱり最初のうちって、同期で見せ合いますよね。

――見せ合うね。

柿内 同期で飲みに行くと、この企画を担当して大変だったとか、有名な何々さんに仕事を依頼したとかいう話になって。みんな週刊誌や月刊誌で、4ページなり10ページなり、ガンガンやっているわけですよ。それに対してぼくは、1ページも生み出していないという状態がずっと続いていて。

――手伝ってはいたけれど、自分の企画という意味で、ゼロから立ち上げたものがないということかな。

柿内 そうです、そうです。もちろん新人としてのお手伝いはやっていました。古谷さんのあとを引き継いだ『ブランド広告』なんてこの頃ですよ。原稿の余白にびっしり感想や指摘を書き込んだり、わかりやすくなるようにハサミで原稿を切り貼りして順番を大胆に入れ替えたり。結果的にカッパ的な手法を身につけられたところはありました。
でもやっぱり企画を通さないかぎり、何もやることがない状態なんですよね。要するに自分で作らないと仕事がないのが、基本的にチームではなく個人で動く書籍編集の仕事じゃないですか。
でもぼくにはノウハウも経験も考えもない。もともと出版希望でもなく、就活をやるから仕方なく出版志望だったという人間だから、自分の中に何もなく、それでいて何かやらないと仕事がない状態というのがけっこうしんどかったんです。こう見えて、けっこう責任感が強いから(笑)。

――まあ、そうだよね。その気持ちはわかります。ぼくも販売部から移ってすぐのときはやっぱり企画を出してもぜんぜん通らなかったし。

柿内 企画を立ち上げ、著者に会って、本の形にしないかぎり、会社には1円も入ってこないわけですよね。でも、給料だけは毎月入ってくる。その状態が、責任感が強いがゆえにけっこうこたえて。最近になって古谷さんにこの話をしたら、ノンフィクションの編集というのはそんなすぐに成長するものでもないから、まずは慌てずにじっくり見守っていこうという考えでいたらしいんですけど。

――でも、やっぱり本人は仕事がないとずっと気にするよね。

柿内 そう、当事者であるぼくは、やっぱり俯瞰した立場では考えられませんから。同期が活躍しているのにずっと焦りがあって。だから入社1年目の冬ぐらいは、ストレスでけっこう生活が荒れていたんですよ。

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――荒れていたって、何していたの?

柿内 飲み歩いてはデロンデロンに泥酔していました。酔っ払って靴をはかずにタクシーに乗ったり、朝起きたらアパートの廊下で寝ていたり。

――へえ。全然知らなかった。意外。

柿内 ぼくはあまり酒を飲まないから、そういう失敗はなさそうじゃないですか。そもそも三宅さん、ぼくが仕事のふりをしていた話、知っていますか?

――えっ?

柿内 いや、これ、ずっと言ってなかったですよね。

――どう仕事のふりをしていたの??

柿内 会社ってパソコンを見ていたら、なんか仕事をしているように見えるじゃないですか! だからぼく、仕事はないけど、常にPCのほうを向いていようと思って、無料のメルマガに返事を書いていたんですよ。このつらい時期、知らないですよね。

――知らない(笑)。資料の本を読んだりはしなかったの…?

柿内 読んだりもしていたんですけど、それだけじゃ1日は埋まらないんですよ。この時期をぼくは強烈に覚えていますね。メルマガに返事をしたところで、もちろん何も返ってこない。むしろエラーで戻ってきちゃうんです。ずっとしていたわけじゃないけれど、でもこうしてPCの前にいたら、たぶん仕事しているように見えたと思うんですよ。だから、三宅さんが何か仕事をしていると思っていたうちの何割かは偽装でしたね(笑)。

――いやあ、知らなかったな。そんなに苦しんでいたんだ。

柿内 でも忙しいと隣にいてもなかなか気づかないものですよね。

――まあ、そうね。こちらも毎日が必死で。ぼくも柿内の次に若かったからね。いちばん余裕がなかったから、そういうところまであまり気が回らなかったのかな。

柿内 でもおかげで、神吉さんに出会えたんですよ!!

――あ、そうだった。これ、神吉さんの話だったよね(笑)

第2回に続く


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柿内 芳文(かきうち・よしふみ)
編集者。光文社で『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』等を編集した後、星海社で「星海社新書レーベル」を立ち上げ、『嫌われる勇気』『ゼロ』を作ってコルクに合流、作家エージェントとして『インベスターZ』『漫画 君たちはどう生きるか』等を編集し、独立。
Twitter:@kakkyoshifumi


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