【第26回】北山杉の仕事と女性たち|三砂ちづる
忘れてしまった、身体の力。脈々と日常を支えてきた、心の知恵。まだ残っているなら、取り戻したい。もう取り戻せないのであれば、それがあったことだけでも知っておきたい……。
日本で、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、ラテンアメリカで。公衆衛生、国際保健を専門とする疫学者・作家が見てきたもの、伝えておきたいこと。
著者:三砂ちづる
女性も雇われて作業をしていた
京都北山中川で、昭和9年(1934年)に生まれ、ずっとその地に住んでいるという、今年88歳になるふさえさんの話を聞いた。
この世代の中川に生まれた女性たちは、皆、中学校を卒業するとほとんどが北山杉に関わる仕事に従事していた。それぞれが家業として杉の仕事に携わっていたというより、彼女たちのほとんどは、雇われて杉の仕事をしていたのだという。
北山杉に関わる仕事は男女の分業がはっきりしており、この地区では多くの女性たちは、雇われてこの作業に従事していたようだ。文字通りこの地区の生業(なりわい)であった、ということである。
女性たちは北山杉の仕事でお金を稼ぐことが当たり前になっていた。中学校を卒業した女性たちは皆、働くのだから、家庭もいわゆる共稼ぎ状態が普通であり、子育てや家事は、主に、北山杉関連の仕事を引退した年齢の祖母たちの仕事であったらしい。
この連載の前回、前々回で取り上げたように、京都北山で北山杉の丸太や垂木を頭上にのせて運んでいたという女性たちのことを追っていた。
北山丸太生産協同組合によると、昭和10年頃くらいまで、女性たちが京都の街に丸太を頭にのせて運んでいた、と記されている。写真も残っているのだが、おそらく昭和初期のものだろうか。
写真:京都北山丸太生産協同組合ホームページより
昭和9年生まれのふさえさんは、頭に材木をのせたことはないし、年長の女性たちがそういうことをしているのも見た覚えはないという。中川を通る道路自体は明治時代にできたらしいが、トラックなどによる輸送が始まったのは昭和10年頃からだった、とふさえさんは聞かされている。小さい頃からすでに、出荷などはすべてトラックになっていたことを覚えているという。
人の手による作業に頼っていた頃
記録を辿ると、北山中川から貨物自動車による丸太の搬出が最初に始まったのは、昭和元年であると記されている(*1) 。
近くに大きな川がなく、杉の運搬は人間が持って街に売りに行くしかなく、そうであるからこそ、人間が担いだり頭にのせたりして運べるような大きさの、細めで美しい北山杉が造られるようになった。
北山中川から京都の街に出る道は、「京道」と呼ばれている。峠を越えながら、京都の街中まで2時間半かかる。昭和10年以前には、この道を女性たちが丸太を頭上運搬して運んだのである。
ふさえさんの時代には、丸太は運ばないにせよ、この道を使って炭と柴を京都に売りに行き、帰りに食料を買ってきたりしていたという。家族で歩いて桜を見に行ったりした思い出もある。金閣寺の裏の方、原谷(はらだに)を通るのだが、原谷にいくには鷹峯(たかがみね)の手前の滝のあるところから脇道を通っていく。鷹峯まではきつい道である。
昭和10年以降、京都の街までトラックで運べるようになってからも、北山杉の作業はまだまだ人の力に頼っていた。ふさえさんも中学校を卒業後、ずっと北山杉に関わる仕事をしてきた。
男は枝を取り、枝をはらい、草刈りは女の仕事。女たちも、中学校を出るとみんな働いていて、それぞれの季節で仕事が決まっていた。6月は草刈り、8月末に垂木(たるき)を下ろして、10月は大きい木を下ろす。
トラックで運べるようになったと言っても、山から材木を下ろしたり、出したりするのは、人間でやらないといけないし、当時、山から下ろして運ぶのは女の仕事だった。ふさえさんたちも、頭にのせて運ぶことはしていないが、山から材木を下ろす作業は、毎年夏頃から行なったという。
真冬に、水に入れた砂で丸太を磨く
垂木などは肩に乗せて、肩で3~4本担いで降りてきた。8月末の10日間の厳しい仕事だったという。垂木の長さは3mくらい。後ろの葉っぱがついているところは、引っ張り、引き摺り出して持って降りるのである。
真夏の仕事でじつにきつい。大体、一回おろすのに、往復30分くらい。それを何回も何回も往復した。20歳くらいからここの女はみんなそういう仕事をしたのだという。
肩に肩あてをのせて担ぐ。ふさえさんは右ばかりで担いでいたが、人によっては左に担ぐ人も、両方、かつげる人もいた。
山から下ろした垂木や材木が集まってくるのは11月で、その丸太を砂で磨くのが、女たちの冬の仕事になる。まだ暖かいころに、菩提の滝と呼ばれる滝に、丸太を磨く砂を取りに行く。
この滝の砂は、昔々に、あるえらいお坊様が、この砂が特別だから、これで丸太を磨くといい、と言った、と伝えられていて、丸太を磨く砂はずっとここから採取されていた。この砂で女たちが磨くことで、なめらかな独特の北山杉が出来上がっていたのである。
寒くなる前に、二人で天秤で、一つの荷物にして、取りに行く。その砂を使って2月や3月に、桶に砂を入れ、水を入れて、その砂を手に取って丸太を砂で磨く。寒い中ではあるものの、この丸太磨き作業は大勢の女たちの関わる、じつに活気のある作業であったという。
写真:京都北山丸太生産協同組合ホームページより
半纏、前掛け、たちかけ、襷――生き生きとした女たちの姿
朝の8時から夕方5時まで、ずっと、磨く。半纏(はんてん)にたちかけの格好でね、とふさえさんは言った。半纏にたちかけに前掛け――3年ほど前、ふさえさんは再び、観光用でこの格好をしたといい、この時の衣装一式を今も保管している。
裾よけに肌襦袢(はだじゅばん)をつけ、その上から、まず、紺の絣地(かすりじ)の半纏をつける。つぎに三幅前掛け(みはばまえかけ)をつける。三幅前掛けも紺の絣地で作られていて、3枚の布をつなげてあり、上部に明るい色の紐(ひも)が縫い付けてある。これにはかなり幅広の紐を使ったりしたことも多かったらしい。
最初にセットを見せてもらった時は、これは、前掛けなのだから、半纏にたちかけの上から掛けるのかと思っていたら、そうではなく、たちかけをはく前につける。つまり前掛けをつけた後で、その上からたちかけをはく。
たちかけは袴と同じように、紐がついていて、まず後ろの紐を首の後ろで一度止めておいて、先にたちかけの前をつけ、最後に後ろの紐を前に持ってきて結ぶ。袴と同じようにたちかけの横の部分は外から見えるから、下に三幅前掛けをつけておくことで下着が見えない、ということなのであろう。
それと同時に、たとえば用を足すときには、たちかけの後ろの紐を解いて少しかがめば、裾よけと三幅前掛けがあるだけになるから、程よく目隠しにもなったようだ。
半纏に三幅前掛け、たちかけをつけた後、明るい色の襷(たすき)をかけて、それに手拭いを姉さんかぶりにして、北山に独特の、半纏、前掛け、たちかけ姿が出来上がる。
半纏とたちかけは地味な色なのだが、たちかけの隙間から明るい色がチラッと見えるような工夫をしたり、赤い色の襷を使ったり、前掛けの紐がパッと目を引く色だったり、という差し色が可愛らしい。まことに魅力的な姿であったろうことが想像できる。厳しい中にも生き生きとした張りのある仕事が、季節ごとに行われていたのである。
厳しい仕事は、機械にかわられていった
ふさえさんは杉に関わる仕事は65で辞めている。今は、水圧やたわしを使ったり機械で磨いたりするようになっているから、女性たちが菩提の滝の砂で磨くことが仕事になることはなくなった。
ふさ江さんの頃は、中川の子どもたちはみんな同じ学校に行き、中学を出るとみんな中川で働く。小学校一学年125人で、ずーっと中学校まで一緒だから、気心も知れていた。冒頭に書いたように、賃金労働として北山杉の仕事に従事していたのである。活気もあり生き生きとしていた。
夏に冬に、と決まっていた厳しい仕事は、機械にとってかわられていった。厳しい仕事はなくなったとはいえ、結果として地元での仕事がなくなり、外に仕事を求めなければならず、若い人が中川に残らなくなった。学校も、もう機能していない。
そういえば、ねえ、昭和30〜40年ごろ、セメンを頭にのせて運ぶ女の人を見た。砂防の仕事だったのだと思う。上の道をね、セメンを頭にのせて運んでいた、と、ふさえさんは記憶を辿る。
セメント袋を頭にのせて運ぶ、という話は伊豆諸島でも聞いていた。ちょうど同じような時代のことである。
註釈
(*1)「北山林業の関連歴史・年表」京都府ホームページ。
https://www.pref.kyoto.jp/kyotorinmu/kitayama/12900048.html
(2022年3月15日アクセス)
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著者:三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学多文化・国際協力学科教授。