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【第23回】「大原女」「白川女」「畑の姥」――頭上運搬と京都の女たち|三砂ちづる

光文社新書

忘れてしまった、身体の力。脈々と日常を支えてきた、心の知恵。まだ残っているなら、取り戻したい。もう取り戻せないのであれば、それがあったことだけでも知っておきたい……。
日本で、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、ラテンアメリカで。公衆衛生、国際保健を専門とする疫学者・作家が見てきたもの、伝えておきたいこと。

著者:三砂ちづる  


いまだに解かれていない問い


京都の頭上運搬といえば、頭の上に薪、柴をのせる大原女(おおはらめ)がよく知られている。何度も引用している頭上運搬分布図 (*1)にも、京都の大原、八瀬(やせ)が挙げられているし、瀬川清子の頭上運搬の文献にも、大原女が登場する。

屋島落ちの平氏の内裏女房(※だいりにょうぼう)が、市に出て、物の売り買いをしたのが、能地(※のうじ:現在の広島県三原市の漁村)の頭上運搬による魚売り女のはじめであると言い、京の身分の高い人が、左遷されてこの地に住み、やがて能地の女を連れ帰られたのが大原女だ、とも言っている。頭上運搬の風は、能地を先祖としてひろまったものであるのか、あるいは、京の上藺から伝えられたものであるのか、あるいは京と言わず鄙(※ひな)と言わず、古代の婦人の一般的な運搬法であったのが、特殊な事情から、京の近くと、海辺のあちらこちらに残ったものであるのかが、問題であるわけである (*2)。

瀬戸内海の能地から広がったものか、京都から広がったものか、あるいはどこにでもあった運搬法が京都やその他の地域に残ったのか、と疑問を投げかけている。いまだに解決されていない問いかけなのであるが。


現代の祭りに残る大原女


京都の大原観光保勝会によると、「大原女は、頭に『薪(まき)』や『柴(しば)』を乗せて、京の町へ行商に出かけた大原の働く女性のことです。大原女の服装は時代を遡ると、平安時代、寂光院に穏棲された建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないし)が着ていた衣装がその原型と言われています」(*3)と記されている。

また、現代では春に「大原女時代行列」を開催して、一般の女性を含むさまざまな大原女装束の女性たちが、大原の寂光院から三千院を練り歩くのだというし、「大原女変身体験」として、装束や着付けも提供しているらしい。

現代のこの時代行列の写真を見ると、少しだけの柴や薪を頭上において、片手で支えて歩いている様子がうかがえるが、これは現代のことであるから、頭上運搬、とは言えないし、頭上にのせて手を離して歩く練習をするわけでもないようだし、イメージされている大原女もそんなにたくさんの柴を運んでいるようでもない。

しかし実際には、重さ50キロもある薪を頭にのせ、毎日、山道を通って得意先に売りに行っていた、ということである(*4)。


『京の女人風俗』――昭和30年代と頭上運搬


昭和38年(1963年)に京都新聞社によって編まれた『京の女人風俗』は、昭和37年4月から京都新聞に「絶賛をあびた」連載読み物として、およそ半年をかけて20編160回にわたって集中連載され、加筆ののち出版されたものである。

豊富な写真も多く載せられていて、大原女から芸妓まで京都の女性たちの、主に服装に主眼をおいて、丁寧な記述が試みられている。

京都新聞社編『京の女人風俗』(昭和38年)

世の中は1964年の東京オリンピックを迎えようとしていた頃で、私自身も記憶のある時代なのだが、その頃には、まだ、京都の様々な地区の女性たちは、昔ながらのたたずまいと風俗を残していたり、あるいは残していないまでも、先代の記憶として、はっきり覚えていたりすることが、写真や文章からうかがえるのは、隔世の感がある。

この本の冒頭の三章は「大原女」「白川女」(しらかわめ)「畑の姥」(はたのおば)であるが、それぞれ頭上運搬を行っていた京都の女性たちである。

今でもよく知られているのは「大原女」だけであり、実際に「頭上運搬地図」に表れるのも、上記に記したように八瀬、大原だけなのだが、昭和30年代には、まだ京都の街中でこれほどの人たちが頭上運搬をして物を運んで、売っていた事が記憶されていたのである。

「大原女」も「白川女」も「畑の姥」も、「ひさぎめ」といわれる、物を売る女性たちである。大原女は上記のように、山から薪や柴を売りに街に降りてくる。白川女は花売り女であり、畑の姥は、はしごや脚立を売っていた。

それぞれに服装も決まっており、服装を見るだけで何を売っている人か、売るものを頭にのせていない時でも、わかったようである。


花を売る白川女


京都の白川、とりわけ北白川は、瓜生山(うりゅうやま)を中心に西南へ扇状に広がる豊かな土地で、暖かい風を受ける地域であるため、草花がよく育つ地域であったことが、紀貫之や藤原定家の歌からも知られている。

のち、仏教が普及し、仏に供える花の栽培が盛んになり、花の行商が始まったという。

南西諸島では、ガンシナーと呼ばれる藁(わら)で作った「輪」を、まず頭にのせてから、運ぶものを頭上にのせることは、どこでも同じであるが、白川女はその「輪」の上に、藤で作られた箕(み)をのせ、その上に20~30束の仏花や榊(さかき)をのせ、大正の終わりあたりまではよく行商をしていたという。

この地区の氏神、北白川天神宮の例祭では、特別にしつらえられた神饌(しんせん)、すなわち神へのお供え物を、3人の女性が頭にのせて運ぶようになっていた。北白川天神宮の例祭では今もこれらのお供え物は作られているが、すでに頭にのせて運ばれてはいないようだ。


はしごや脚立を頭に――畑の姥


「畑の姥」とは、今聞くと、とても変わった呼び方に聞こえる。京都市内の右京区高尾にある北山林業地帯の梅ヶ畑で、山仕事と林産物販売に従事していた女性たちのことである。

「はしごや~、くらかけ」と、歌うように声をかけながら、頭に長いはしごや、腰掛けにもできるクラカケ(脚立)をのせて売り歩いていたという。林業のかたわら、余った間伐材で生活に必要な木工品を作り、街中に供給していたといわれる。

畑の姥は、『東海道中膝栗毛』にも記述が見られ、商売上手で、値切ったり値切られたりしながら、弥次(やじ)さんは、まんまとはしごを買わされてしまっているのである。

畑の姥は、商売上手で働き者で、力持ち、活動的で男勝りのしっかりもの、として知られていた。

具体的には、はしごや床几(しょうぎ:肘掛けのない折り畳みの座具)、クラカケ(脚立)などを頭上にのせて売っており、一回の運搬量はだいたい、はしご1、床几3、クラカケ2、あるいは、はしご2、クラカケ6で1セットであったと記されており、どちらにしても、大体40キロぐらいであるようだ (*5)。

少女の頃から、材木や柴を「だち持ち」(駄賃持ち、に、このような振り仮名がふられている)しているので、頭上運搬に慣れている、とのことだ。

畑の姥は、頭の上にのせるときに藁で作った「輪」だけでなく、いただき袋、と呼ばれる独特のわらぶとんを使い、「輪」の下に敷いて、はしごのような長いものの安定をはかっていたようだ。

京都北山に住む、2021年現在60代の男性は、はしごやクラカケを売る女性たちがバスに乗っているのを見たことがある、と語っていたから、大原女や白川女より近年まで、行商を続けていたのかもしれない。

女たちに表れた「美しさ」


この『京の女人風俗』は、いかにも昭和30年代らしく、「男の視点」で女を見ているところもあり、現在の新聞記者ならちょっと書くことを躊躇(ためら)うような色っぽい記述もある。

そういう「男の視点」がある、ということを踏まえた上であるが、大原女、白川女、畑の姥、それぞれの章にそれぞれが「美しい」ことが記されている。

大原女に関しては「大原女の里、八瀬、大原の女は美しい。……八瀬大原の豊かな自然に、うまく調和した姿だ。こんな美しさは、素質によるものより“美しくありたい”と常に願う心がけが現れているのでは」と書かれている。

白川女についても、「白川女の後ろ姿はまことに美しい」と書かれ、畑の姥については、当時70代の京都の街中の女性の言葉として、かなりの年齢がいっていても、皆「べっぴん」で姿勢も良く、体格が良かった、大原女のような優雅さではないが、活動的で、独特の美しさがあった、と紹介されている。

頭上運搬する女たちは、その労働の過酷さはしのばれるものの、皆、美しい、と形容されるのである。


註釈
(*1)民俗學研究所編「頭上運搬の分布」『民俗學辭典』東京堂出版、1951年。
(*2)瀬川清子「頭上運搬について」『高志路』9巻7号、新潟県民俗学会、1943年(瀬川清子『販女』三国書房、1943年に補訂のうえ収録、また、木下忠編『背負う、担ぐ、かべる』岩崎美術社、1989年にも収録)。
(*3)大原観光保勝会ホームページ「大原女(おおはらめ)を知る」https://kyoto-ohara-kankouhosyoukai.net/oharame/(2021年12月10日閲覧)。
(*4)京都新聞社編『京の女人風俗』河出書房新社、1963年。
(*5)同上

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著者:三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学多文化・国際協力学科教授。

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