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『ジョーカー』と『ボヘミアン・ラプソディ』はカードの裏表  by川崎大助

2018年の大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディー』、そして2019年の『ジョーカー』。ストーリーはまったく異なるが、そこにはある共通点がみられるという。そしてそれが世界的なヒットに結びついたとも。『教養としてのロック名盤ベスト100』(光文社新書)などの著書を持つ、作家の川崎大助氏が、その深層に迫る。

『ボヘミアン・ラプソディ』と『ジョーカー』の「ヒットの構造」

2019年の映画界を振り返ってみたとき、最も大きく特筆すべき「事件」は、トッド・フィリップス監督『ジョーカー』の国際的大ヒットだった、と僕が言ったなら、首肯する人は少なくないはずだ。あれほどまでに暴力的で、反社会的行為を(一見)礼讃しているような作品が、これほどまでの規模でヒットしたという前例はなかった。

とくにここ日本で、あんなきつい設定やストーリーの映画が、流行りに流行った状況というのは、僕の記憶にはない。だからこれは「事件」だったのだが、しかし、これまでにまったく「似た例がなかった」わけではない。じつは、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒットのありようと、『ジョーカー』のそれは、ある面とてもよく似ている。ほぼ同様と言っていいほどの「ヒットの構造」がそこにはあった。

たとえば『ボヘミアン・ラプソディ』の主人公であるフレディ・マーキュリーも、『ジョーカー』の主人公であるアーサー・フレックも、健全なる社会においては、いとも簡単に異端者、アウトサイダーとして排除され得る位置に「いるしかない」運命を背負ったキャラクターだったからだ。陽と陰の究極2例、とでも言おうか。そんな特異なキャラクターへの「共感」が、国際的に、ものすごい規模で生じているのが「いま」という時代の相の一断面なのだ。ゆえにこの2作の分析をつうじて、現在世界中で起こり始めている「変動」の大波の一端へと、思考上のダイヴを試みてみたい。

さて、18年公開の『ボヘミアン・ラプソディ』は、日本でも受けに受けた。老若男女、小学生までもが観に行った(だから下手したら、三世代が同時に観た)。従前からクイーンの音楽を愛好していた、もともとのファン層の数などはるかに超えて、まるでディズニーの『アナ雪』のように、つまり正しく社会現象のように、同作は受けた。国際的にはもちろん、日本においてもまた、まさに記録破りの大ヒットとなった。

そんな『ボヘミアン・ラプソディ』のヒットの理由、その最大のものは「主人公のキャラクター」への共感だった、と僕は考える。クイーンの伝記映画である同作における主人公とは、言うまでもなく、不世出のシンガーであり、傑出したフロントマン、ステージ上に君臨するスターの権化、フレディ・マーキュリーその人だ。つまり「潜在的アウトサイダー」である彼への共感だ。この役を、若き名優ラミ・マレックが演じた。

かくして「映画のなかのフレディ」というキャラクターに、観客は引き寄せられた。彼の喜び、彼の痛みに心を寄せた。そして、彼の成功に高揚し、彼の悲運に涙した……フレディの心情に「共感」して、そして劇中のすべてに、まるで「わがことのように」感情移入し、共振した。共鳴した。この「心の状態」の上に、なんと、あろうことか、全方位的に映画的効果絶倫満艦飾の「クイーンの名曲」の数々が鳴り響くのだから……すさまじいことになった。これが、観客が同作に魅了される際の基本構造だった。

だから、うまく観客がはまってしまったあとならば、フレディの現役時代などは「あまりにもハード・ゲイっぽすぎる」としてジョークの種にすらなっていた、短髪となって以降の彼の外見すら、肯定的な表象どころか、「わかりやすく、親しみやすい」像ともなり得た。たとえば小学生の目にはフレディが、人気マンガ『ワンピース』に出てきたクイア・キャラクター、ボン・クレーみたいに見えていても不思議はない(ボン・クレーは、同作のなかで根強い人気がある脇役だ)。 

こうした『ボヘミアン・ラプソディ』の構造と同様に、「本来的にはアウトサイダーであるはずの」主人公キャラクターに観客を「共感」させてしまう、という手法で「ヒットにつなげた」一作が『ジョーカー』だった。

同作において観客は、とにかく徹頭徹尾、ホアキン・フェニックス演じる主人公アーサー・フレックに寄り添うことを求められる。ほとんど一人称的なまでに「彼の視線」のみに沿ってストーリーは進んでいく。そしていつしか観客は、アーサーに「共感」していく、のだが……とはいえ、ここに同作最大の「特徴」がある。

なぜならば「だれも同調なんて、できるはずもない」ようなキャラクターこそが、アーサーだったからだ。特殊な妄念に取り憑かれた、孤立型アウトサイダーの極北とでも言おうか。そんな人物に「共感させてしまう」監督の手腕の見事さが光った一作だった。

(※以下、『ジョーカー』のネタバレがあるので、未見の人はご注意を)




なぜアーサーに共感できるのか?

なぜアーサーは「一般的には共感しづらい」人物なのか。彼は「陰」の側にいるからだ。「愛されキャラ」だったフレディとはまったくの逆の側にいて、心を閉ざした上で、「だれも感情移入できない」ような凶悪行為を次から次へと繰り広げたあげく、「真なる悪へと向かって結晶化していく」ような人物像が、アーサーだったからだ。

原理原則的に、一般論的に、そんな人物に共鳴できる人物、心を同調させられるような人は、世にあまり多くはない、はずだ。なぜならば容易に「そうできる」人物とは、すなわち反社会的人格に近く、そうした類型が「決して多数派ではない」からこそ、我々が住む社会はそれなりには平穏に維持されている、からだ。

たとえばどう考えても、アーサーが母親を殺すのはひどすぎる、とだれもが感じたはずだ。また、彼が妄想のもとで「恋人だと思い込んでいた」女性・ソフィーは、あのシーンのあと、どうなったのか。勝手に部屋に侵入していたアーサーに怯えた彼女は「あのあと」どんな目に合わされたのか? そこは描写されていない(だから彼女がアーサーに陵辱されたあげく惨殺された可能性は、完全には否定できない)。ウェイン産業の社員は明らかに最悪な奴らだったが、しかし殺してしまうのはどうか。そしてそのあと「なんか、楽しいな」と感じたのか、つい踊りそうになってしまうのは、さらにどうか。それからピエロの同僚を殺すのは、明らかなる「行き過ぎ」ではないのか……といった出来事の数々は、観客が常識的な人であればあるほど「胸が悪く」なってもしょうがないシーンのはずだ(原則論的には)。

なのに、なぜか観客はアーサーに「共感」してしまうのだ。彼の場当たり的かつ斟酌の余地の一切ない、非道な暴力が発散されるたび、逆に我々は、問答無用でストーリーに「巻き込まれていく」。本当なら目を背けたくなるような彼の行為の連続に、引きずられるようにして動員されていく……だけではなく、観客は、クライマックスの「証人」としての役割をも付与される。ゴッサム・シティが大混乱に陥る暴動の果てに、得も言われぬカタルシスのきわみを体験させられる。犯罪の王太子ことジョーカーが「誕生」する場面にて――。

と、まるで薬物によって幻惑されてしまったかのように、観客をして「悪の華の生まれる瞬間」を言祝ぐ一員とならしめてしまう、かのような……奇っ怪にして魔術的な「動員型」映画作品こそが『ジョーカー』だった。

ここで特筆したいのが、観客は最後の最後まで(いや、最後になればなるほど!)アーサーの心の動きを理解することができない、という点だ。だからたとえば、凶行をおこなう瞬間の彼の心に同調するのは難しい(大抵の人は、アーサーが暴力を繰り出した瞬間に驚きを感じたはずだ)。つまり彼のこうした「行為」には、観客は直接的には感情移入できない。それではないところに、感情移入する。「共感」の回路を作らされるわけだ。

観客が感情移入するのは「行為ではない」ところだ。行為には直結しないところ、と言おうか。たとえば、アーサーの鬱屈だ。恵まれない生い立ちで、母ともども、彼自身も(おそらく)精神に障害があり、貧しく、社会的な成功とはほど遠いままに、中年期を迎えようとしている孤独な男である彼の「日々のつらさ」に、まず最初に共感させられるのだ。「だれのせいでもなく」うまくいかない人生の重み、というやつに。

うまくいかない人生、と言われてしまうと、これはほぼ全員、現代社会に生きる人なら、どこかしら自分の毎日に「思い当たるところがある」に違いない。いいや、私の人生はなにもかも、想像したこともないぐらいにうまくいっている――なんて人も、広い世界のどこかにはいるのかもしれないが、少なくとも僕は会ったことがない。

我々は、「恵まれない」男であるアーサーの原形質のような部分に、最初に共感の糸口を見つける(見つけさせられる)。だから「そこから先」に彼が引き起こす凶行そのものではなく、のちに凶行へとつながっていく起点となる彼の感情の部分に、共振させられるわけだ。「ちっきしょう」という感情に。なにかを「やりたいなあ」という思いに。あるいは「そうなったら、いいなあ」という想像力に――。

そう。『ジョーカー』に心揺さぶられた観客は、アーサーというキャラクターが「やったこと(行為)」ではなく、彼の「想像力」にこそ同期させられて、共振し、そして共感へと接続されていったのだ。そしてこの部分こそが、まるで相似形のように、アーサーが「映画のなかのフレディ」と似ている点、なのだ。

なぜならば、たとえばフレディ・マーキュリーという名は、本名ではない。「ジョーカー」のように、「自らが付けた」名だ。生まれたときの名は、ファルーク・バルサラ。アフリカ大陸東海岸沿いのザンジバル島で、イギリス領インドの人である裕福な両親のもと、アイデンティティ上の複雑さを抱えつつ彼は育つ。代々ゾロアスター教徒だった両親は、ペルシャ系インド人だという意識があった。ザンジバル革命を逃れた一家は、フレディの意見に沿ってイギリスに移住するのだが、その先で彼を待っていたのは「パキ」という蔑称でもあった。歯の形状、性的指向性も彼の内面の複雑性をいや増したことは、想像にかたくない。「アウトサイダー」的な要素の、これでもかという、てんこ盛りだ。

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(ザンジバル時代のフレディ。本名ファルーク・バルサラ。『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生』より)

しかし彼には「音楽」があった。音楽を、ロック・バンドをとおして実現したい夢や理想の世界があった。そこで活躍すべき、無垢なる超人的キャラクターとしての「フレディ・マーキュリー」という名が、あった――。

おわかりだろうか? 『ボヘミアン・ラプソディ』に、クイーンの音楽に、あるいは、フレディのソロ作品に心奪われるとき、我々は「フレディ・マーキュリー」という、きわめて架空性の高いキャラクターに魅了されているのだ。架空の人物が演じるフィクションのなかに心を遊ばせているのだ。つまり、本名ファルーク・バルサラが「想像した」楽園、地上のどこにもない理想郷にて、我々は(フレディ本人と同様に)魂の解放を試みる、ことができる。フレディらしく、楽天的で、愛ときらびやかさにあふれた世界で。

そして、こうした種類の想像力とはまさに「カードの表裏」の関係にあるのが、劇中のアーサーの暗い夢想であり、その結果に「生じてしまった」かもしれない、ジョーカーという怪物的人格なのだ。ゆえに僕は『ジョーカー』のヒットと『ボヘミアン・ラプソディ』のそれとは構造的に「そっくりだ」と感じたのだ。主人公の「想像力」の部分に観客をシンクロさせていく、という手法の近似性がひとつ。さらには、(出自の特異性などで)容易には共感しようもない、アウトサイダー的人物ですら、「想像力つながり」でもってすれば心を通わせられるのだ、という実証実験の大成果の2例としても。

どこまでが『映画内の現実』か?問題に迫る

ところで僕は、『ジョーカー』という映画のなかで「じつはジョーカーは誕生していなかった」との見方をとる者だ。世界中のいろんなところで噴出している「あの映画のどこまでが『映画内の現実』として描かれているのか語ろう!」問題において、僕は以下のように整理している。

●アーサーが殺したのは(可能性も含めて)前述の人々(ウェイン産業の社員3人、母、ソフィー、元同僚)、プラス最後の「白い部屋」にて彼を問診したカウンセラー。だからデ・ニーロ演じるマーレイ・フランクリンは殺していない。
●「白い部屋」はアーカム州立病院内にある。元同僚を自分のアパートメントで殺したあと、アーサーはこの施設に収監される。つまり、劇中「そこからあとに起こったこと」は、全部彼の想像(妄想)。
●だからアーサーは「赤いスーツのジョーカーの扮装」は、(映画のなかの現実としては)一度もしていない。階段で踊ってもいないし、マーレイのTVに出てもいないし、暴動のさなかに崇められたりも「していない」。
●また、ピエロの面をつけたアーサーの信奉者たちは「ただのひとりも」いない。これは全部アーサーの妄想。ゆえに、街に暴動は起こってはいない。
●だから彼は「だれからも支持されるわけのない」個人的な激情にのみつき動かされて、ほぼつねに無抵抗の相手を、ときおり衝動的に殺しただけ。
●そんな彼が「思わず吹き出してしまう」ほどにまで突拍子もない空想こそが、「両親を殺された幼きブルース・ウェインが、のちに成長してバットマンになる」というもの。つまり、アーサーの妄想力ですら追いつかないほどの、あり得ないほどの狂気に満ちた跳躍を将来おこなうのがブルースであり、彼が「転生」した姿であるバットマンなのだ――。


と、僕は同作を読んだ。虚と実がないまぜになった、典型的な「信頼できない語り手」であるアーサーの視点にカメラを寄せることで、自在に観客をミスリードしながら、このアンモラルきわまりないストーリーの底にある「人間そのもの」の哀しさを浮上させ、幅広い観客をして、人生の重くつらい側面へと「惻隠の情(そくいんのじょう)」を持たせることに成功させたのが、この見事に設計された一作だった、というわけだ。もちろんまた、この「設計」があったからこそ、どぎつ過ぎる「出来事」に観客が辟易することがないように、作中でつねに巧妙なる毒抜きをおこなっていたのだ、とも僕は考える。

ところで、アーサーとフレディ、いやファルークとの「違い」の最たるものは、なんだったのだろうか? それは「母の愛の状態」ではなかったか、と僕は思う。アーサーの母は、あらゆる意味で、彼の不幸の源泉となっている。片やフレディの母、ジャー・バルサラは、大いなる健全な愛で、つねに息子である彼を正しく肯定し続けていた。

僕が翻訳を担当した『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生』という写真伝記本のなかでは、比重はさして大きくないにもかかわらず、収録されたジャーの言葉や「写真のなかの笑顔」は、とても印象深かった。彼女の存在が、息子の人生に不可欠の要素である「愛の原点」となっていたことが、よくわかった。だから後年のフレディが、国際的なオペラ歌手、モンセラート・カバリェと身を寄せて微笑む写真に僕は孝行息子の影を見るし、同時に、そのころの彼の写真(口鬚なしで、正装している)がジャーのお気に入りの一枚だった、というエピソードにも、心動かされた。

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(生後半年のフレディ。中央の写真では、母・ジャーに抱っこされている。『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生』より)

もしかしたら、(まるでアーサーのように)鬱屈して世を憎む人物になってしまったかもしれないファルーク少年が、理想を「想像してみる」ことで、ポップ音楽史に残るアーティストとなっていった過程には、ジャーを起点とするような「愛の輪」が、いつもいくつも、彼のまわりにはあったからなんじゃないか、と僕は思う。

普通なら「共感するはずもない」ような位置にいる者の、その心の動きのどこかに「共鳴」してしまうこと。なかでも「想像力」に共振して、ときに共感にまで至ること――こうしたところから、爆発的とも言っていいムーヴメントが生まれる事例が、近年とみに目立っている。たとえば、16年にアメリカで大ヒットし、日本でも版を重ねた回顧録『ヒルビリー・エレジー』は、その典型例のひとつであり、先駆けだったのかもしれない。

現時点で言うと、なんと言ってもグレタ・トゥーンベリの大活躍だろう。米〈TIME〉誌の「今年の人」にも選ばれた。まさにいま、かつてのロックスターのように、いやパンク・ロッカーのように、全地球的に「この先」の道を指し示している16歳の少女の最大の武器は、もちろん「理想」なのだが、それこそ「想像力」からしか生まれ得ないものだ(だって世にまだないからこその「理想」なのだ。ゆえに想像してみるほかない)。そして同種の想像力を持つ者がそこに「共感」して、輪が広がっていった。これこそが、いまの世を覆わんとする、大変動の「大波」の最たるものだ。

とはいえ、他者の理想を、いや痛みをすら「想像することができない(or したくない)」人は世に一定数いる。そのなかの一部の人々が、いま、とてつもなく感情的に、口汚く、彼女を非難しているようだ。現在のアメリカ大統領含め、それらは「世を知った大人」だと自称する者が多いのだが、しかし悪罵を飛ばしているときの醜怪なる様態は、それこそまるで「アーサーの狂気のなかにしかいない」ジョーカーとまさに瓜ふたつじゃないか、と僕には思える。


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