続・アメリカの「ドブ板選挙」―米副大統領カマラ・ハリス氏自伝『私たちの真実』より
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続・アメリカの「ドブ板選挙」―米副大統領カマラ・ハリス氏自伝『私たちの真実』より

光文社新書編集部の三宅です。

下記の記事の続きをお送りします。

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『私たちの真実』第二章 正義のための発言者より(後編)

初めての地方検事選は、複数の候補者がいたため、決選投票は避けられなかった。しかし世論調査(状況は日を追うごとにどんどん好転していった)は、決選投票にもち込めれば五週間後には私が勝てるだろうとの予測を示していた。

投票日には夜明け前から通勤時間帯まで、さらには投票所が閉まるまで、通りに出て人々と握手をしつづけた。親しい友人のクリセットが、最後の選挙運動の手伝いに駆けつけてくれた。マラソンの残り四分の一マイルでラストスパートをかけるような、独特の高揚感があった。家族や友人、選挙運動スタッフのリーダーとともに夕食に出かけると、結果が続々と入りはじめる。

キャンペーンマネージャーのジム・スターンズが事務所で開票の行方を見守り、得票数を電話で伝えてくれていた。食事の最中も、友人で当時のカリフォルニア州議員マーク・レノは、妹のマヤや、キャンペーンコンサルタントのジム・リバウド、同じく友人のマシュー・ロスチャイルドとともに開票結果の確認をつづけていた。彼らはパスタを食べながら、投票区の結果が報告されるたびに、紙のテーブルクロスの集計表をアップデートしていた。

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2003年11月の投票日の夜。食事に出かけたころ、速報が入りはじめた。義理の弟のトニー・ウエスト、親友のマシュー・ロスチャイルドとマーク・レノ、キャンペーン・コンサルタントのジム・リバウドが紙のテーブルクロスに初期の開票結果を書いている。得票数を書いた部分を引きちぎって持ち帰った。いまでも額に入れてオフィスに飾ってある。

現代の選挙運動の武器はビッグデータ、解析、高度な投票率モデルだ。しかし、このときの経験から私は、友人とペン、そしてボウルいっぱいのパスタも同じぐらい有効だと知った。

そろそろ店を出ようとしていると、マヤが私の腕をつかんだ。最新結果が飛び込んできたのだ。

「すごい。やったじゃない!」。マヤは叫んだ。「決選投票に残ったわ!」。頭のなかで票の数を計算して、彼女が正しいことを確かめた。私がマヤを見ると、マヤも私を見て、二人で同時に言った。「信じられる? 本当にここまで来たのよ!」

決選投票はその五週間後に行われた。投票日は雨だった。バス停で有権者と握手をし、ずぶ濡れになって選挙戦を終えた。その夜、願ったとおり、私たちは決定的勝利を収めた。

選挙事務所で祝賀会が開かれ、部屋じゅうに「伝説のチャンピオン」(訳注/イギリスのロックバンド、クイーンの曲)が鳴り響くなか、私はスピーチをした。そこに集まった友人、家族、先輩、選挙運動のボランティアは、一つのコミュニティだ。最貧困地域の人もいれば、非常に裕福な人もいた。警察改革のための闘いを主張する支持者の横には警察官がいる。年配の市民と談笑する若者の姿も見える。そこには私がずっと信じつづけてきた真実――最も重要なことに関しては、私たちには相違点よりも共通点のほうがはるかに多い――が映し出されていた。

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5週間後に決選投票で勝利し、サンフランシスコ初の女性地方検事となった。キャンペーン本部で、ボランティアが壁にスプレーでペイントした「justice(正義)」という言葉の前に立つ私。私の左肩のうしろに見えるのが母。そのうしろには、クリス・カニーと市検察官のデニス・ヘレラがいる。クリスはのちに私の捜査局のチーフになる。

いまこれを書いている時点で、地方検事就任から約一五年の歳月が流れている。あれ以来ほぼ毎日、私は何らかのかたちで刑事司法制度改革に取り組んできた。地方検事として二期、州司法長官として二期近くをそのために捧げ、上院議員となって一か月半で刑事司法改革法案を提出した。二〇〇四年の就任の日の朝も、その問題が自分にとっていかに重要かは十二分に理解していたが、それが私をサンフランシスコからサクラメントへ、さらにワシントンDCへと導くことになろうとは、これっぽっちも想像できなかった。

地方検事の就任式は、サンフランシスコ戦争記念舞台芸術センターの〈ハーブストシアター〉で執り行われた。一九四五年に国際連合憲章(United Nations Charter)が調印されたのと同じ場所である。私たちは新たな歴史をつくろうとしていたが、その日のメッセージもやはり「結束(unity)」だった。私と、私が宣誓の介添人に選んだ共和党員のカリフォルニア州最高裁判所長官ロナルド・ジョージのあいだに、母が立った。母の顔に純然たるプライドが浮かんでいたのが、強烈に印象に残っている。

会場は市の至るところから集まった何百人もであふれていた。ドラムの音が鳴り響く。青年合唱団の歌声が聞こえる。知り合いの牧師の一人が美しい祈りを捧げた。中国の龍舞の踊り手が廊下を練り歩き、サンフランシスコ・ゲイ・メンズ・コーラスがセレナーデを歌った。その光景はいささか熱に浮かされたような、最高の、最も美しい多文化、多民族共生の姿だった。

当時のオークランド市長ジェリー・ブラウンが前列に座っていた。六〇年前、父親がやはり地方検事に就任したという。ギャビン・ニューサム(訳注/サンフランシスコ史上最も若い市長〔当時三六歳〕。二〇二一年現在はカリフォルニア州知事)が私と同じ日に市長として就任宣誓を行い、サンフランシスコには、政治の新たな章の幕が開き、私たちが力を合わせれば何かできるかもしれないという空気がありありと感じられた。

私は握手やハグをしながら、彼らの喜びを一心に受け止めて、人々のあいだを進んだ。にぎわいが落ち着きはじめると、一人の男性が二人の娘をともなって近づいてきた。

「娘たちを連れてきました」と彼は言った。「この子たちと同じ肌の色をした人が、大きくなってどんなことができるようになるかを知ってほしくて」
就任式を終えると、私はこっそり新しいオフィスを見に行った。その席に座ってどんな気分になるか知りたかったのだ。広報責任者のデビー・メスローと〈ホール・オブ・ジャスティス〉(訳注/警察や検察など司法関係の官庁が入る建物)に向かう。高速道路のすぐそばに建ち、「八五〇」の名で知られる(番地がブライアント・ストリート八五〇だから)そのビルは灰色で、厳かで堂々とした佇まいをしていた。そこは「恐ろしいほどにすてきな」職場だと、よく冗談を言ったものだ。地方検事局のほか、ビルには警察本部、刑事裁判所、市の違法駐車車両取締り事務所、郡刑務所、市検視官のオフィスが入っていた。ここが、人々の人生がときに永遠に変えられてしまう場所であることは、疑いようがなかった。

「あらまあ」。私は自分のオフィスをじっくりと眺めた。正確に言えば、空っぽの部屋を。主が変わり、ほとんどもぬけの殻状態になっていた。壁の一つに金属製のキャビネットがあり、いちばん上には一九八〇年代のワング製コンピューターがあった(念のため言っておくが、二〇〇四年の話である)。なるほど、どうりでオフィスに電子メールアドレスがないわけだ。隅っこには内側にビニール袋がかけられたゴミ箱が一つ。床からは外れたケーブルが何本か飛び出していた。

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就任式を終え、新しいオフィスを見に行った。真ん中にイスが1つ置かれているだけで、がらんとしていた。自分の席に座り、喜びをかみしめた。

窓の外に目をやれば、保釈保証業者の事務所が何軒も並んでいる。見るたびに、刑事司法制度とは貧しい者にとってはより過酷な仕組みである、と思わざるをえない光景だ。机もなく、かつて机が置かれていた場所には椅子だけがぽつんとあった。でもそれで十分だ。これに座るために来たのだ。私は自分の椅子に腰かけた。

静かだった。その日初めて、私は一人で自分の考えと向き合い、すべてをかみしめ、夢のような現実に思いをはせていた。

私が選挙に出たのは、自分にこの仕事ができると確信したからだ。それまでの誰よりもうまくやれると信じてもいた。とはいえ、自分の経験よりもはるかに大きなものを背負う立場に立ったことも自覚していた。当時、私のような肌の色をして、私のようなバックグラウンドをもつ地方検事は多くなかった。いまでも多くない。二〇一五年の報告によれば、わが国で選挙によって選ばれた検察官の九五パーセントが白人で、七九パーセントが白人男性だった。

私の考え方をかたちづくったものは、現場の検察官として刑事司法制度の最前線に立ってきた一〇年間をおいてほかにない。私はその裏も表もわかっていた。制度がどんな目的を果たし、何を果たせなかったか、そして、どうあるべきなのかを。裁判所は正義の中枢でなければならない。だが、そこはしばしば不公平の巨大な中枢と化す。その両方が真実であることを、私は知り尽くしていたのだ。(了)

前編はこちら。









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