【第18回】残された言葉からたどる、頭上運搬|三砂ちづる
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【第18回】残された言葉からたどる、頭上運搬|三砂ちづる


忘れてしまった、身体の力。脈々と日常を支えてきた、心の知恵。まだ残っているなら、取り戻したい。もう取り戻せないのであれば、それがあったことだけでも知っておきたい……。
日本で、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、ラテンアメリカで。公衆衛生、国際保健を専門とする疫学者・作家が見てきたもの、伝えておきたいこと。

著者:三砂ちづる 
 


「日本中どこでも誰でもやっていた」という仮説


すでに何度か引用しているのだが、女性民俗学者の草分けである瀬川清子は、「頭上運搬の風が、あちらにも、こちらにも、と云ふ風に散在して居る……」と書き、日本国内で頭上運搬がおこなわれていた地域には、規則性が見られないと記していた。

瀬川は頭上運搬に関わる言葉について考察しながら、仮説を提示している。前回の連載の最後に引用した、絵巻物などから過去の頭上運搬について考察した萬納寺徳子も、この瀬川の仮説を踏襲しているといえる。

どういうことかというと、もともと頭上運搬は、どこかの特別なところでおこなわれていた、というものではなく、ほとんどの地方で、ほとんどの人が、日常的な運搬方法としておこなっていたことではないのか、それがだんだん廃(すた)れてきて、ほかの、背負ったり、担いだりする運搬方法に変わっていくのだが、ある特殊な条件下にあるところでは、その風習が残った、ということではないか、という仮説である。

つまりは「以前は誰でもやっていた」という仮説、である。それがどのくらい昔のことなのか、は、わからないにせよ。

「カベル」から「かぶる」へ


頭上運搬に関わる言葉からの、瀬川の考察は、以下の通りである(*1)。

連載第16回でご紹介した「頭上運搬の分布」に記載されている、日本の様々な地方で使われる頭上運搬に関わる言葉に言及している。

まず、「カベル」という言い方。

瀬戸内海に面した広島県の能地(のうじ:広島県三原市)は、頭上運搬の本家と言われるほど頭上運搬が盛んで、よく知られていたところなのだが、ここでは、頭上運搬のことを「カベル」という。

頭上運搬のみでなく、たとえば、虫などが砂をかぶっていることも「カベル」と言うし、自分たちが頭から水浴びすることも、水を頭から「カベル」と言っていたらしい。

広島県尾道でも同様に言われていて、なにかものを頭の上にのせることを「カベリ」と呼び、頭にものをのせて行商している女性も「カベリ」と呼んだ。

瀬戸内海の魚島(うおしま)では、山に野良仕事に行くときに手ぬぐいをかぶっていくことを、「カベって行く」と言っていたそうだ。

瀬川はこの、「カベル」「カベって」という言い方がのちに、手ぬぐいを「かぶって」いく、という標準語になっていったのではないか、と言うのだ。

標準語になっていく、ということは、全国的にその言葉が使われていたということだ、と推論しているのである。

「カヅク」は潜る、かぶる、背負うの意味

「カヅキ」「カヅク」も同様であるという。

「カヅク」は頭にものをのせることであるが、伊豆、志摩、薩摩などでは、海女(あま)が水に潜ることも「カヅク」と呼んでいたらしい。潜ることが大変上手な海女は「大カヅキ」と呼ばれたくらいであるという。

「カヅク」は、別の意味でも使われていて、島根県の浜田、広島県の尾道あたりでは「帽子をかぶる」と言うかわりに「帽子をカヅク」と言っていたそうだ。私自身の祖父母は周防地方の人であるが、彼らも帽子をカヅク、と言っていた覚えがある。

また、福井県丹生(にゅう)郡四ヶ浦(しかうら)村では、「カヅク」というのは背負うことであり、荷縄のついた「カヅキ籠」をカヅク、と言う。

新潟県西蒲原(にしかんばら)郡間瀬村でも、「飯米などを山路三里をカヅキ運んだ」という聞き取りがあり、この「カヅク」も背負うことであったらしい。

今でもカゴをカツグ、斧をカツグ、などというふうに使っているが、瀬川は頭上運搬や潜水をあらわした「カヅク」という言葉が、かぶること、背負うこと、かつぐことに繋がっていったのではないかと説明する。

「ササグ」「イタダク」と頭上運搬の関係

「ササグ」「イタダキ」もまた、頭上運搬に端を発する言葉である。

陸前江島(えのしま)では、頭上運搬を「ササグ」と言い、八丈島でも同様に「ササグ」は頭上運搬である。伊豆半島でも頭上運搬で魚を売りに来ることを「ササイで魚を売りに来た」と言う。

徳島県阿部村から行商に出る女性は「イタダキ」や「オタタ」とよばれ、「魚をササゲて売りに来た」と言われていた。彼女らが頭にのせている籠は「イタダキ籠」という。

越後直江津(なおえつ)でも、頭上運搬をする魚売りの女性は「イタダキ」とよばれ、彼女らが天秤棒を使うようになっても、同様に「イタダキ」と呼んでいたという。

もちろん、「ササゲ」は捧げること、「イタダキ」はいただくこと、につながるのだろう。瀬川は「私共が物を押しいただく場合には、両手に持った物をやや高く上げて、頭部を、潜るが如く、頭上運搬をするが如くに屈する挙動をする。私どももかつて、ササゲ・イタダク人々であった痕跡ではなかろうか」と書くのである。

たしかに、敬意をあらわして何かを差し上げるときの捧げ方は、頭の上に何かをのせようとしている格好と言えないこともないし、同時に、敬意を持っていただくときのやり方もまた、頭の上にのせてもらう、という姿勢にも見える。

「残された」疑問


つまり、もともとは、すべての人が運搬方法として頭上運搬をおこなっていた。ところが、なんらかの理由があって、別の運搬方法も導入されるようになり、頭上運搬は場所によっては廃れていってしまい、多くの場所では運搬に関わる言葉だけが痕跡として残り、実際の頭上運搬は、何らかの特殊な条件があるところにだけ近年まで残った、という仮説だ。

「言葉」から考察しているわけで、この仮説はなかなか興味深い。おそらく日本中いたるところで頭上運搬はおこなわれていたのだが、多くの場所で何らかの理由でおこなわれなくなったのである。
 
しかし、ここで疑問はまた、元に戻る。

連載第16回で示した、頭上運搬の分布地図にあるような場所で、なぜ、頭上運搬は「残った」のだろうか。残ったところにはどういう共通点があるのか。

萬納寺は、論文「絵巻物より見た運搬法の変遷」 (*2)において、連載第16回で挙げた『民俗學辭典』の分布図を中心に、様々な民俗誌や各地の調査報告書をもとにアップデートするとともに、彼女のおこなった平安時代から江戸時代に至る絵巻物の調査から得られた結果も入れて、新しい分布図を示している。

船の上で暮らした人たちの記録

分布図からすれば、あきらかに海辺にあるところが多いのだが、すべてが漁村ということはないようで、農耕に従っている村の方が多かったようだ。業態も、純漁村、半農半漁の村、半商半漁の村、農村、山村、と異なる。

そんな中で、多少なりともそれぞれの村の性格の違いを考えに入れつつ、頭上運搬のおこなわれていた地区をグループごとに大きくまとめると、次の5つに分けることもできるか、という。

すなわち、「西海(さいかい)の家船(えぶね)集団」「瀬戸内海の漂海民」「海士(あま)や海女の系統」「行商を行う村」「その他」、の5つである。

この論文が発表されたのは1967年で、この5つのグループがさらりと書かれているのだが、現代ではこのグループの名前自体に説明が必要だろう。

「西海の家船集団」とは、長崎県西海市を拠点とした水上で生活した人たちで、年間のほとんどを家船(えぶね)と呼ばれる船の上で暮らした人たちのことである。

また瀬戸内海にも、家を持たず、船を家として移動する漂海民がいたのである。

陸に家を持たず、水上の船を家とする、というのは、現代ではあまりにもわかりにくいかもしれないが、1930年(昭和5年)の『大阪毎日新聞』には、

水の都、大阪をめぐる海川の流れのままに生を追う水上生活者の数は約三万人といわれているが、これらの人々がいかにして働き、いかにして生きるかなどの生活記録ともいうべきものが今日まで全然残されていないので、大阪市社会部では六月はじめから府下の海上各河川の全般にわたって大々的に調査を開始することにし目下連日係員五名が実地調査に当たり各水上警察署や方面委員などと連繋して細大洩らさず調査中であるが、流動のはげしい水上生活者だけになかなか困難で、係員もホトホト手を焼いている(*3)。

とある。

いまから約90年ほど前、大阪という、すでに大都市であった街に、水上生活者が「三万人」という単位でいた、というわけだ。

「西海の家船」も、「瀬戸内の漂海民」も、これほどに水上生活者が多かった時代の文脈で考えねばならないのだろう。


註釈
(*1)瀬川清子「頭上運搬について」『高志路』9巻7号、新潟県民俗学会、1943年(瀬川清子『販女』三国書房、1943年に補訂のうえ収録、また、木下忠編『背負う、担ぐ、かべる』岩崎美術社、1989年にも収録)。
(*2)萬納寺徳子「絵巻物よりみた運搬法の変遷」『民具論集〈4〉』慶友社、1967年。
(*3)「船を家とする人々の生活ぶり 大阪市社会部が調査」『大阪毎日新聞』1930(昭和5)年6月21日。「新聞記事文庫」住居問題(5-109)所収、神戸大学経済経営研究所 、1930年。

著者:三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学多文化・国際協力学科教授。
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