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現代社会に欠かせない「数字」との上手な付き合い方|筒井淳也

現代に生きる私たちは、数字に取り囲まれて日々を送っています。学校で、組織で、家庭で……。では、数字はそもそも何のためにあるのでしょうか。あるいは、私たちはなぜ数字やその使い方を身につけるのでしょうか。「数字」「数学」「データ」と聞くと、それだけで苦手意識を持つ方も少なくないかもしれません(担当編集もその一人です)。計量社会学・家族社会学がご専門の筒井淳也さんは、このたび『数字のセンスを磨く~データの読み方・活かし方』を上梓しました。本書で筒井さんは、「数字を扱うセンス」の重要性に触れています。「数字を扱うセンス」とは何でしょうか。また本書は数字だけを扱ったものではなく、私たちが普段何気なく「これってこういうもの」と思っていることが、実は曖昧であることを教えてくれます。発売を記念して、「はじめに」をご紹介いたします。

数字には複雑な事情がある

2020年から、世界中の人はしばらく数字にとりつかれた日々を送ることになりました。報道は連日新型コロナウイルス感染拡大のニュースで占められ、人々は発表される多くの数字に一喜一憂していました。

とりわけ注目されたのは、感染(確認)者数、重症者数、そして死亡者数です。たとえば2020年4月24日の東京都での新規感染者数は「103人」であると報道されました。外出自粛要請が続き、多くの会社や店舗が休業を余儀なくされるなか、この数字の増減にたくさんの人の目が注がれます。

他方で、この数字の背後にも注目が集まりました。新規感染者数「1」とカウントされるには、日本では一定の症状が続き、保健所や医師の判断で検査がなされ、そこで「陽性」反応が出る必要があります。この三つの段階(「症状継続」「専門家判断」「検査」)それぞれにおいて曖昧さ、不確定性があります。つまり、同じような症状でも検査に行く人と行かない人に分かれますし、専門家の判断も実はまちまちです。三つ目の「検査」にはせめて曖昧さがあってほしくないところですが、そうもいきません。検査はPCR検査と呼ばれる手法で行われますが、この種の検査においては陽性なのに陰性と判断されたり(偽陰性)、陰性なのに陽性と判断される(偽陽性)こともあります。しかも2020年に最初の緊急事態宣言が出されたあとの段階になっても、その精度の「計算がまだできて」いなかったのです。

*日本疫学会ウェブサイト
「新型コロナウイルス感染予防対策についてのQ&A」https://jeaweb.jp/covid/qa/index.html(2020/4/26閲覧)

このように、数字は「103人」と集計されてしまうと単純にみえますが、その実複雑な事情をたくさん引き連れています。そう、「103」は、同じ「1」が103個集まった数字ではないのです。少なくとも103通りの「異なった情報の集まり」なのです。

「数字にきちんと向き合ってほしい」
「数字にできないこと」を知ってほしい

このような状況ではなおさらですが、そうではなくても私たちは数字に取り囲まれて生活しています。数字は私たちそのものを構成している、といってもいいくらいです。

私は本書で、次の二つのことをお伝えしたいと考えています。

ひとつは、「数字にきちんと向き合ってほしい」ということです。もうひとつは、「数字にできないこと」を知ってほしいということです。

「数字で何がわかるというのか」という言い方がありますが、たしかに数字には何かしら形式的な、冷たいイメージがついて回ります。それは、バラエティーに富んでいて生き生きとした実態を「数字」に置き直してしまうと、真実がみえなくなってしまう、という感覚からくるものでしょう。これは決して誤解ではありません。数字とはまさにそういうものです。「数字に何がわかるのか」という気持ちを、私たちは常に持っている必要があります。

ただ、それでも私たちは生活をする上で数字を扱わなければなりません。その上で避けるべきなのは、数字が物事を単純化しているということを「忘れてしまう」こと、そして逆に「問題があるからいっそのこと数字を使わない」ということです。

数字が作られるプロセスを忘れてしまうと、数字を間違って分析してしまうことにつながります。「無理して作った数字だ」ということを意識していれば、おのずと数字を扱う際にも一定の分別がなされるはずです。

「数字を使わない」という選択は、これもその帰結を想像できていないという点で、ある意味で想像力に欠ける判断です。間違いなく、数字は私たちの生活の水準を豊かにしてきました。「GDP」でお馴染みの国民経済計算は、マクロ経済政策に必要で、それがあるおかげで多くの人の命が救われています。貧しい人を救うためには、貧しい人の実態を把握する統計が必要です。病気に対して十分に支援をするためには、効率的な資源配分に導くための数字と計算が必要です。

権力者は統計数字を歪める力を持っていますが、それでも統計数字がなければ、権力者はまさに好き放題に振る舞うフリーハンドを得ます。歪んだ数字に対抗できるのは、数字をなくすことではなく、より歪みの少ない数字を作ることです。

要するに、「数字をそのまま受け入れる」ことも、「数字を過度に受け入れない」ことも、両方とも想像力の欠如の表れなのです。

「数字のセンス」を磨くとは

思えば、このような立場から数字や統計を解説した本は、驚くほど少ないものです。多くの入門書は、数字が作り出されるプロセス、そこに含まれる歪みについては、統計調査の文脈で一部だけを触れるか、あるいは「数字をそのまま受け入れ」ています。あとは手法の解説だけです。これだと、数字を扱う「センス」は磨かれないままです。

ここでいう「センス」は、英語ほんらいの意味だと考えてください。日本語では「いいセンスをしている」という言葉を「いい趣味をしている」といった意味で用いることがありますが、これに当たる英語はtasteです。「You have a good taste」(いい趣味=センスしているね)といったりします。センスという言葉には、もちろん「感覚」という意味もありますが、「良識、分別、判断力」という意味合いもあります。これらには、「限界をわきまえる」といった含意があります。「数字のセンスを持つ」ことは、数字にできること、できないことをきちんと分別する、ということです。

また、英語でmake senseという言葉がありますが、これは「意味が通る」といった意味です。数字は、上手に扱わないと、ついつい「意味の通らない」ことをする道具になってしまうことがあります。本書では、数字を使って「意味が通る」思考をするためには何が必要か、考えていきます。

本書では、「数」を使った実践を次の順番で説明しています。まず、私たちはいろんなものを数に置き換えます(数量化)。たとえば、人々の幸せの度合いを数値化します。次に、数にした上でいろんなものを比べます(比較)。ある人は別の人よりも幸せである、といったことがわかります。そして、何かにその幸福度の差を生み出す効果があるのかを解明します(因果)。その際に、差が偶然に生じているものかどうかにも気を配ります(確率)。そのあとで、AIとビッグデータという新しい計量分析の動向を踏まえて、データや分析において専門家が何をしているのかを解説します。

それぞれの実践、段階において、数字を扱うセンス──良識、分別──が問われてきます。本書が、そのセンスを磨くひとつのきっかけになればさいわいです。

◎目次

はじめに
【第一章】数量化のセンス
【第二章】比較のセンス
【第三章】因果のセンス
【第四章】確率のセンス
【第五章】分析のセンス
【第六章】数量化のセンス再訪
おわりに――数字に取り囲まれながら生きる
あとがき

◎著者プロフィール

筒井淳也(つついじゅんや)
1970年福岡県生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学大学院社会学研究科博士後期課程満期退学。博士(社会学)。現在、立命館大学産業社会学部教授。専門は家族社会学・計量社会学。著書に『制度と再帰性の社会学』(ハーベスト社)、『親密性の社会学』(世界思想社)、『仕事と家族』(中公新書)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書)、『社会を知るためには』(ちくまプリマー新書)、『社会学―非サイエンス的な知の居場所』(岩波書店)などがある。

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