見出し画像

自由意志の発明と歴史―僕という心理実験Ⅹ 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt

妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

過去の連載はこちら。

第2章 日本社会と決定論②

自由意志の発明と歴史

ここで自由意志の発明の歴史について、とても短く紹介したい。

自由意志と決定論は、その起源から社会と人との関係に基づいている。

もちろん諸説あるのだが、現在の日本人の多くが信じている自由意志は、西欧のキリスト教に根ざしていると考えるのが一般的である。

(本当に荒っぽくまとめて信者の方には失礼だが)全能の神という存在が、ユダヤ教以降の西洋的なキリスト教(広くはイスラム教も含めてよいと思う)で想定されている(仏教にはそれが存在しない点には注意して欲しい)。

そして一般社会で言われる倫理観「善行を積めば救われ、悪行を積めば罰せられる」という教えが、宗教の名の下に正しい考えとして広められていった。

しかしその考え方は、全能の神というテーゼを否定しかねないものとなる。なぜなら、人間の行為が神を縛ってしまうからである。

善行をしたのだから、神が救ってくれる。悪行をしたのだから神に罰せられる。この時、人間と神の主従関係がある意味で逆転してしまうことに気がつけるだろう。もし本当に神が全能なら、人間の行為などに彼/彼女の未来が縛られてはいけないはずなのだ。

遠藤周作の『沈黙』では、この「人間に縛られない神」が描かれている。江戸時代初期に激しく弾圧され、拷問を受けた日本人キリシタンがいた。彼らは救済を求め祈ったが、神は沈黙し彼らを救わなかった。

 神の存在が全能であるなら、人間は善行を積むとか悪行をするとかで自分の運命に変化を起こせない。

昨今の心理学では宗教は社会を倫理的に運営し、共同生活を潤滑に行うために利用された概念であると考えられている(厳密には、社会的な要請を受けて宗教が生まれたのか、宗教が自然発生的に生まれて社会規模が拡大したのかの”卵が先か鶏が先か”の議論は、いまだ未解決である)。

そういった機能を持たされた宗教では、善行は推奨され悪行は抑制されねば、”役立たず”(その機能が不十分)だと見なされてしまったはずだ。つまり、宗教として成功する(信者を増やす)ためには、社会に倫理的規範を効果的に流布出来ねばならなかった。宗教で悪行を罰し被害者を癒し、犯罪を抑止することで大規模化する社会を回すことが重要だったのである。

全能の神というロジックを壊さず、かつ倫理的行動を促進し社会運営を潤滑に行うデマンドも満たすという問題が、宗教と社会に突きつけられていた。

ここで生まれた概念が「自由意志」だった。つまり、神は全能だという前提のまま据え置いて、それと矛盾しない形で、悪行を抑制する仕組み、考え方が必要だった。

ここに至って「自分の行為は自分の責任である。なぜなら、全ての人間は自分自身の自由な意志に基づいて行動を決定しているのだから」という考え方が発明されたのである。神が人を罰する代わりに、人が人を裁く根拠が生まれたのだ。

だが根底のところでこの考えは、全能の神のロジックを壊してしまう。だからキリスト教の長い歴史の中には、自由意志を否定する試みも存在した。ジャン・カルヴァン派の予定説である。

カルヴァン(1509〜1564年)は「神から見れば人間は皆卑しい」と主張し、神は全てを決めており人間にそれを改変する余地などないはずだと主張した。

しかし当然ながらこの考えは、社会的に広くは受け入れられなかった。現在でも依然として日本社会は、心理学的決定論を受け入れないのだから「いわんや16世紀をや」である。(例えば、自死でさえ神を冒涜出来ないという考えは、多くの現代人にも違和感のある言説として見え続けているはずだ。)

日本人と自由意志と決定論

日本人の自由意志と決定論の捉え方についても、歴史的に見ていきたい。

日本人はご飯粒にも神を宿らせる民族だ。全てのものに神がいるという考え方は、恐らく縄文時代にまで遡れるだろう。岡本太郎は日本人の心性の源泉を“狩猟採集社会“だった「縄文人」に見た。

日本人の神はどこか親しげで、人間味があるように感じる。全知全能という部分をはじめから欠いているようにさえ思う。これは完全に根拠のないただの感覚だが、新潟で発掘された国宝、縄文火焔型土器を見ていると、我々は初めから自由意志と決定論をハイブリットした形で受け入れてきたように感じる。岡本太郎がこの土器から得た心の爆発も、そのあたりにあったのではないかと、彼の論文「縄文土器論」を読みながら思った。

戦後の哲学・思想の巨人である吉本隆明は、その著書『共同幻想論』の中で、古事記の中のスサノオの存在に日本人の原罪を見た。スサノオは海原支配を託されたが、それは狩猟採集民族を農耕民族が支配することを意味していたと彼は言う。つまり、弥生人が縄文人を支配する中で、縄文人の生活様式や価値観が古く劣ったものとして、日本人の原罪になっていったと言うのだ。

人間は集団規模を上げながら社会生活を営んできた。夫婦や家族親族には、マンツーマンベース(身体接触を介して、とほぼ同義)で信じる何かしらの価値観が共有される。吉本はこれを「対幻想」と呼ぶ。

さらに、複数の親族集団が共同体を作る中で、日本人には社会全体で信じる何がしかの価値観「共同幻想」が必要になった。祭りや民話、そして神話がその中身である。弥生人が縄文人を支配していく中で、神道という共同幻想が必要になったのだろう。そして時代は進み、仏教のようなより神の数が少ない、シンプルでロジカルな共同幻想に収斂していった。

そんな中でも日本の神は常に人らしく、過ちを犯す。彼らは決まった世界と、決まっていない世界の二つを日本人に提供してきたように思うのだ。そしてそのことは、心理学者の河合隼雄が「コンステレーション」と読んだものであり、私の勝手な読み替えでしかないことも明記せねばならない。

青き清浄の地で血を吐け

縄文の火焔型土器に比べて、弥生時代の須恵器がいかに味気なく、質素か。新潟のごく一部の文化であった火焔型土器で、縄文を代表させる方法には無理があるという指摘もあり得るが、それでも岡本太郎の感じた「人の魂が退化しているのではないか?」という感覚を、僕も東京国立博物館で体得した。

「今もまだそれが続いているのではないか?」

科学技術の進歩なんて、実にくだらないことなのではないか? 太陽に祈りを捧げるような、大きなものや他者への思いやりの方が美しく、尊いのではないか。それを僕たちは取り戻すべきではないか。

心の内側に世間ではそれを「毒」と呼ぶような、この”疑念”をしっかり持て。太郎はそう言った。

私のやっていることは彼の受け売りで、ただのリレーだ。ベルクソンやトルストイは、そのリレーこそが一番大事なことだと言っている。”持続”させよと。だがそのリレーのために、戦争も必然として起こる。屍を超えて輪廻転生を繰り返しながら、僕たちは青き清浄の地を目指す

過去にはその地へ急ぎ過ぎた者たちもいた。武者小路実篤もそうだった。彼の父親のように、肺から血を吐き死ぬ運命だったとしても、僕たちはその地を目指す。青き衣(Blue Will)の者と。(続く)

過去の連載はこちら。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!