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コピーが本物になる時代の技術――『Web3とは何か』by岡嶋裕史 第2章 NFT⑤

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第2章 NFT⑤――コピーが本物になる時代

ステガノグラフィや電子透かしとの違い

すると、「本人が作ったデータだと確認できるなら、絵画にもデジタル署名すればいいのでは」と考える人もいるかもしれないが、これがダメなのだ。

デジタル署名は「本人が作ったデータ」であることを証明してくれるが、オリジナルかコピーかはまったく判別しない。署名のついたデータをいくらでもコピーできる。オリジナルである文書Aと、それをコピーした文書Bは署名部分も含めてまったく同じになる。

「身元確認」としては同じでいいのだ。「1万円借りた」という文書を本人が作ったと認められるのならば、その文書が2通あっても3通あっても別に構わない。一般的なビジネスであれば、それで仕事が回っていく。

ところが、アートの場合はそうはいかない。本人が作ったものであることと同時に、「1つしかない」ことが巨大な価値を生むからである。

そうすると、ステガノグラフィや電子透かしもダメだ。ステガノグラフィは文書や絵画に、そうとはわからないように情報を埋め込む技術である。

たとえば、いろは歌を7文字ごとに区切って書き、各行の最終文字を拾うと「とかなくてしす」→「咎無くて死す」となる。意図的か偶然か、昔から論争になっているやつである。仮に意図的に行っていた場合はステガノグラフィに分類されるだろう。

暗号に似ていて、しばしば混同されるが、暗号はもう目の前にそれっぽい暗号文がある。暗号文(秘匿情報)の存在自体は隠していないのだ。でも、鍵がないから解読できないのである。

いっぽうのステガノグラフィは秘匿情報があること自体を隠蔽する。一見するとただの絵画やいろは歌なのである。で、悪い人がどこかの絵画をぱくってきて、「これは俺のだ」と言い出したりすると、実は肉眼では知覚しにくい手法で作家のサインが入っていたりして嘘がばれる寸法である。

電子透かしはステガノグラフィといっしょくたにされることも多いが、分けて使う場合は先の話でいう「作家のサイン」は隠されていない。でも、模写しにくい形になっているのでやっぱり本物、偽物を弁別する目的で使う。

典型的なのは(電子じゃないけど)お札に入っている透かしである。あれは高度な技術を要するので、偽札づくりのハードルを上げる。試みてもまったく入れられないか、コスト的に見合わなくなって偽札づくりを断念させる効果がある。

デジタル署名やステガノグラフィ、電子透かしは真物かどうか(その作家が作ったかどうか)を判別する技術である。だが、それがコピーかどうかを見分ける技術ではない。

コピーが本物になる時代

アナログでやっているうちは、コピー=偽物だったのである。サインを入れた質屋の証文も、油絵もコピーは偽物だ。

ところが技術の進歩がコピーを本物にしてしまった。毎日流通しているお札は(シリアルナンバーなどは別として)、全部同じものである。お札の場合はそれでいいのだ。この1万円札も、あの1万円札も、同じ1万円の価値を持ち、1万円の商品と交換できる。この1万円とあの1万円は代替可能(ファンジブル)で、第三者が作った偽札でなければそれでいい。だから、1万円札が本物か偽物かを見分ける技術は透かしでいいのだ。

でも、デジタル絵画は違う。デジタル絵画もお札同様に、オリジナルとコピーがまったく同じデータになる。寸分違わずだ。お札はそれでよかった。でも、絵画の場合は駄目なのだ。同じものが複数あったら価値が下がる。それが第三者の作った偽物でなくて、作家の真作であっても、いや真作だからこそややこしくなる。

表示して鑑賞するぶんにはオリジナルでもコピーでもいっしょである。むしろ、デジタル絵画の場合は表示装置によって発色がまるで違うので、そちらのほうが問題になるくらいだ。作家が見ている絵と、それを購入した者が見る絵は、ディスプレイが異なればまったく違った色彩とコントラストで表示されることになる。

オリジナルとコピーが同一であれば、オリジナルの価値は大きく毀損されることになる。芸術品の価値はそれが稀少であることで担保される。機能性で人を満足される家電などとは違う。大量のコピーが出回ればオリジナルの価値はそれだけ減じる。

この状況に対して、これまでにも作家は様々な対策を講じてきた。たとえば活版印刷で大量の本を作ることができるようになった。どれも本物である。印刷物(コピー)だから偽物で、作家が朱を入れたゲラ刷りだけが本物だと考える読者はいないだろう。本の流通は増えたが、価格は下落した。そこに稀少価値を与えるためにサインを入れることなどを試みる。オリジナル感を出すのである。サイン入りの書籍は(人気の作家であれば)プレミアム価格で取引される。誤植のある初版本に高値がつく現象などもここに含まれる。

本は稀少性ではなく、情報の共有に価値があるので、コピーでもまったく同じ機能を果たせるファンジブル(代替可能)な商品である。したがって、正統な経路を作りコピーを大量に販売することで読者層の裾野を拡げ、利潤を拡大することもできる(もちろん、無償で配布されるデッドコピーが出回れば、作家や出版社には打撃になる。海賊版のコミックが配布された漫画村騒動が典型例だ)。

でも、絵画はそうはいかない。絵画はさまざまな意味を持つが、それに値をつける人の主たる動機は美の独占と価値の保有である。多くの人がその美を共有するなら(それ自体はいいことだと思うが)、いかに好事家であってもあまり高値はつけないだろう。値がつかないから資産として所有する意味も薄くなる。

2つの道

ここで作家には2つの道があったと思う。ここまで絵画を例にしてきたが、音楽でも造形でも同じことだ。

1つ目は書籍と同様にコピーを大量に売るビジネスへシフトすることだ。貴重な技芸を所有して満悦したり、見せびらかしたりするのではなく、毎日の生活を彩り上機嫌になるための装置として位置づけ、薄利多売にするのである。一時期の音楽のビジネスモデルだ。コンサートに足を運んで鑑賞するものだった音楽を、CDへコピーして大勢に売った。コンサートチケットに比べれば単価は下がったが、同時に視聴者のパイはでかくなったので市場は拡大した。

そのリスクも音楽とおなじである。円盤(CDやDVD)を売る音楽ビジネスはいっときこの上なくうまく機能し、巨大な利潤を生んだ。しかし、いまは根底から覆されつつある。無料かつ正規品と同じ品質を持つコピーがあまりにも大量に出回ったからである。

したがって、大量のコピーを売る、もしくはサブスクリプションで共有するけれど、デッドコピーは出回らないようにDRM(デジタル著作権管理)でかためるような売り方になる。

DRMと書くとピンとこない方もいるかもしれないが、現状で生活のあらゆる局面に浸透がすんでいる技術だ。私たちは特に許可も取らずにテレビ放送をハードディスクやブルーレイディスクに保存することができるが、コピーは9回、ムーブが1回と回数制限がかかっている。これをダビング10と呼ぶ。

他にもiTunes Storeで買った楽曲や、Amazonで買ったKindleの書籍が一定数の端末にしか保存できないようになっているケースもDRMだ。

いかにDRMで保護しても、テレビでの再生中にそれをビデオカメラで録画したり、iPhoneで再生した音楽をレコーダで録音する、静止画は写真に撮るなどすれば、コピー自体は作れる。DRMが施すコピーガードを破ること自体も、情報技術に自信があればそんなに難しいわけではない。しかし、それによってオリジナルと比べた場合の品質を低下させたり、コピーをするためのコストを上げて「こんなに手間がかかるなら、オリジナルを買った方がいい」と思わせる効果がある。DRMによるコンテンツ保護はある程度有効である。(続く)


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