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【#7】スルメ焼く東京の夕べに猫ぞ鳴く

嬉野珈琲店へようこそ。
マスターは大の珈琲好きである「水曜どうでしょう」カメラ担当ディレクターの嬉野雅道さん。店ではこだわりの珈琲を淹れながら、マスターが人生のあれこれについてじっくりと語ります。マスター独特の視点から語られる、胸に詰まった息がすっと抜けるお話—―。本日は20代の頃に出会った野良猫との出来事について。40年がたっても嬉野さんの心に残る猫とは、どんな猫だったのでしょうか。

忘れられない猫

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ようこそ嬉野珈琲店へ
本日も、わたくしのヒマな喫茶店からお送りする音声だけのライブ配信におつきあいください。

本日も徒然なるままに、どうでもいい話に終始するので、つきあえるところまでおつきあいください。

私は、よく、一匹の猫のことを思いだします。今からもう40年近くも前に出会った猫です。その猫のことを思い出すと、私はいつも懐かし思いでいっぱいになるのです。

私は学生の頃から結婚するまでの10年近くを東京の高円寺にあった木造モルタル2階建アパートの2階角部屋で暮らしました。その部屋で暮らした10年は、ちょうど私の20代の10年でした。

ある夜のこと。私の部屋で友人数名とスルメを焼きながら缶ビールを飲んでどうでもいいような話を延々していたのです。そしたら不意に物凄く近くで猫が「にゃあ」と一声鳴いたのです。その鳴き声があまりにも大きくて、あまりにもすぐそばで鳴いたようだったから、全員、強烈な違和感を覚えて目を見合わせました。

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「いま、猫が鳴いたよね」
「鳴いた、鳴いた」
「近かったよね」
「ものすごく近かった」

私だけでなく、全員が猫の声を聴いていたのです。だから、あれは幻聴ではなかったのだとすぐ知れて、瞬間、全員が、わけもなく怖気づき、しーんとなり、今一度鳴くのではないかとじっと耳を澄ませました。すると果たして 、ひときわ大きな声でまたもや猫が「にゃあ」と鳴いたのです。今度は全員でハッキリと聴きました。鳴き声は明らかに戸口の辺りから聴こえました。私 は意を決し立ち上がると、外の様子を確認するために恐る恐る薄い玄関ドアを開けました。するといくらも開けないうちにドアの隙間をするするとしなやかにすり抜けて私の足下を一匹の白トラ柄の猫が、まるで我が家にでも帰って来たような慣れた感じで入って来たのです。「なんと人馴れした猫だろう 」、野良猫だとばかり思っていた私は意外に思いました。見ると猫はその首にチリンチリンと鈴の鳴る首輪を付けていました。しかもその首輪はノミとり粉の入った首輪だったのです。明らかにどこかで可愛がられ飼われていた猫のようでした。

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猫は腹が減っていたようで、スルメの近くまで来るとおすわりをして、しきりと「にゃあ、にゃあ」鳴いてみせるのです。あまりにせっつくので私が焼き上がったスルメを猫の眼前に差し出すと、猫は貪り食うようにスルメをムシャムシャ飲み込んでいくのです。その食いっぷりはやっぱり野良でした。ところが、いくらもしないうちに猫に異変が現れたのです。猫は、痙攣を起こして倒れ、その口から泡さえ吹き出したのです。 

猫を襲ったその急変に部屋にいた全員が硬直し、反射的に狼狽えはじめ、友人たちは口々に「ヤバい、ヤバい」と動揺を口にして、ここでこのまま猫の死に目になんか遭ってはあとが祟られるとでも思ったのか、「さぁ、そろそろ帰ろう、帰ろう」と、立ち上がり、1人残らずそそくさと私の部屋から出て行ったのです。

私は、友人たちの背中を見送りながら「なんて薄情な連中だ」と思いました。もちろんここに居残ったからといって私とて死にゆく猫にしてやれることは何もありませんが、ここで死ぬというのなら、それも何かの縁でしょうから、ならば、「せめて死に際くらい看取ってやろう」そう思って、私は泡を吹く猫を膝に乗せ、その小さな顔を覗き込んで見守っておりました。ところが、しばらくすると猫は嘘のように正気を取り戻し何事もなかったように起き上がると、自分の家にでもいるように歩き出したのです。実に拍子抜けした展開でした。あとから聞いた話によると、どうやら猫にスルメを食わせるのは良くないのだそうですね。 

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こうしてその猫は、その夜から私の部屋に住み着いたのですが、とはいえ、それまで猫など飼った覚えのなかった私は扱いもわからず翌朝さっそく追い出したのです。なのに、夕方になるとお腹を空かせて帰ってくるのです。おかしなもので、まっしぐらに頼られると可愛く思えてしまい、仕方なく私はスーパーで猫フードを買ってきては食わせ、それを美味そうに食うのを見てはそれなりに満足し、夜は部屋に一泊させて、また翌日、昼間は表へ出し、夜、帰ってきたら回収しと、なんとなく情も移ってきたので半野良の扱いで飼いはじめたのです。

振り返れば、あのころの高円寺の町には野良猫が豊富にいたものでした。商店街にも、公園にも、住宅街の路地にも、塀の上にも、神社の境内にも、古本屋の店先にも、猫の居場所はどこにでもあって、猫たちは町中で実に自由にしていましたし、人間たちもそんな猫たちを比較的自由にさせていました。きっと人間も時々は猫の呑気さと温もりを必要としていたってことなんでしょうね。あちこちの路地で猫を抱えたり、撫でたり、餌をあげたりして束の間を憩う人がけっこういました。ひょっとして、都会暮らしを数年続けると自分が野良猫とたいして変わらないように思えて共感するのでしょうかね。

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夜更けのスマホにニュースの通知飛び込む

なんてなことを書いていたら私のスマホにニュースが飛び込んできまして(6/16現在)、見る気もなかったんですけど、つい見てしまったらオリンピックの記事で、政府は「G7で各国首脳にオリンピック開催を支持してもらったので、これでオリンピック開催は国際公約となったからオリンピックは絶対やるんだ」みたいなことを言ってて 、ついては6月20日以降、緊急事態宣言を解除しても、そのあとは、まん延防止等重点措置に移行して、とうぶん酒類の提供規制は続けられるようにするとサラリと発言しているようなんです。「なんだよ!  オリンピックが終わるまでオレは『川上』の焼き鳥が食えないのかよ」と瞬発的に思ったら無性に腹が立ってきて、悔しすぎて泣けてきたのです。

なんでしょう、もうこの感情は自分でもよくわかりません。さらに記事を読むと首相側近のコメントとして「オリンピックが無観客だとコロナに負けてる感じがする」とか、つまんないことを発言してるんです。「負けてる感じがする? なんじゃあそれ!」と、2度驚いて。要するにオリンピック会場に客を入れたいのでしょう。だから、その流れで今後は世間のイベントも客入れの上限は緩めて今より入場者数を増やせるようにする傾向らしいとも書いてある。「え? オリンピックに観客を入れたいから今後のイベントは緩和措置をとって、オリンピックまで感染者数を抑えたいから酒類の提供は規制し続けるの? そんなのありなのかよ」ってビックリして。

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いや、昔もこんな悔しい気持ちになったことがありました。

あんときは、うちの会社に対して憤りを覚えたときだったですね。もう、10年以上も前のことです。 組織の大変革があって、蓋を開けてみたら私たちのいた制作部がなくされていたり、期待の目で見ていた若手の番組がなくされていたり。突然なぜそんなことを断行するのか、いくら考えても意味がわからない。説明らしきものを聞いても全く納得できない。考え方に理にかなうところがひとつも見つからない。なのに強引に断行する。あの経験を経て初めて、私は、かつて校内暴力で校舎の窓に石を投げて窓ガラスを割っていた中学生の気持ちがやっと分かってあげられた気がしたんです。

そうか、あいつらも悔しかったんだなって。

「先生! もっとオレ達と向き合ってくれよ! そんなどこかで読んだような話し方じゃなくて、人としてもっとオレたちと向き合ってくれよ! そして、自分の言葉でオレたちと話をしてくれよ!」

中学生が石を投げて窓ガラスを割っていたのは、あれはそういう、ちゃんと向き合ってほしいという悔しさの表れだったんだなって、あのときやっと分かってね。つまり、いい年をした大人たちが、揃いも揃ってどいつもこいつも個人として生徒と向き合い、語り出そうとしないことがあまりにも続くとね、生徒だって人間ですから、どこかで思うんですよ 「もうこの上は、相手の情に訴えるしかない!」って、それで石を投げたくなるんだなぁって、分かったんです。だってね、あのとき私も石を投げてやりたくなりましたもんね。そして今この瞬間もやっぱりね、石を投げたくなっていますもん。石でも投げたらびっくりして、そしたらきっと仮面を脱いで個人の顔を出してくれるんじゃないかなって、思うんですよ。

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いや、本当にあまりにも酷いですよ。オリンピックが終わるまで「川上」の焼き鳥を食わせないなんて。理不尽ですよ。ずっと我慢して待ってたんですよ。それが、オリンピック開催のために、まだ我慢してろだなんて、これって本当に、なんていう踏みにじられ方だろう。あんまりだ。情けない。「なんだよ、そんな理由で誰が納得すると思うよ」そう思って私は悔しくて泣きたくなるのだと思います。還暦を過ぎても悔しいときは中学生と少しも変わらないですね。

いやもう、こういう文章は構成的に破綻しているんですけど、でも仕方ないですよ。だって、この文章を書いてる奴だって人間ですから、腹が立った原因を飲み込んでまで書き続けるなんてことはできませんでしたね。

昔の日本人たちのエピドードに励まされる私

少し前にNHKで「チコちゃん 」を見てたら「寿司の1人前10貫は、どうやって決まったか」って、やってて、そのときのエピソードを聞いてるうちに私は泣けてきたんです。見た人も多かろうと思いますがあえて書きますよ。

日本は、今から76年前に世界戦争に負けて、空襲で日本中の都市は焼け野原になって、ほとんどの人は焼け出されて家をなくし、労働力不足で、食糧難で、餓死者が出そうなので、国民の主食である米は、国民が餓死しないようにと国が食料統制をして一人一人に平等に分配するために配給制になったのです。それは仕方のないことだったんですけど、でも、そのとき日本中のお寿司屋さんは廃業の危機に追い込まれたわけです。だって食糧難はこの先何年つづくか分からない、いつになったら解決されるか分からないから。なのに米は国が配給制にしてしまったから寿司屋は米を仕入れることができなくなった。米が仕入れられなかったら寿司屋は寿司が握れない。もう日本の寿司屋は全員廃業するしかない。寿司文化は終わる。なんだか私はそれを聞きながら今に通じるところを感じましたよ。

そのとき寿司屋の組合長だかなんだか、そういうリーダーの人が考えるんです、そして思いつくんです。

「そうだ、お客に米を1合持参してもらおう。その米で寿司を握ろう。飲食業ではなく委託加工業とすれば寿司を握り続けられる」

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こうしてリーダーはそのアイデアを持って都知事に談判に行くんです。すると話を聞いた都知事は、「おまえ、よく、そこに気付いたなぁ」と感心する。「でも、魚も配給なんだぞ、ネタはどうするんだ?」、そう 聞かれて寿司屋のリーダーは答えるんです、「海老は配給じゃない。玉子だって配給じゃない。他にも配給じゃない魚がある。それでやらしてくれ」「いいだろう」 みたいな話の流れになって寿司屋は委託加工業として再出発したそうですよ。町で寿司屋が開店すると、お客たちは「また寿司が食える」と喜んで銘々米一合を持って店にやってくる。「そのときの米一合で握ったのが一人前寿司10貫だったんです」ということらしく、それが今に至るも続いているってことらしいのです。

私は、再現ドラマを見つつ、「あぁ、みんなで難局を乗り越えるって、こういうことだよなぁ、こうやってみんなで親身になって考えあうってことなんだよな」って思えてね、そこに存在する人間味のある人たちが嬉しくて泣けたんでしょうね。だって工夫する余地があるし、それを応援しようとする気持ちもあったんですからね。あぁ、ここには人間がいるなぁって思えたらホッとできるんですよね。

いずれにしても、かのときにアイデアと工夫する余地と官民の共感があったからこそ、世界に冠たる日本の寿司文化は失われることなく今に続いているんですものね。

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だから私だって「川上」で焼き鳥を食いながらビールが飲みたいですよ。静かに飲むならいいんじゃないんですか? バカみたいに騒がなければいいんじゃないですか? 私だって店だって他の常連客だって感染は広めたくないですよ。そう思っているからこそ外出のときはいつもマスクをしていますよ。手指もこまめに消毒してますよ。もし酒を飲ませたら焼き鳥屋に居座る時間が長引いて感染のリスクが高まるというのなら時間制にしてくれてもいいです。1時間で退店、それでいいです。愛してる店のためです。大人しく従います。そうやって、せめて条件をつけて酒類の提供を再開してくれてもいいじゃないですか。みんな、愛してるお店があるんですから。守りたいものがあるんです。常連なら、だれも大声は出さないよ。

「それでも、どうしてもどんちゃん騒ぎする人がいるんですよ」

そんなふうに言う人が必ずいるけど、でも、そんな非常識な奴をどうして基準にしてこの社会全体のことを考えなければならないんでしょうか。ほとんどの人は真面目にやっているんですよ。常連だって好きなお店を守りたいんだ。コロナが来ようが何が来ようが、昨日までやってきたことを今日も明日もやり続けなければ、これまで築き上げてきたものなんてアッサリ失くしてしまいますよ。愛しているものは失いたくないです。失いたくないから、失わないためには何をすれば良いですかって聞いているんですよ。その声に答えて欲しいだけです。その気持ちに応えてよ。それだけです。それだけなんですよ。 猫の話に戻ります。

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恩義を感じて心を通わせてくれた猫

あるとき猫が急に元気をなくして、いつもの食欲がまるでなく、よく見るといつもはピンク色をしていたはずの鼻が血の気が失せたように白くなっていたのです。これは明らかに何か病気なのだろうと、私は近所の犬猫病院に抱えて行きました。

病院のドアを開けて「すいません、ちょっと猫が元気なくて、診てもらえますか」と言うと、院長である獣医さんが嫌な顔で私を見るのです。「またきみか」と、その獣医さんは私の顔を見て、「勘弁してくれよ」的な、うんざり口調でいきなりきりだすのです。「きみは過保護すぎるよ。猫なんて人間が思っている以上に丈夫なんだから、きみみたいに心配しすぎると猫もうちも迷惑だ」みたいなことを言われてそういえば、たしかに少し前にも風邪ひいたかなと思って猫を連れて行ったことがあって、でも、そのときはなんともなかったんだと思います。そのときのことを獣医さんが覚えていて「またきみか」と、うんざり顏だったようです。きっと熱血獣医さんだったんでしょうね。

でも、今回は明らかに容体が悪いので私も反論しました。「いや、でもこのとおりとても元気がなくて、鼻の頭もいつもピンクなのに、こんなに白いんですよ」と。結局、猫は肋膜炎を発症していました。そのことが分かると獣医さんも実に申し訳なかったという顔になり、「いや、今、水を抜いたから、あとは薬を飲ませて養生させたらじきに治ると思います」と、私が猫を抱えて薬をもらって帰る頃には、ずいぶんしおらしい丁重な口調になっていました。

それからは、お陰で薬も効いて、しばらくしたら食欲も出て、猫はまたもとどおり元気になりました。それ以来、猫はずいぶん私に感謝した様子で、すっかり従順になり、なにかと私に寄り添い、寝るときも私の胸の上で丸くなって寝ようとしました。夕方、私がアパートに帰ってくると、どこで待っていたのか、私の目の前を風のように駆け抜けて、私の見ている前で私より先にアパートの階段を駆け上がると、私がゆっくり階段を上がって来るのを見下ろしながらドアの前でちょこんと座り、私がドアを開けるのを待って、私と一緒に部屋に入るようになりました。今こうして書いているだけで、なんだか懐かしさで胸がいっぱいになります。

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ある春の日の日曜日の朝のことでした。その日は、よく晴れて暖かい日で、私は部屋の南向きの窓を全開にして、秋葉原で安く買ってきたラジカセでボサノバを聴きながら畳の上に寝転がって東京の空を見上げていました。私は、なんだか気分がよくて、そしたら窓の外で、しきりと鳴く猫の声がするのです。それが、まるで私を呼んでいるように、何度も何度も「にゃあ、にゃあ」と甘えた声音で鳴くのです。私は、どうしたんだろうと思って起き上がり、窓から体を乗り出して見下ろすと、案の定、あの猫がいて、私を見上げて鳴いているのです。見ると若い可愛らしいメス猫が一緒でした。ははぁ、昨日の夜、帰らなかったのは彼女が出来たからなのかと分かりました。 でも、それなのに奴は、そばにいる彼女を放って私の顔を見上げ、いつまでも「にゃあ、にゃあ」と甘えて鳴くのです。まるで、「これから彼女とどうしたらいいのさ」と、私に聞いてでもいるかのように思え、なんとも微笑ましく私は猫を見下ろしていました。

結局その夜も奴は無断外泊をしましたが、翌朝、傷だらけの哀れな姿で帰って来ました。きっとあのあと、奴はどこかの強いオス猫に喧嘩で負けて、彼女を取られてしまったんでしょうね。どこかの親切な人が傷口に塗ってくれたか、猫は身体中からメンタムのスースーする匂いをさせていました。

それから2ヶ月ほど猫は私と暮らしました。でも、ある日、もう盛りの季節でもないのに帰って来ず。翌日も帰って来ず。そのうち雨が降り出し、それが長雨になり、猫は帰り道を見失ったのか、私はそれから二度とその猫に会うことがありませんでした。

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当時、私が暮らしていた高円寺のアパートは、木造モルタル二階建てで、私の部屋は階段を上がってすぐのところにある二階の角部屋で、バカみたいに陽当たりが良いことだけが取り柄の部屋でした。風呂なし、トイレ共同。間取りは六畳一間、キッチンは半畳。南と西に窓があり、西の窓を開けると手を伸ばせば届きそうな距離に隣の縫製工場のビルがあり西陽は入りませんでしたが、うっかり窓を開けたら隣で働くお針子さんのお嬢さんたちと窓越しに目が合いそうで西の窓はほとんど開けることがありませんでした。南の窓のすぐ下には歩道があり、電話ボックスがありました。車道は、センターラインのある結構な幅のある広い道でしたから、そのお陰で南から射してくる陽の光を遮る障害物もなく陽当たり抜群だったのですが、あいにくその道が青梅街道から環七へと抜けられるショートカットの道だったものですから、ダンプカーばかりが轟音を唸らせてひっきりなしに走り、オマケに窓のところに信号があったので信号停止したダンプが私の部屋の前でエンジンをふかしては発進するので、そのたびに私は起こされて不眠症になるほど騒音には悩ませられたものです。

そのアパートもバブルの煽りで急激に地価が上がり、大家さんもモルタルアパートの店子の店賃では固定資産税すら払えなくなったようで、アパートは取り壊してマンションが建つことになり、私ら店子は全員部屋を立ち退くことになりました。1989年のことでした。

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そのアパートで私が猫と暮らしたのはもう40年近くも前のことです。猫も、私が暮らした部屋も、いまはもう、どこにもありません。でも、あの猫を思い出すと、あの頃の全てがありありとよみがえるのです。たった2ヶ月ほどしか一緒に暮らさなかったのに、忘れられない猫でした。 

きっとあの猫は、私の人生で、私に初めて出来た友だちだったのでしょうね。私のことを誰よりも大事に思って、照れもなく私を慕ってくれた、あの猫は私の友だちだったのです。だからきっと忘れられないのですね。
(次回は7月8日更新です)

嬉野雅道(うれしの まさみち)
1959年生まれ。佐賀県出身。「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)のカメラ担当ディレクター。愛称は「うれしー」。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞優秀賞など多くの賞を受賞したドラマ「ミエルヒ」では企画を担当し、福屋渉氏とともにプロデューサーも務めた。「愛と平和と商売繁盛」「負けない」がモットー。どうでしょう藩士と奥様に人気。著書は『ひらあやまり』『ぬかよろこび』(ともにKADOKAWA)など多数。

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