【第19回】60代の記憶――頭上運搬と、”坂の多い小さな地域”|三砂ちづる
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【第19回】60代の記憶――頭上運搬と、”坂の多い小さな地域”|三砂ちづる

忘れてしまった、身体の力。脈々と日常を支えてきた、心の知恵。まだ残っているなら、取り戻したい。もう取り戻せないのであれば、それがあったことだけでも知っておきたい……。
日本で、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、ラテンアメリカで。公衆衛生、国際保健を専門とする疫学者・作家が見てきたもの、伝えておきたいこと。

著者:三砂ちづる
  


どの地域、どの世代までが、記憶にとどめているか


日本国内の頭上運搬の分布については、先述したように1951年の『民俗學辭典』の分布地図(*1)が最もよく知られており、さらに、萬納寺徳子が1967年にアップデートした分布図が存在することを、今までの連載で示してきた(*2)。

萬納寺の地図は、『民俗學辭典』以後、民族誌や調査報告書から渉猟(しょうりょう)した、と書かれている。萬納寺の主な仕事は、絵巻物を使って頭上運搬の起源を探るものであったから、分布地図には、上記のもののほかに、絵巻物からのものを別記号で記してもある。

北限は宮城県牡鹿郡江島(えのしま)からはじまり、瀬戸内、九州に多く、南は南西諸島までひろがる『民俗學辭典』の分布地図そのものが、柳田國男のフィールドワーク、瀬川清子のフィールドワーク、さらに、彼ら自身が足を運んだということのみならず、彼らの周囲の人たちが足を運んで確認したところをもとに作られている。

これらの分布地図に出てくる地名(連載第16回参照)は、当時、頭上運搬を「生活上の運搬手段として」使っていたところであり、祭祀や儀式の際に頭上にものを載せる風習のあるところは記載されていない。当然、漏れている地域もあるかと思うが、現在はまずは、この分布地図を頼りに考えていくことになる。

今回は、これらの分布図のうち、「現在、どこで頭上運搬について聞き取りをすることが可能か」、つまり「どこの地域のどの世代までが頭上運搬を記憶にとどめているか」を考えてみたい。

記憶がある最も若い世代――昭和30年代生まれの60代女性たち


どの地区でも共通していることは、「自動車による運搬」の普及により、頭上運搬の必要性が、ほぼなくなることである。しかし、そこにいたるまでには、地方によっていくつかのステップがあり、数十年くらいのギャップがあるようだ。

2021年夏までに、沖縄本島、石垣島、沖永良部島、与論島、神津島などで、「現在まだ頭上運搬ができる女性」の話を聞いた。

2020年代のいま、彼女たちは、だいたい80歳以上が多い。現在も頭上運搬によってものを運んでいるわけではないが、働き盛りの年齢の頃、日々の生活の中で頭上運搬をしていたので、いまも、やろうと思えば、いつでもできると言う。

伊豆諸島の神津島では、もっと若い70代、60代でも、「今はしていないが、やればできる」と言う女性たちがいた。

日本国内で、儀礼・祭祀以外の「生活の場の必要性」から、幼い頃や若い頃に頭上運搬を経験しており、現在はやってはいないものの、やろうとおもえばすぐにできる、と言えるような最も若い年齢は、どうやら、2021年現在、60代の女性のようだ。

すなわち、昭和30年代半ばまで(1960年前後)に生まれた人たちである。

これはピンポイントに自分(筆者)の年齢なのであるが、幼児時代に東京オリンピックを経験し、小学生で大阪万博を経験し、日本の高度成長と生活の変化を体感してきた世代がおそらく、「頭上運搬の最後の記憶」をとどめる日本の女性の世代になると思われる。

この世代のさらに母にあたる世代は、第二次世界大戦を挟んで生活の洋風化を経験した女性たちである。子どもたちの入学式や卒業式にはそろって黒の羽織を着て和装で出かけるものの、日常着としての着物は捨てた世代であり、洋裁を習い、ミシンを使い、編み物をして、家族中の洋服を作った女性たちであった。ハンバーグやカレーを作り始めた世代でもある。

おそらく頭上運搬をする地区では、変化を経験しながらも、この世代は100%頭上運搬ができたであろう。さらにその母、つまり昭和30年代生まれの世代の祖母たちにあたる世代は、全員が普段から着物を着ており、「洋風」の生活とはほとんど縁がなく過ごしていた世代であり、頭上運搬は彼女たちの日常であっただろう。

頭上運搬がなくなった理由――自動車の前の、自転車の時代

前回、瀬川清子が提示していた仮説、つまり、もともとは、日本中いたるところで運搬方法としての頭上運搬がおこなわれていたが、別の運搬方法も導入されるようになったことで、頭上運搬は場所によっては廃(すた)れ、実際の頭上運搬は、何らかの特殊な条件があるところにだけ近年まで残った、という仮説を紹介した。

萬納寺は、1967年の論文で、頭上運搬が残った地区を、グループごとに大きくまとめて「西海の家船(えぶね)集団」「瀬戸内海の漂海民」「海士(あま)や海女(あま)の系統」「行商を行う村」「その他」の5つである、と提示している。

このそれぞれのグループの詳細については、またあらためて書いていきたいが、今回は、この1967年から50年が経った2020年前後に、まだ60代が頭上運搬を記憶にとどめている理由、すなわち、頭上運搬が最後まで残った理由について考えている。

ほとんどの地域で頭上運搬がなくなったのは、自動車による運搬に代わられたからだ、と言われていたが、石垣島の女性たちから言及されたのは、「自転車の普及」であった。

自動車が普及する前、自転車を使えるようになったので、頭上運搬をする必要がなくなった、というステップがあったのである。

自転車は1818 年に、タイプライターの発明者でもあるドイツのドライスが発明したあと、フランス、イギリスで改良が重ねられ、1885年には、イギリスのスターレーが、前輪と後輪の大きさが同じである現在の自転車の元祖となる形を作り上げたのだという(*3)。

我が国においてはそれまでも、三輪車など、さまざまな自転車風のものはつくられていたようだが、この1885年の型の自転車は、明治維新の時代でもあったから、すぐに輸入されるようになった。さらに「実用車」と呼ばれる荷物を運ぶための自転車が国産され、使われるようになっていったらしい。

坂の多い地域では自転車が使えない


これを読んでおられる方は自転車に乗れるだろうか。乗れる人も多いと思う。子どもの頃に乗り方を覚え、中学校や高校時代に自転車通学をしていた、という人も少なくないだろう。

しかし、私が知っている範囲でも「自転車に乗れない」という人はけっこういる。そして自転車に乗れない、という大人の多くは、「坂のある街」で育った人が多い。

私は兵庫県西宮市で小中高時代を過ごしたのだが、たとえば、ごく近所の兵庫県神戸市の方には、自転車に乗れない人が多かった。神戸は山と海が接近しており、坂が多すぎて自転車が役に立たないのである。

長崎もまた、ご存知のように坂が多いところであるから、自転車に乗らない人が多かった。

電動自転車の普及で、現在は状況は変わってきたと思うが、高校生以下の年代に自転車に乗る習慣がなかったところの人は、自転車に乗れないことが多い。

そう考えると、もともと「頭上運搬」をしていたが、わりと平坦であった地域では、実用自転車の普及により、おそらくは頭上運搬は自転車に取って代わられ、そのあとさらに自動車にかわっていったのであろう。

他方で、坂が多くて自転車を使えないところでは、自動車の登場まで、頭上運搬をしなければならなかったと思われる。

電車がなく、坂が多く、小さな地域――島嶼部


また、瀬川清子は、「イタダキ」や「オタタ」(連載第18回参照)と呼ばれた、徳島県阿部村から魚の行商に出ていた女性たちのことを記録している。

昭和になると「ササゲ」の行商は全国的に発展するが、電車の車掌が彼女らが頭にのせているイタダキ籠を車内に乗せてくれないために、ササゲの形での行商がさびれていったことが、すでに1943年に指摘されている(*4)。

行商などで頭上運搬をしていた人たちは、電車の普及により、頭上運搬以外の方法を余儀なくされていく。何十キロもある荷物を背中に担いで電車で運ぶ女性の姿は30年くらい前まで見られたが、頭上運搬の場合は電車に乗る時点であきらめなければならなかったようだ。

つまりは、「電車がないところ」「(電車で運ぶほど長距離で荷物を運ぶ必要がない)ごく小さな地域で運搬が完結しうるところ」「自転車が使えないところ」で、最後まで頭上運搬が残ったということか。

「電車がない」「小さな地域で運搬が完結しうる」ということで思いつく場所は、いうまでもなく島嶼部である。島嶼部のうちでも、平坦なところのほうは、早く自転車に置き換わる。

よって、2021年現在、60代女性で頭上運搬の記憶があり、今もやろうと思えばできる人たちは、「坂の多い島嶼部」の人たちということになり、神津島はまさにそのような島である。

モータリゼーションによりすべての運搬は自動車に取って代わられていき、記憶のある人もいなくなるのだが、その道筋に一世代、二世代くらいの差はありそうなのである。

註釈
(*1)民俗學研究所編「頭上運搬の分布」『民俗學辭典』東京堂出版、1951年。
(*2)萬納寺徳子「絵巻物よりみた運搬法の変遷」『民具論集〈4〉』慶友社、1967年。
(*3)「自転車の歴史」自転車博物館HP(http://www.bikemuse.jp/knowledge/ )、2021年7月26日閲覧。
(*4)瀬川清子「頭上運搬について」『高志路』9巻7号、新潟県民俗学会、1943年(瀬川清子『販女』三国書房、1943年に補訂のうえ収録、また、木下忠編『背負う、担ぐ、かべる』岩崎美術社、1989年にも収録)。

著者:三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学多文化・国際協力学科教授。


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