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「これが売れなければ次はないかもしれない」――エンタメ小説家の失敗学6 by平山瑞穂

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第1章 入口をまちがえてはならない Ⅳ

「これが売れなければ次はないかもしれない」

 そうしてまっさらなところからルールを学びつつ、苦手意識を持っていた「ジャンル」なるものにあえて挑む決意を抱いた僕が、『ラス・マンチャス通信』に続いて新潮社から「受賞第一作」として発表した作品、『忘れないと誓ったぼくがいた』(二〇〇六年三月)は、結果としては甘い純愛ファンタジー小説となった(二作目がこれになった背景にはやや複雑な経緯があるのだが、それについては第3章で詳述する)。

「これが売れなければ次はないかもしれない」という危機感に襲われる中、いっそ針を振り切ってしまおうという身構えで、当時流行りだった『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一)や『いま会いにゆきます』(市川拓司)などの「純愛路線」を意識して形にしたものだ。

 人々からなぜか忘れられ、ついにはこの世から消滅してしまうという不可思議な運命に見舞われた少女・織部あずさと、自分だけは彼女を忘れまいと涙ぐましい苦闘を重ねる平凡な高校生タカシとの交流と、二人のほのかな恋情を描いたこの小説は、デビュー作とは似ても似つかない、エンタメ文芸のルールを忠実になぞったものとなり、その豹変ぶりに驚いた読者も少なくなかったようだ。

 だがさいわい、この作品は単行本でもわずかながら重版がかかり、文庫になってからは映画化(公開は二〇一五年、主演は村上虹郎と早見あかり)もされて、そこそこのスマッシュヒットとなった。「高校生のせつない純愛」という甘いモチーフの陰に僕がひそかに忍ばせた、「“覚えていること”と“知っていること”は何が違うのか」「“記憶”と“記録”の違い」といったいわば哲学的なテーマがどこまで読者に伝わったかはともかくとして、まあどうにか小説家として生き延びていく足がかりを形成することはできたのではないかと胸を撫でおろしたものだ。

 しかし一方で僕は、どこか煮えきらない思いを胸中に燻らせてもいた。そしてそれは、その後、さまざまな出版社で、それぞれジャンルも趣向も異なるさまざまな作品を書いていく間にも、常に僕を据わりの悪い気持ちにさせつづけてきたものでもある。

 自分はこうしていつも、ジャンルに縛られつづけなければならないのか――僕を苛んできた違和感とは、ひとことでいえばそういうものだった。

 純文学には、そうした「縛り」はない。むしろ、既存の枠組みをいかに逸脱するかということに主眼が置かれ、そのことこそが高く評価されるようなところがある。僕はあらためて、本来の自分が追い求めていた純文学という領域の持つその自由さに焦がれ、現在の自分が置かれているエンタメ文芸という領域に不可避的に付随するルールの数々を、不自由な桎梏と感じるようになった。

 しかし、事実として僕はすでに、エンタメ小説家としてのキャリアを歩みはじめてしまっていた。ほどなく、新潮社以外の版元からも続々と声がかかり、エンタメとしての作品が次々と形になってもいた。作家としての僕の資質を理解した上で、どうすれば売れる作品になるかと知恵を絞り、力を尽くしてくれている担当編集者たちの苦労に、できればヒットを出すことで報いたいという思いもあった。

 だからまずは、この領域で目に見える「実績」を打ち立てることだ――僕はそう覚悟を決めた。直木賞とはいわずとも、(エンタメ文芸の登竜門と位置づけられている)吉川英治文学新人賞や本屋大賞などを受賞して、「平山瑞穂」の名に対する認知度を一気に高め、確固たる地位を築くことが先決だと考えたのだ。

 そうすれば、今よりも発言権を得ることができるはずだと思った。「平山瑞穂」の名前だけで本が一定量売れるという既成事実を作りさえすれば、作品の方向性を純文学寄りに転じたとしても、版元もむげに「これでは出せません」とは言わないはずだ。今は臥薪嘗胆のときで、いずれはもう少し、書きたいものを書きたいように書ける立場になるはずだと。

 ネット上のレビューなどを見ていても、遅くとも二〇〇八年くらいまでは、「平山はいつになったら、『ラス・マンチャス通信』のような作風の小説をまた書いてくれるのか」といった声が散見されていた。そうした「待望論」のようなものに、勇気を与えられてもいた。なんといっても、それが僕の原点であり、本来ならそこから敷衍する形で自分の作風を構築していきたかったのだから。

 しかし結局、その後もめざましい実績を残すことはできないままいたずらに時が過ぎ、僕のデビュー作のことはいつしかほぼ忘れ去られてしまった。そして二〇一〇年代のなかばあたりから、僕は新作を出すことが目に見えて困難になっていった。

「純文学としてはウェルメイドすぎる」

 そんな中、生き残りを賭して僕が試みたのは、活動するプラットフォームを自ら転換することだった。伝手を使って、純文学系の文芸誌(それは、かつて新人賞応募の常連となっていた雑誌たちでもある)の編集部につないでもらい、純文学のつもりであらたに書き起こした短篇などを読んでもらったのだ。

 エンタメ小説家として本を出しつづけることはむずかしくても、河岸を変えれば、いわばボクシングからRIZINなどの総合格闘技に鞍替えするような形で、「再デビュー」することが可能なのではないか。「売れてナンボ」のエンタメ文芸と違って、純文学という土俵なら、作風を評価されさえすれば、細々とでも作品を発表しつづけることができるのではないか。

 ところが、その結果は無残なものだった。純文学系文芸誌の編集者たちは、僕が送った原稿について、口を揃えてこういう趣旨の講評を述べ、掲載を却下した。すなわち、「純文学としてはウェルメイドすぎる」(「ウェルメイド」とは、商業ベースでの「できのよさ」を意味する言葉)、あるいは、「説明過剰で、予定調和的な側面が強すぎる」。

 これにはすっかり打ちのめされ、しばらくは立ち直ることができなかった。

 もともと生粋の純文学志向であったにもかからず、十数年、エンタメ文芸の領域内で揉まれてきた中で、僕はいつしか、「純文学の書き方」を忘れてしまっていたのだ。明瞭な起承転結を重んじ、「わかりやすさ」を尊ぶエンタメ文芸の流儀にすっかり浸りきり(あるいは、言葉は悪いがそれに「毒され」)、無意識のうちにそのスキルを作中にちりばめてしまっていたのだ。指摘を受けて原稿を直そうとしても、どこをどう直せばいいのかがもはや僕にはわからなくなっていた。

「入口」はまちがえてはいけない

 僕のこの経験からいっても、小説家デビューする際の「入口」は、ゆめゆめまちがえてはいけないということだ。

 もっとも、僕の場合、では日本ファンタジーノベル大賞に作品を応募しなければ、はたして小説家としてデビューできたのか、という問題がある。純文学系の新人賞に何度応募しても受賞できなかったのは、純文学作家としての資質にもともと不足があったのだと解釈することも可能だ。

 それに、これだけは声を大にして言いたいのだが、結果として、日本ファンタジーノベル大賞が僕にとっての作家デビューへの突破口になったということを、僕は決して悔やんでいるわけではない。

 純文学系の新人賞への応募で行きづまり、踏み惑っていた僕を見出してくれた下読みの人々、選考委員の方々や、あのセールスしにくい作品をどうにかしてエンタメ作品として世に出すための道筋をつけてくれた担当のGさんなどに対しては、今もって感謝の念に堪えない。彼らの計らいがなければ、そもそも僕は小説家としてデビューすること自体がかなわなかったのだから。

 問題は、そうしてデビューを果たしたあとの僕が、自分自身のハンドリングを必ずしも的確には運べなかったという点にあるのだ。

 だからこそ僕は、後続の人々には、同じ過ちをくりかえしてほしくないと切に望むのである。僕がそうであったように、状況によっては、「入口を選ぼうにも選べない」ということもありうると思う。しかし、そうしてなんらかのチャンネルを通じて小説家デビューを果たしてから、「これは違う、この流儀は自分向きではない」と感じたなら、その時点で、自分のその気持ちに素直に従うことを躊躇なく検討してみてほしい。すみやかに土俵を替えれば、まだ間に合うかもしれない。

 いやしくも作家デビューできているという時点で、そうではない人よりははるかに有利な立場にあるはずだ。担当編集者に率直に思いを告げて、(たとえば僕のように、エンタメ小説家としてデビューしていながら、純文学のほうが自分には合っていると思うのなら)純文学を担う部署に所属する別の編集者などに紹介してもらうという手だってあるのだ(もちろん、純文学からエンタメへ、という逆のルートもありうる)。

 ミスマッチを放置していても、その先に待っているのは悲劇だけだ。(続く)

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