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人が人を食べること―僕という心理実験25 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmid

妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

過去の連載はこちら。

第2章 日本社会と決定論⑰―正義がないなら悪もない

食人文化


人が人を食べること。映画『ヒカリゴケ』では名優、三國連太郎がその様を、異常な目で怪演している。極限状態の人間を、ここまで演じ切ることが出来る三國は天才だとしか言いようがない。不遇な幼少期(支配階層の男性による母の性的搾取と、救ってくれた育ての父親の被差別の辛苦)の経験が、この目の実現の背景にあったことが察せられる。彼は人間の醜さに絶望し、本当の意味で憤った経験があったのだろう。哀しいが人は醜い。
 
一番優しい目は、死んだ目のことだと思う。だからその目を愛せ。
 
食人は現代の日本人にとってはあってはならないおぞましい行為に感じる。しかし、戦中まで食人文化を持っていた部族は世界中のあちこちにあった。有名な事例では、パプアニューギニアのヒマカベ族が日本人を食べたことがあるという記録が残っている。大森貝塚の縄文人にも、食人の痕跡があるとエドワード・モースは指摘している。ただし当時のお雇い外国人は日本人への差別意識もあり、彼の言説をそのまま受け入れるべきかどうかは議論の余地がある。
 
一方で、農耕以前の人類には世界各地で人間を家畜化していた痕跡と、食人の痕跡が見つかる。ホモサピエンスになってから、脳の構造や容積に爆発的な違いは起こっていないとされているから、現在の日本社会を構成している我々日本人も、一皮剥けば、人を食べるような人間なのかもしれない。もちろん、極言は禁物であるが。
 
アダルト専門サイトの“FANZA”で「誰が見るんだろう……」と思ってしまうような作品が多数あるのは、我々の脳が依然として人が人を飼うことを求めていることを意味しているように思ったりもする。女たちと男の一部は、そういった世界に絶望しながらも、正しくあれない自分をただ貶め続ける。

正義がないなら悪もない


ブラックジャックは「正義か そんなもんは この世の中にありはしない」と断言している。手塚治虫ほどの人間だ、おそらく彼は同時にこう思っていたはずだ「悪か そんなもんは この世の中にありはしない」と。特に、火の鳥『ヤマト編』には「悪もまたない」と言う彼の信念が作中に打ち付けてあるように思う。
 
論理の一方の端だけを主張してはならないと思う。一端が成立する論理は、その反対側の端もまた成り立つ。能力や努力によって誰かを尊敬することが、その不足を理由に誰かを蔑むことと同義であるのと同じように、正義がないなら悪もまたあってはならない。
 
ここで注意が必要なのは、論理的思考の結果、正義も悪も無いことが事実だったとしても、この世界において安心安全な社会を成り立たせるためには、ルールが必要だということだ。社会の構成員であるならば、そのルールには従う必要がある。思想と法は異ならねばならない。社会を安定して安全に維持するために、悪は罰せねばならない。そういう意味で、法の下には悪と正義は確実に存在している。

この思想と社会制度の二重スタンダードは、常に意識しておいてもらわないと、あなたは犯罪者として逮捕されてしまうだろう。(ただし、逮捕されたとしても、心から後悔し、ただ一人で苦闘する時間を過ごした者は、また愛されるべきだ。)
 
ブッダは、世界には「真実の法」と「方便の法」があり、その二つをともに大事にせよと説いている。方便の法とは、簡単に言えば社会倫理規範や法律である。真実の法とは、物理法則や自然法則、心の自然法則(すなわち心理学)と考えてよいだろう。

自己の悪魔を愛する

アインシュタインは、自然法則は最終的に「愛」に収斂すると結論づけている。それはトルストイの到達点と同一だった。”God is love.” 大昔、仏教はそれを「空」と名づけた。それらは言葉が異なるだけで同一の何かだ。
 
ジャイアント馬場はそれを「王道」と名づけ、三沢光晴はそれを方舟「NOAH」と呼んだ。アントニオ猪木は「闘魂」と呼び、棚橋弘至は叫んだ。「愛してま〜〜〜す!」
 
そして複数の名前を持つ「それ」を、少しでも多くの人にもたらす方法が、方便の法なのかもしれない。二つの法が共に大事なのだ。どちらかがより優先されるという訳ではない。
 
だが実際は、愛するほど悪魔に出会ってしまう。結局、他者の中の悪魔を愛すること。そのために、自分の中の悪魔を自分の“多様性”として、心の中に優しく居場所を作ってやること。これを実現するしかないのだろう。悪魔から逃げない。他者の悪魔を誹るのではなく、自己の悪魔を愛す以外に道がない。そのためにこそ、ルール(方便の法)を破らないように日常を過ごすのだ。逃げずに一人で。
  

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

善人よりも悪人の方こそが往生を遂げられる存在であるとする、親鸞の悪人正機説。ただの危険思想だろうか? 何が「正しい」のか。人間はそもそも「正しい」状態になどなれるものなのか。問い続けても答えは出てこない。
 
もしどうしてもやり場のない怒りが込み上げて眠れない夜が続くなら。その気持ちを文章、絵、演技、写真にして、世界に芸術として表出してみてほしい。三國がそうしたように。あなたの怒りと哀しみが本質であればあるほど、その表現は美しいはずだ。美とは“大きい羊”を意味している。羊は犠牲の象徴とされる。つまり“大いなる自己犠牲”だ。

死にたいほど辛くても、死ねずに闘う人が沢山いた。今もいる。その連綿とした営みの中に、ずっと昔から愛されていた自分を見つけた。僕は美しくなれると思った。

おかえり この素晴らしい世界へ


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