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学校に行かなくても、友達がいなくても、最高に幸せな子もいる―岡嶋裕史著『大学教授、発達障害の子を育てる』

上の記事に続き、本文の一部公開です。

多様化したのはいいけれど……

 ぼくは学校が嫌いだった。

 そもそも人が集まるところが嫌いだったし、人前で話すなどという行為は何の拷問だろうと今でも思う。

 今の発達障害の子は、大変だろうなと思う。

 ぼくが少年時代を過ごした頃よりも、日本の社会のポストモダン化はずっと進んでいる。みんなが同じ価値観を信奉していた時代から、一人ひとり信じるものが違ってもいい方向へ舵を切っている。

 高偏差値大学や大企業に行くばかりが人生ではないとか、恋愛対象も異性でなくてもいいし、子どもも作っても作らなくてもいいし……と、30年後はそうなってるんだって、ぼくの小学校の担任に言ってやりたい。ほーらねって。あと30年もすれば、恋愛対象としての二次元女子もきっと市民権を得るだろう。いや、それはそれとして。

 価値観の多様化によって、障害児は恩恵を受けている。ぼくが子どもの頃は、学校教育の現場の先生だって、明らかに障害児を劣った存在として扱い、振る舞っていた。でも、今は(少なくとも表面上は)そんなことを大っぴらに言ったら懲戒ものである。まあ、実はけっこういるけど。

 障害も個性、ということで、お互いに認め合って生きようとか、社会に居場所が少し増えた(ただ、この考え方は嬉しいこともある反面、ちょっと怖いと思う点もある。個性なら配慮や援助をする必要はないでしょ、と言われたりすることがあるのだ。もちろん、障害があっても自助努力することは大事で、最初から他人にもたれかかった生き方をしてはいけないと思うが、やはり目や耳が不自由だったり、発達障害を抱えていたりというのは、髪の色が黒かったり金髪だったりするのとは、ちょっと意味合いが異なると思う)。

 でも一方で、多様化した社会は、その成員に高いコミュニケーション能力を求める。自閉スペクトラムの子にとって、最も得がたい能力である。私も企業に勤めていた時期は、「コミュニケーション能力が必要です」などと企業説明会で学生相手に吹いていた。お前はどうなのだと突っ込まれたら、釈明のしようがない状況である。

 大学に転職したときも、採用のプロセスで模擬授業などが課されなかった最後の世代だろう。昔の大学教員はとにかく著書や論文さえ書いていればよかった。模擬授業などやった日には、コミュニケーション能力がないのが丸わかりである。運が良かった。

 価値観が一様だった社会では、人と会ったら仕事の話でもしていればよかった。それでなければ、結婚か子どもあたりの話題でOKだった。みんな結婚するし、みんな子どもをもうけたので、話題として成立したのである。

 でも、今そんなことをしてしまったら、まごうことなきパワハラとセクハラととにかく何かのハラスメントのトリプルコンボである。結婚しない人も、子どもを持たない人も、二次元女子しか愛せない人もたくさんいるので、何かを絶対的に正しいと信じ込んだ発言は御法度である。その発言の方向性が、相手の信じているものと違った場合、容易に事案になる。

 現代の会話は無尽蔵の地雷が埋め込まれた荒野を征く行為である。常に相手の好みや反応を取得し、軋轢を起こさないように会話の針路を調整しなければならない。そのためには信じる神も、好きな食べ物だって変えてみせる覚悟が必要だ。コミュニケーションにかかるコストはものすごく高くなったのだ。

 これ、発達障害児には無理だろう。

 いや、定型発達の子にだって難しい。だから、今のいじめの大多数はコミュニケーションに起因して起こっているし、企業も採用において学歴よりも学習歴よりもバイト歴よりもコミュニケーション能力を重視する。こんなにはかりにくい能力はないのに、大変なことである。

 一昔前は、コミュニケーション能力の低い人には(別に発達障害でなくても)、それに向いた職業がそれなりの分量で存在していた。職人とか技術者とか大学教員とか。

 でも、今はコミュニケーション能力なしの天才肌の職人とか、なかなか成立しないだろう。コミュニケーション能力がなければ芸術家も作品が売れないし、大学教員も競争的研究費が取れない。発達障害児の砦である福祉就労でも、早晩コミュニケーション能力が強く求められることになるだろう。人とやり取りするのが苦手な人には、生きにくい状況になったのだ。

学校に行かなくても、友達がいなくても、最高に幸せな子もいる

 学校が好きではない子は、どうすればいいだろう。

 本人が幸せなら、何でもいいとは思うのだが、幸せの定義がぼくにはよくわからないし、そもそも自閉スペクトラムの子は自分が今幸せかどうかをうまく表現する力を持たない子も多いので、本人に聞くのもうまくいかない。

 だから、これは個人的な話だと思って欲しい。

 ぼくはとても幸せな子ども時代を過ごした。

 学校は朝起きるのが嫌だったし(だから、大学は好きだった。午後からの授業だけでも卒業できるからだ)、ちょっと考え事をしているうちに授業は終わってしまっていて(数少ない友人が、先生の質問に一つも答えなかったので、後で職員室に行くことになってるぞと教えてくれた。質問された記憶はない)、それだけでもへとへとになるので、崩れ落ちるように家路を急いだ(放課後に学校に残ってクラブ活動をする子たちの体力とメンタルが、同じ人間のものとは思えなかった)。

 端から見れば、あんまり幸せそうな子には見えなかったはずだ。

 正面切って、眉をひそめる大人もいたし、分別があって「これも多様性だよね」という態度が取れる大人も、その視線には同情と憐憫が絶妙にブレンドされているのがふつうだった。少なくとも、「うちの子もこうさせたい」と思うような子ではなかった。

 でも、ぼくはこの上なく幸せだった。

 どの本の中にも、無限の世界があった。零戦のスペックは11型も21型も32型も22型も、22甲も52も52甲も52乙も52丙も53も54も62も63も64も、図面(現存していない型もあるが)も含めて今も頭に入っている。

 11型と52型の差分を頭の中で反芻する作業は、何回繰り返しても飽きないし、楽しい。ぼくは絵心がないのでアウトプットができないが、翼端が切り落とされていない12メートル幅の初期型零戦のシルエットは、生まれてきたことを、信じてもいない神に感謝してしまうほど繊細で優美で、記憶の中のその曲線をなぞっているだけで、日が暮れたり夜が明けたりすることもある。機内モニターのないLCCにスマートフォンを忘れて乗っても、まず退屈することはない。きっと涎も垂らしているだろうし、端から見たらさぞ気持ちの悪いおっさんに見えることだろう。

 ゲームも極上の体験だ。ぼくは15歳から19歳までの5年間が人生の盛夏だったと思っている。あんなに楽しい期間は、もう二度と訪れないだろう。ぼくはこの5年間をほぼ「大戦略」に捧げた。戦術級もしくは作戦級の陸戦シミュレーションゲームである。

 迫り来る敵の大兵力を相手に、寡兵で航空支援なしで機動防御しなければならない作戦を考えるなんて、震えるほどの多幸感を味わえる。

 偏食だったので、鮭と永谷園のお茶漬けだけで数年過ごしたこともある。飽きないのかって? 飽きるわけがない。鮭は毎回毎食表情が違う。同じ切り身パックに入っているからといって油断ならない。噛むごとに異なる味覚がほとばしる。お茶漬けの素は、人生の大半をともに過ごした戦友だ。

 物心ついたときから、「この子はしょっぱいものが好きだから、いつか腎臓病になる」と言われ続けた。実際、そうなのだろう。概ね、3袋を同時に投入してかき込む。熱いのも冷たいのもいい。お湯も煎茶もいいが、ほうじ茶も捨てがたい。ただ、先月いつも通り3袋を同時に投じたら、気分が悪くなった。歳をとるとはこういうことか。今は2袋にしている。それでも、目眩がするほど幸せだ。

 固い食べ物や冷えた食べ物もいい。米は固ければ固いほどおいしい。お惣菜などを買うときに温めてくれるお店もあるが、「余計なことしちゃ嫌」と思う。口に出すほど勇気はないけど。

 友だちはいなかったが、そもそも欲しくなかった。友だちというのは、たまに間違ってできると何かと時間を取られる。定型発達の子はそこに時間を投じるのが嬉しいのだろうし、それはいいことなのだろうけれど、こちらは慢性的に睡眠時間を削って読書とゲームをしているのである。そこに時間を割くのはあまりにももったいなくて、何かの集まりなどに誘われても「もったいない感」が顔に出てしまって二度目には呼ばれなくなる。

 それでも、あまり好きになれないタイプの人だと、そこそこ知人関係が長持ちすることもある。尊敬できるような人は、軽蔑されるとがっかりするので(自分のコミュニケーション能力に微塵も自信や幻想を抱いていないので、付き合いが長くなるとどんな人にも軽蔑される自信がある)、早めにこちらから立ち去るのだ。そうして、万難を排して作った一人の時間は、成層圏から見る極光のように美しい。

 だから、周囲から見ると、どんなにつまらなそうに見える子でも、不幸なのかと心配になる子でも、内なる王国を持っているかもしれないのである。表情がなくても、学校からすぐに帰ってきてしまっても、友だちが1人もいなさそうに見えても、一つのものしか食べられない子でも、本人はめちゃくちゃ幸せなのかもしれない。

 同情や介入は、(それがたとえ本人の社会性の助けになるとしても)その幸せを潰してしまうかもしれない。少なくとも、周囲の大人はその可能性を念頭においておくべきなのだろう。■


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