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【第37回】「ハイブリッド戦争」は何を導くのか?

■膨大な情報に流されて自己を見失っていませんか?
■デマやフェイクニュースに騙されていませんか?
■自分の頭で論理的・科学的に考えていますか?
★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!

いかに低コストで最大の効果を得るか

アメリカの「マンハッタン計画」は、約3年間に総計22億ドルの経費をかけて、ピーク時には12万人の科学者・技術者・労働者をつぎ込んで、原子爆弾を完成させた。この計画に関わったノーベル賞受賞者だけで21人にもなる。

1945年当時のアメリカは、第2次大戦で最も多くの犠牲者を出して疲弊したソ連が同じような計画で原爆を開発するためには、15年から20年かかると予測していた。つまり1960年代まではアメリカが唯一の原爆保有国に相違ないと想定して外交政策を進めていたが、ソ連は1949年8月に核実験を成功させてしまった。その理由は『フォン・ノイマンの哲学』(講談社現代新書)で詳細を説明したように、ソ連が原爆の機密情報を入手したからである。

その機密を漏らしたのは、ノイマンと原爆の特許取得関連の最高機密書類を共同執筆するほどまでに上層部に潜入していた物理学者クラウス・フックスだった。彼はイギリスで逮捕されたため死刑にならず、1959年に東ドイツに引き渡されて、ドレスデン工科大学教授に就任した。そこで中華人民共和国の留学生に原爆製造方法を教えたため、中国も早期に核兵器を開発できた。

このスパイ活動によってフックスがソ連から得た報酬は、400ドル余りの経費にすぎない。彼は「筋金入りの共産主義者」であり、そうすることが人類のために正しいと信じて、共産主義圏に原爆の情報を流したのである。もし彼の存在がなければ、その後の世界の冷戦構造は完全に異なっていただろう。

本書の著者・廣瀬陽子氏は、1972年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科修了。静岡県立大学・慶應義塾大学准教授などを経て、現在は慶應義塾大学教授。専門は国際政治学・比較政治学。著書に『強権と不安の超大国・ロシア』(光文社新書)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)などがある。

さて、1991年12月にソ連は崩壊した。2019年度の軍事費は、世界第1位がアメリカの7,318億ドル、第2位は中国の2,611億ドル、第3位はインドの711億ドル、第4位はロシアの651億ドルである。かつて世界を二分した冷戦構造からは想像もできないが、現在のロシアの軍事費はアメリカの1割に満たない。ちなみに日本の防衛費は476億ドルで世界第9位となっている。

だからといって、低コストで最大の効果を得ようとするソ連時代からの伝統が消え去ったわけではない。2014年の「ウクライナ危機」に際して、「北大西洋条約機構(NATO)」のオランダ少将フランク・カッペンは、ロシアが「ハイブリッド戦争」を遂行していると表現した。これは軍事的正規戦に加えて、サイバー攻撃やプロパガンダによる情報戦、フェイクニュースを用いた心理戦、テロや犯罪行為など、あらゆる非正規戦を組み合わせた「戦争」を指す。

本書で最も驚かされたのは、2016年だけでも1月にドイツで偽ニュース拡散によるメルケル首相攻撃、6月にイギリスのBREXIT国民投票介入、10月にモンテネグロ首相暗殺とクーデター未遂、11月にアメリカ大統領選挙ではトランプ氏を支援しクリントン氏を攻撃、11月にモルドバ大統領選挙介入と、スパイ映画を遥かに超えた「ハイブリッド戦争」が現在進行中ということだ。

本書で綿密に分析されている目的のためには手段を選ばないロシアの国家戦略を知ると、日本の危機意識があまりにも希薄だと憂慮せざるをえない。


本書のハイライト

今この瞬間に日本の中枢がハッキングされ、日本中の電気が落ち、真っ暗になり、大混乱に陥る可能性も否定できないのである。しかも、中国や北朝鮮、イランなども、ロシアと並んでサイバー攻撃の近年の主要アクターとなっているし、個人レベルも含む、潜在的な敵は無数にいると言ってよい。ハイブリッド戦争の脅威はつねに存在していると考えるべきだろう(p. 334)。

第36回はこちら

著者プロフィール

高橋昌一郎_近影

高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。

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