【#18】真昼の怪談はお好きですか
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【#18】真昼の怪談はお好きですか

嬉野珈琲店へようこそ。
マスターは大の珈琲好きである「水曜どうでしょう」カメラ担当ディレクターの嬉野雅道さん。店ではこだわりの珈琲を淹れながら、マスターが人生のあれこれについてじっくりと語ります。マスター独特の視点から語られる、胸に詰まった息がすっと抜けるお話――。本日はエスカレーターに潜む妖怪についてお話です。

駅のエスカレーターは見えないはずのものが見える場所

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日本中の駅のエスカレーターの片側が、今のようにてっぺんまでガランと空けられるようになってから、いったいどれくらいの年月が経つだろう。そもそも駅のエスカレーターがあんなふうに使われはじめたのは、いつからなのだろう。覚えている限りでは、ぼくが東京で暮らしていた25年ほど昔には、エスカレーターはあんな使われ方はしていなかった。

しかし、10年ちょっと前には、エスカレーターは、もう今のような使われ方をしていたす。不思議に思ったぼくは、そのころ会社の若手に「どうして片側を全部空けるのだろうね」と聞いてみた。すると若手はこともなげに言った。

「あぁ、あれは急いでいる人のために空けておくんですよ。エチケットじゃないですか?」と。彼には何の不思議もないようだった。

だけど、エチケットくらいのことでエスカレーターの片側をあそこまで空けるなんてことを、人は、本当にするだろうかとぼくは怪しんだ。

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だって、まるで、みんなで示し合わせたように見事なまでに片側をてっぺんまで全部ガランと空けてしまうから、エスカレーターは片側一列分しか人を運べなくて、運べる人数は半減するし、そのぶん片側の一列にだけ人が並び続けるから、電車を降りた人たちがエスカレーターの前で長蛇の列を作ってしまってホームには人が溢れてしまうほどだ。あんな状況を来る日も来る日も作っているその理由が、エチケットなのだろうか。

さすがに列が長くなり過ぎると、「こんなに長くなった列の後に並んではいられない」と、ようやく人々はエスカレーターの空白の方に足を踏み入れるが、誰ひとり立ち止まることなくエスカレーターの階段を音を立てながらてっぺん目指して上がって行くのだ。

エスカレーターを階段のように上がって行く彼らは、全員、仕方なく上がって行く人たちだ。だから、うちの若手が言っていた「急いでいる人たち」ではもちろんない。彼らだって仕事帰りなのだから疲れているはずだ。本当ならエスカレーターに乗って、そのまま上まで運んで欲しかっただろう。けれど、今は仕方なく歩いて上がっていく人々になっているのだ。

エスカレーターなのに階段のように上がって行くなんて実に不合理だ。でも、あのエスカレーターの空白の側には何か立ち止まってはいられない理由があるようなのだ。だから、あの空白の側に踏み込んだ人たちはてっぺんにたどり着くまで気が気ではないのだ。なぜだか、どうしても今にもこの空白をなにかが上がってくるかもしれないと思えてしまい、立ち止まるのが躊躇ためらわれて、まるで見えない何かに急かされるように、どんなに疲れていても、その場に立ち止まるよりはエスカレーターを階段のようにてっぺんまで上がっていくほうが気が楽だと思ってしまうのだ。黙って立っているだけで自動的にてっぺんまで運んでくれる機械に乗っているというのに。

駅のエスカレーターの片側に出来た空白は、そんな空白なのだ。そんな奇妙なものがエチケットとかの思いやりで作られているはずはない。強いて言うなら、あれは何かしら見えない恐怖が、ぼくらに作らせる空白に違いないのだ。要するにあそこはもう、人間が立っていられるような場所ではないということだ。

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見えない恐怖の正体は何か

あのエスカレーターの空白に、ずっと突っ立ったまま、てっぺんまで運ばれて行く人を、ぼくはもう長いこと見ない。いったいどういうことなのか。

あの空白は本当に、急いでいる人のために空けておかなければならない場所なのか。だとしたら現実に「急いでいる人」が現れてから「すみませんが急いでいますので」と後ろで言われたとき、「はい。あ、どうぞ、どうぞ」と身体を少し避けて、もちろん、かなり体はこすりあう感じにはなるけど、急いでいるというその人に銘々めいめいが道を譲ってあげれば、それで十分ことたりる気がするのだ。だって、そんなに急いでる人をほとんど見ないのだから。だが、いつのころからか駅のエスカレーターには、肝心の、のっぴきならない理由で急いでいるという人が登場しなくても、てっぺんまで続く長い空白が常につくられるようになってしまった。

いったい、あの空白はなんだろう。あの空白は、本当はなんのために空けられている空白なのだろう。なぜぼくら日本人は、駅のエスカレーターの片側をあそこまで空白にしているのだろう。

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わたくしごとだけれど、ごく稀なことなのだが、旅の疲れからか、うっかりあの空白にぽつんとひとり立ち尽くしてしまっているときがあった。疲れていてついぼんやり立ってしまったのだ。そのとき、いつの間にか、ぼくのすぐ後ろまで上がってきた人がいて、その人は、聞こえよがしになのか「チッ」と舌打ちをしているようだった。それに気づいて、あ、そうか、そうかと、そこからぼくもエスカレーターを階段のように上りはじめた。

たしかに、そんな風に妙に無言の圧力をかけてくる人も稀には居るが、その人も別に急いでいるようには見えなかった。だったら、そんな、ごくたまにしか現れないような、そして現れたとしてもただ無言で圧力を出す程度の人たちのために、わざわざエスカレーターの片側をあそこまで空白にしているとは思えない。

たとえば、車道にまったく車が走っていないからといって車道の真ん中に出て、車道を歩こうとする人はいない。それはいつ車が高速で走ってくるか分からないから、そんな危険なことをする人はいないというのが理由だ。

もちろん、あのエスカレーターの空白に突如として何かが高速で通過して行くようなことはないから、車道を歩くような危険はもちろんないけれど、でも、何か危険を避けているという意味においては、それに近い判断があってぼくらはあの空白を作っているのかもしれない。

そして、そこで思い浮かぶのは、エスカレーターのあの空白は、そもそも人間のために空けられた空白ではないのかもしれないという予感だ。

ひょっとするとあの空白は、妖怪を通すための道ではないのかと、ぼくは思うのだ。

いや、ここでポカンとせずにもう少し聞いて欲しい。

もちろん妖怪の姿を見た者はいない。私も見たことはない。でも、たとえ見えなくとも、あなたもぼくも、そして誰もが同じように予感しているのではないか。「あそこを」「あのエスカレーターのてっぺんまで続く空白の部分を」「どうしようもなく面倒なものが通るのだ」と、いうふうに。

その予感をだれもが持っているから、だれ一人、あの空白の領域には立っていられないのではないか。だったらそれは妖怪ではないのか。

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たいした意味も見当たらないのにエスカレーターの片側を使わずに空けておくことは、とても窮屈きゅうくつだし、とても不合理だ。しかし、あそこを空けてさえいれば面倒な妖怪は通り過ぎて行くからたたられることもないと、ぼくらは思っているのではないか。ぼくらは妖怪に祟られることが面倒で堪らないから、妖怪さまがいつお通りになっても良いようにと、エスカレーターの片側に身を寄せるように立って、いつ現れるかも分からない妖怪のためにもう片側を空白にして妖怪に道を譲っているのではないのか。

それに、妖怪はエスカレーターにだけ出現するわけではない。もうすでに、この日本の社会のいろんな状況に現れてぼくらの日常に祟って久しいのだ。そう思うといろんなことが妖怪の仕業ではないのかと思えてくる。

妖怪に祟られるととにかく面倒くさい。話なんかまるで通じないから、死ぬほどうんざりする。だって理由もなくぼくらの前進を阻んで、なぜ阻むのか、その不合理を糾弾しても納得できるようなことは何も答えてくれない。そこに妖怪の存在を感じるのだ。だが、そんなことは妖怪の所業だと分かったところで、ぼくらはどうしても乗り越えられないのだ。

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妖怪社会でどう生きる

この社会が、そんなふうになってしまったのが、いったいいつからなのか、もうだいぶ分からなくなってしまったが、妖怪はもうそれくらいこの社会の至るところに潜み蔓延はびこっている。すでにかなりの数の人間の心にも入り込んでいるだろう。しかし、肝心の妖怪の姿がぼくたちの目には見えないから、ぼくが言っていることも今ひとつ説得力に欠ける話にしか聞こえないかもしれない。

でも、ぼくらはすでに、自分のことより妖怪のことを気にして生きているのは間違いない。それが駅のエスカレーターに出来てしまうあの空白だ。あの片側を必ず空けて、てっぺんまで空白にしてしまうのは、ぼくら自身なのだ。そうして、ぼくらは残った片側に窮屈に並び息を潜めて立っている。窮屈な思いを我慢してまで、なぜそうする方が良いのか、もう思い出せなくなった人も多いだろうが、でも、そうすることが妖怪のいる社会に生きる者の身の処し方だと、ぼくらは全員信じてしまっているのだ。

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つまり、エスカレーターの片側だけが、さしたる理由もなく、いつもてっぺんまで空白になっている光景は、その社会に妖怪が蔓延っている証なのだ。そういうことだとぼくは思う。駅のエスカレーターにいつも見る、あの空白は、だれにも見えなかったはずの妖怪の存在が、けもの道のように可視化された光景なのだ。ぼくらは、そう自覚してあの空白を見る方がいい。

そういう目であの空白を見て、妖怪の存在を自覚すれば、ぼくら一人一人が作り出しているあの駅のエスカレーターの空白は、ぼくら自身が発信し続けているぼくら自身への警鐘と見えて来るかもしれない。

「気をつけろ、この社会には妖怪がいるぞ」という。

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妖怪は、ぼくらの目には見えないから何処どこに潜んでいるのか分からない。けれど、妖怪は、オノレの思うようにならないすべてのことを憎み恨んで人に祟る迷惑極まりない存在だとうことは、ぼくらは全員もううんざりするほど知っているはずだ。そして妖怪には理屈など通じないことも。理を尽くして説明をしても妖怪は理解してなどくれない得体の知れない気味の悪い存在だとうことも。そんな得体の知れないものと下手に関われば、かかわるたびに、ぼくらの胸は塞がれてしまって、あとには、どうすることもできない無力感だけが残るということも。ぼくらはもう、全員、いやというほど知っているはずなのだ。

けっきょく、その無力感に祟られて、ぼくらは面倒なものに道を譲るようになったのだ。だから、あのエスカレーターの空白は日本人の諦めでもあるだろう。日本人は諦めたのだ。面倒なものにかかわるくらいなら、もう道を譲ってやればいいと。真剣にかかわろうとすると疲れるだけだからと。そんなふうに自分に言い聞かせて、ぼくらは全員、面倒な妖怪に道を譲って、自分から進んで窮屈な片側一列に大人しく並んで息を潜めて立っているのだ。そこで、面倒なものが過ぎて行ってくれるのをじっと耐えているに違いないのだ。

自分の頭で考えるのはやめました

面倒だけど、そっちの方へ立つ方が楽だから。だから進んで大人しく列に並んでエスカレーターに運ばれて行く方を選んでる。どんな強面こわもてなお兄さんだって、エスカレーターでは、やっぱりみんなと一緒に大人しく片側に並んで運ばれていると思う。なぜ、こんなことになっているのだろうと考えても、考えるだけ無力感を覚えるから、もう何も考えないで済ませる方が楽だからと、いつの間にか、そうやって考えないで済む方へみんなは立つようになったのだろう。もうどうしようもないから。そうしていつの間にか自分から進んで妖怪に道を譲ることが日本人の当たり前の生き方になってしまったのだと思う。妖怪にうっかり気を許したせいで、日本人はもう自分の頭で考えることが意味のあることに思えなくなってしまったのだろう。

つまり、ここ10年以上も日本に蔓延っている妖怪は、日本人に自分の頭で考えるのが無意味に思えるように仕向ける毒を吐く妖怪だったのだ。

だれもが、この社会に生きながら、「なんか、おかしいなぁ」とは、今だって思っているはずなのだ。でも、だからといって、それ以上考えたところで、考えて解決することなんかないからと、どうしても思えてしまう。だから、それ以上考えることはやめてしまう。それが妖怪の蔓延る社会の特徴かもしれない。

そして気がつくと、エスカレーターのあの片側1列に今日も大人しく立っている自分がいるのだ。でももうそれで良いのだ。あそこに立つ方が気が楽なのだ。面倒なものと対峙する煩わしさがないから。あそこに進んで立てば、もう面倒なものと向き合うことは考えなくて済むから。だからあの長い列を作る側にぼくらはいつも立ってしまう。考えたところで、何かがおかしいと思ったところで、これほど妖怪が蔓延ってしまえば、もう妖怪を相手に通じる話しの持って行き方など、見つかりはしないのだから。だったらもう考えないようにしよう。こっち側に立って頭を空っぽにしていれば、立っているだけで上まで運ばれて行くのだから。

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こうした日常の積み重ねの果てに、ぼくら日本人は、徐々に自分の頭で考えることをしなくなって行くのでしょうね。こうしてぼくらは、もう誰も「どうすれば妖怪を退治できるだろう」などとは考えなくなるのでしょうね。

いや、ぼくらはもうそういうことを考えなくなってかなり久しいのかもしれない。だから自分たちがどうしてエスカレーターの片側に、あれほどまでの空白を作っているのか、その理由さえ、もう皆目わからなくなっているわけなのですからね。

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それでも。ぼくらが毎日目にするあのエスカレーターの空白は、やっぱり、ぼくたち日本人の一人一人が、今も自分たちに向けて発信し続けている警鐘かもしれないですよね。

「気をつけろ。この社会には、妖怪がいるぞ」という。

やっぱり、そう思った方が良いのですよね。

駅のエスカレーターから空白が無くなるとき

このまま妖怪に道を譲っていては、この先も妖怪は蔓延ってゆくばかりでしょう。こんなに妖怪ばかりの社会になって、ここまで妖怪が歩きやすい社会になったんだから、もう自分も妖怪になった方がいいんじゃないかと思う人間だって出てくるかもしれません。いや、もう出てきているでしょうね。納得できる理由もないままに、ぼくらのやりたいことを阻み続けるような妖怪が蔓延る社会のままでは、おそらく国は良くはならないでしょうね。

だったら。せめて道を譲るのは妖怪ではなく理屈の通った真っ当な魂を持つ人間にこそ譲るべきと心掛けたいと思うのです。たとえば、だれに票を入れたらいいのかさっぱり分からない選挙だって、必ず投票所に出かけて行って、そして何にも書かないで真っ白な投票用紙のまま、そっと投票箱に投じるだけだっていいでしょう。政権交代なんかには何の影響もあたえないけど、多くの人がそれをすれば世代ごとの投票率は鰻上りです。そうなったらどんな政権も、その恐ろしい数の白票を投じる世代を無視することなんかもうできないことでしょうよ。

これまでやらなかったことをやる。妖怪はそんなことだけでも弱ってしまうことだってあるかもしれないのですからね。何もエスカレーターで妖怪と闘う必要などないのです。あそこは見えない妖怪の存在が期せずして可視化されているだけの場所なんですから。妖怪との闘いの場は、今やこの社会の全域にあるはずなのです。

いつの日か、駅のエスカレーターからあの空白が消えたとき、「あぁ、妖怪は、もういなくなったんだな」と、明るい声が出せるその日まで、やはりぼくらは諦めてはいけないのですよね。

妖怪VS人間。その構図になって久しいのが今という時代なのだと、ぼくは思うのです。
(次回は12月9日更新です)

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嬉野雅道(うれしの まさみち)
1959年生まれ。佐賀県出身。「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)のカメラ担当ディレクター。愛称は「うれしー」。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞優秀賞など多くの賞を受賞したドラマ「ミエルヒ」では企画を担当し、福屋渉氏とともにプロデューサーも務めた。「愛と平和と商売繁盛」「負けない」がモットー。どうでしょう藩士と奥様に人気。著書は『ひらあやまり』『ぬかよろこび』(ともにKADOKAWA)など多数。

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