見出し画像

動物とセックスをする人間(動物性愛者)―僕という心理実験26 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmid

妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

過去の連載はこちら。

第2章 日本社会と決定論⑱―対等であろうとする努力

濱野ちひろ『聖なるズー』

どこまでの多様性を認めうるのか。例えば動物とセックスをする人間、動物性愛者と呼ばれる存在はどうか? 人間が犬や猫といった動物と性交すること。異常な行為だと聞く耳を持たずに断罪し、自分から遠ざける人も多いだろう。
 
『聖なるズー』の著者、濱野ちひろは男性から10年にわたる暴力の支配を受けて来たことを開示している。その支配から逃げることが出来なかった自分を後悔し、人間としての弱さを恨んだと綴っている。
 
濱野は著書の冒頭で言う。

「私には愛がわからない」
 
彼女は、京都大学の大学院で動物性愛をテーマに研究を行い、愛の本質とそこに繋がる問い「人間とは何か」「心とは何か」について考え続けた。動物性愛の当事者たちから丁寧に話を聞く中で、パートナーと呼ぶ犬や馬と、愛が育まれていると思える“カップル達”の存在を彼女は知っていく。
 
人間同士でも意志の疎通が取れていないセックスをする者は多くいる。動物との意志の疎通が取れている(と少なくとも本人は強く信じる)セックス。本当に愛と言えるのはどちらだろうか。どちらが美しい行為だろうか。
 
濱野は、愛には“関係性の問題”と“性の問題”があると指摘する。皆さんは変に達観して大人ぶらず、愛と性について本気で考えたことは果たしてあっただろうか。パートナーの過去をどの程度許せるだろうか。セフレという概念は是だろうか、非だろうか。動物性愛者に対して寄り添い、話を聞くことはそれらの質問と大差があるだろうか?
 
彼らを心の病気だと言う人もいる。百歩譲って“病気”だったとして、それの何が悪いのだろう? 逆に聞きたい、「私たちの手にはいつでも心がこもっていたか?」
 
ナチスドイツは、同性愛者を迫害し拷問した。性風俗産業に携わる女性を投獄し殺した。一方で、アーリア人の異性愛者同士の結婚と出産は推奨した。それが“正しい愛”だと、彼らは言った。
 
ヒトラーには射精障害があり、自己の男性器に幼少期から強いコンプレックスを抱いていたという研究が存在する。そして同様に自身の足と歩容に、強いコンプレックスを持っていたナチ党国民啓蒙大臣のヨーゼフ・ゲッベルス。ナチスの鬼畜・非道の源泉も、突き詰めれば個人的な「悲しみ」であり、拾われなかった寂しさに対する怒りだったのではないだろうか。
 
いわゆる「普通の愛情表現」を受け入れてもらえない人。自分の情報を軽んじられ、誰の脳内にも自身のコピーを取ってもらえない状態に人がなった時。彼らには、悪事によって他者の脳内に強制的に自己の情報を残す以外に方法が無い。
 
濱野は、愛にとって「対等であること」はとても大事だと考えているようだ。動物性愛にはそれが成り立ちうるのではないか? 全ての動物性愛が動物虐待(暴力)では無いと、彼女は感じるようになったのではないか?

対等であろうとする努力

では、小児性愛には対等性が成り立つだろうか? 子供には判断力や情報が足りず、また自活する能力も抵抗する物理的な体力も足りないのではないか。だから、それは多様性の一つとして認められないのではないか。

子供には脳の成長に伴う判断力の向上がある。これは他の動物の成体と大きく異なる点だ。つまり未来に過去の判断を覆す権利を人間の子供は持っているのだ。だから、仮に過去に対等性を著しく否定されたとしても、いつか彼らは手助けされ、また毅然として歩き始める力(希望)を有する。
(それでも対等性を成り立たせることに命を懸けて取り組んでおり、それを証明出来るほど、その弱者を愛しているのであれば、世間はその人の愛の試みに耳を傾ける必要もあるのかもしれない。映画『レオン』で描かれた愛が、この世界に存在しうることも、イマジネーションの力で示されている。)
 
「対等であろうとする努力」は多様性の前提にもなる。

「多様性を認めないものを認める多様性」はどうあるべきか?という議論がある。価値観をアップデート出来ない者が差別発言をする権利は認めないのか。彼らの表現の自由は否定されるのか、と。
 
例えば高級ファミレスで奮発して頼んだアンガス牛のステーキの塩気が強すぎたことに腹を立て、
 
「シェフの走り込みが足りない! 喝だ喝!!」
 
と主張することは、個人的には微笑ましい。ただし、その意見に過度に公共性を求めてしまえば、それを愛らしく思えない人たちが現れるだろう。表現そのものの多様性と、その表現の公共性の問題は、また別に議論が必要になるだろう。表現に公共性があると主張すること(すなわち正義だということ)は、暴力なのだろう。
 
暴力は対等であろうとする努力の放棄であり、多様性の範疇に含まれない。(競技としてのボクシングやプロレスは除く。そもそもそれは暴力でさえないが、その価値観を社会の中で確立するまでには、苦節の歴史があった。)どんな理由があっても、暴力(言葉を含む)を発揮したならば、愛の場から去るべきだ(ダース・ベイダーを見習おう)。だがもし後悔し、防ぐ力を学び得た時は、また愛し合える。
 
あなたがあなたであって良い。どこまでそれを相手に伝えられるか。そのために、過去に犯した暴力を深く省みねばならない。濱野の考えを、私はそのように解釈し自省した。彼女は自分を殴り誹る者の絶望を、愛そうとして心が引き裂かれた。濱野は誰よりも愛を知っている。

金や権力に縛られて自分の心を殺して生きる人に「戦えないなら黙って泣いていろ! 強くあれないなら自分を保つ権利を失うのだ!」という言葉を、本当の意味で与えられるような “つよさ” がほしい。
 
他者の主観(クオリア)は直接得ることが出来ず、人間同士は分かり合えない。それでもわずかな希望を信じ、僕たちは対等性を求めようとする。作家、福永武彦は、これを「愛の試み」と呼んだ。その試みは極めて険しい道のりだが、挑み続けることそのものが、人を人たらしめる。

「彼は自己の孤独を代償として、相手の孤独を獲得したいのだ。」

福永武彦『愛の試み』より

(続く)


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!