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「都市か、地方か」の不毛な二項対立の思考には陥らないほうがいい理由|小松理虔

 編集部の田頭です。この光文社新書のnoteをフォローしてくださっていたみなさんにはおなじみ、小松理虔さんの連載「あいまいな地方の私」がついに一冊の書籍としてまとまりました。
 本書は、小松さんの体験や取材をもとに「地方」を読みとく「地方論」として書かれていますが、以下の10のキーワードをもとに、各章が独立する構成となっています。

・観光
・居場所
・政治
・メディア
・アート
・スポーツ
・食
・子育て
・死
・書店


 書籍化にあたっては全面的に加筆を施し、連載時とはちがった流れにしてみました。興味のある章から読んでもいいですし、順番に読んでいただければ、「都市」と「地方」を自在に往来する小松さんの思考の軌跡を追体験してもらえると思います。
 発売を機に、以下に「はじめに」を公開します。日常の言葉で、人はここまで深いところを言語化し、思考することができる。そんな本書の魅力を読みとっていただければ幸いです。

 地方都市に暮らしている立場でいうのもなんだけれど、コロナ禍でよく語られた「これからは都市を避けて地方だ」という言説になんだかモヤモヤする自分がいる。せっかく地方に住んでいるのだから「そうだ! 地方だリモートだ!」と乗っかるべきなのかもしれないし、ぼく自身、東京一極集中はよくないなあと思ってはいる。それでも「これからは地方!」という声にモヤモヤっとしたものを感じてしまうのは、そういう言説に「都市か、地方か」という、二項対立化されたわかりやすい構図が持ち込まれるからだ。

 ○○か、××か、というように分けてしまうと、その間にあるものが見えにくくなってしまう。都市にも、地方にも、いいところ、悪いところがあるものだし、「都市」も「地方」も、人が持つイメージや現実はそれぞれ異なるはずだ。人口100万人の大都市もあれば20万人の都市もあるし、周囲を山に囲まれた町もあれば工場に囲まれた村もある。「地方」と一口にいっても実態はとても多様で、複雑で、そしてあいまい。だからこそ魅力的なはずなのに、「都市か、地方か」なんて安直な構図で語ってしまってはいけないよなあ、とぼくは思う。

 本書は、そんな複雑で多様であいまいな「地方」をめぐるモヤモヤを書き綴った本である。「都市か、地方か」という構図からこぼれ落ちてしまうような地方の現実を10のテーマから論じている。書き手はわたし、小松理虔。福島県いわき市在住で、地域活動家・ローカルアクティビストを自称し、さまざまな活動、実践、発信を行っている。といっても、ぼくは研究者でもジャーナリストでもなく、地域の課題を丹念に取材し、文献を読み解き、考察して書くだけの力がない。それで、あくまで自分の身近にあるもの、地元の食べものとか、子育てとか、訪れた場所とか、休日の過ごし方とか、まさに自分の暮らしの周辺からテーマを選び、文章を書き綴ってみた結果、本書が完成したというわけだ。

 タイトルは『新地方論』。我ながらずいぶん大袈裟なタイトルをつけてしまった。読んでいただければすぐに(ほんとうにすぐに)わかると思うが、本書には最新の地方論が書かれているわけでも、これまでの議論をアップデートする学術的な考察が展開されているわけでもない。じゃあなにが書かれているかといえば、なんのことはない。単に「ぼくが新たに自分の目線で書いた地方論」である。自分が新たに論じた、ただそれだけでいいじゃないかと思うのだ。そう、「自分なりの地方論」でいい。「都市か、地方か」の間に広がるそれぞれの都市論や地方論を、本書を手に取った皆さんにも自由に論じてほしい。そんなメッセージをタイトルに込めたつもりだ。

 本書を読んだ結果、それぞれの「地方観」が揺さぶられて、あるいはなにかが飛び火して、自分なりの、あなたなりの「新地方論」を立ち上げることにつながったら嬉しいし、ぼくはそういう営みの先に、自分なりのローカルな暮らしが形づくられるのだと思っている。なぜそう言い切れるかというと、ぼくがそうだからだ。「地方」とは自分にとってなんだろう。では「都市」とはなんだろう。目の前の暮らしのどこからヒントを得て、どう思考を重ねていけば、いま自分がいる地方をおもしろいものとして考えられるだろう……。そんなことを考え、他者と関わり、自分の関心のあるところから地方の解像度を上げていったら、いつの間にか地方での暮らしが以前よりも圧倒的に興味深いものになったのだ。本書はその軌跡を書き綴ったものだともいえる。

 本書に書かれた文章は、もともとは光文社新書のnoteに連載されていたものである。連載時のタイトルは「あいまいな地方の私」というものだった。地方というものは人によって捉え方がちがう。地方や都市の定義もとてもあいまいだ。あいまいだということは、いかようにも定義づけられるということだし、自分で定義しちゃってもいい、ということでもある。だれかの語る「都市か、地方か」に乗っかるのではなく、自分なりのローカルな暮らしをつくることが大事だと考え、自分なりに思考し、実践してきたわけだけれど、それが、どこかべつの地域で暮らすあなたにも届き、重なり、どこか普遍的な「わたし」の話になっていけたらいいなという思いが連載には込められていた。その思いは『新地方論』と名を変えた本書にも受け継がれている。

 地方をめぐる議論ばかりではない。なんだか以前にも増して、お前は○○か、それとも××かということを突きつけられる時代になった。そして、世の中の課題が深刻になればなるほど、「正しいナントカ」があるような気がして、まちがったことは語ってはいけない、正しくそれを語らなければいけないというプレッシャーもまた強まっている気がする。そういう閉塞した空気を切り開き、自分の言葉を取り戻すために必要なのは、現場でのふまじめな実践だとぼくは考えている。「こうでなければいけない」という思いや、「こうすべき」をできる限り持たず、ただただ目の前の現場に立ち会い、そこで繰り広げられるものを、できるだけおもしろいものとして捉えようとしてきた。

 その意味で本書は「正しい地方論」ではないかもしれない。当然、読者に共感できるところもあればできないところもあるだろう。だが、それでいい。この本を、あなたが地方を、都市を、あるいはローカルを考えるときの「たたき台」にしてもらえたらうれしい。もちろん、共感してもらえたらもっとうれしいけれど、それ以前に、もっともっと多くの人たちに、いま住んでいる地域や、大好きな土地のことや、ふるさとのことを語り、論じてほしいのだ。

 土地について思いを馳せ、語ろうとするとき、目には見えないけれど、ぼくたちと地域を結ぶ思考の回路がギュンっとつながる。その回路を太くするのが、その土地のうまいものや地酒だ。うまいものが傍らにあると思わず話が弾んで、その土地に行ってみたくなったり、味わいたくなったり、家族や友人やお世話になっている人の顔が思い浮かんだりすると思う。この本も、そうありたい。

 ただ、うまい食いものも、うまい酒も、口にしてみなければほんとうの味はわからないし、その味を語ることもできない。本もまた似たようなものだ。読んでみなければ、その味も、食感も、のどごしもわからない。高級店の味とまではいかないかもしれないけれど、地方に転がる素材を最大限に生かし、モヤモヤのダシを存分に利かせて仕上げたつもりだ。どうぞ皆さん。最後の一節まで味わっていただきたい。


※『新地方論』は、10のテーマで小松さんが実際に見聞きし、体験した「地方」のいまを考えます。詳しくは、以下の目次をご参照ください。

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目次

著者略歴

小松理虔(こまつりけん)
1979年、いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。地元の商店街でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、食、医療福祉、文化芸術などの分野でさまざまな企画、情報発信に携わる。いわき市の地域包括ケアの取り組み「igoku」でグッドデザイン賞金賞受賞、初の単著『新復興論』(ゲンロン叢書)で第18回大佛次郎論壇賞をそれぞれ受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)など。

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