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第三章 小朝が動いた――2003年「六人の会」旗揚げ――広瀬和生著『21世紀落語史』17482字公開

この記事では、2005~08年の「大銀座落語際」のプログラムを網羅して記述しています。ウェブ上に同様の資料を掲載しているところはありませんし、紙の資料を取ってある方も少ないと思いますので、貴重なものです。ちなみに書籍(電子版を含む)には細かくルビが入っています。

目玉は鶴瓶――小朝の「六人の会」

2003年、小朝が動いた。「六人の会」の旗揚げである。

その前年の2002年、小朝は落語協会の理事となっている。今でこそ理事の若返りが積極的に進められている落語協会だが、当時は「異例の若手抜擢」というニュアンスだった。志ん朝を失った落語協会の危機意識がもたらした人事だろう。

落語協会の幹部となった小朝が、かつて断念した「団体の壁を超えてのイベント」を具現化するために結成したのが「六人の会」で、メンバーは小朝の他に笑福亭鶴瓶(上方落語協会)、立川志の輔(落語立川流)、春風亭昇太(落語芸術協会)、柳家花緑(落語協会)、林家こぶ平(落語協会)。全員、一般的な知名度があり、しかも(ここが大事だが)小朝より後輩だ。

この人選の意図は明確だ。まず、世間に広くアピールするためにはマスコミで発信力のある人間(売れてる人)を集める必要がある。ただ、小朝がリーダーシップを取って物事を進める以上、いくら知名度があっても立川談志や桂三枝(現・文枝)、桂歌丸といった大御所を入れるわけにはいかない。その意味で立川流から志の輔、芸協から昇太、上方から鶴瓶という人選は絶妙だ。

圓楽党(五代目圓楽一門会)からの参加がないのは、この団体に「小朝よりも後輩で志の輔や昇太に匹敵する知名度を持つ落語家」がいなかったからだろう。『笑点』でお馴染みの三遊亭楽太郎(現・六代目圓楽)は小朝の同期だが、もしも彼が小朝より4~5年後輩だったら参加を要請されていたかもしれない。

だが小朝は抜かりなく団体トップの五代目圓楽から「『六人の会』のやることには何でも協力する」という約束を取り付けていた。圓楽は弟子たちに「小朝に協力するように」と言ったのだという。圓楽党は組織がしっかりしているので、トップと話がつけばそれで充分だ。

花緑が参加しているのは、彼が「落語界を変える」と宣言していたことを知る者にとっては当然の成り行きだが、穿った見方をすれば、落語協会で非主流派の小朝が「小さんの孫」を保守本流の「柳家」の代表として参加させた、という図式でもある。

人選の目玉は鶴瓶だろう。タレントとして抜群の人気を誇る鶴瓶の「六人の会」への参加は絶大なインパクトがあった。彼は長年「落語を演らない落語家」だったからだ。

鶴瓶は、2002年の小朝との二人会で『子は鎹(かすがい)』を演って以来、小朝の強い勧めで古典落語に真剣に取り組み始めていた。小朝は、もしも鶴瓶が古典を演ればそれ自体が大きな話題になると踏んだ。この着想は見事だ。小朝は鶴瓶に具体的なアドバイス(課題)を与え、「鶴瓶の古典」を世間にアピールした。

「鶴瓶が落語を⁉」という話題性は「六人の会」にとって大きな力となったが、一方で鶴瓶自身もこれがきっかけで落語家として開花していくことになるのだから、鶴瓶にとってもメリットはあった。

問題は小朝、花緑に次ぐ「落語協会3人目」のこぶ平の存在だが、これは2年後の「九代目正蔵襲名」とセットで考えなければいけない。「六人の会」の旗揚げがマスコミに発表されたのは2003年の2月だが、「2005年春に九代目正蔵をこぶ平が襲名する」と正式発表されたのはその1ヵ月後、2003年3月である。「六人の会」旗揚げは2年後の「正蔵襲名イベント」への布石だった、とさえ言えそうなタイミングである。

こぶ平の「正蔵襲名」は数年前から既定路線となっており、「こぶ平の義兄」である小朝が「タレントこぶ平」を「落語家」として鍛えていたのは周知の事実。小朝は落語家としての実績の乏しいこぶ平に、正蔵襲名に向けて「古典50席を覚えろ」と命じたと聞く。当時は「小朝独演会」に行くと大抵こぶ平が付いてきた。たとえば僕は2002年4月に国立大劇場で「小朝独演会」を観たのだが、こぶ平も出演して『首提灯(くびぢようちん)』を演じている。

小朝は自分だけが矢面に立つと物事が進まないことを知っていたからこそ、鶴瓶、志の輔、昇太、花緑の名前を借りて「改革派グループの旗揚げ」という体裁を整えた。それだけなら、そこに「タレントこぶ平」は不要だが、2年後の正蔵襲名イベントを見据えての「六人の会」だったとすれば、こぶ平はマストだろう。イベントの主役たるべきこぶ平には、ここにいてもらわなければならない。世間から「二世タレント」としか認識されていなかったこぶ平にとって、「六人の会」参加は彼にとっての「落語家宣言」のようなものだった。

「三平の長男だからって、こぶ平が正蔵を襲名するのはおかしい」と感じる向きは、彼が「六人の会」に名を連ねていることに違和感を覚えたと思うが、そういう「落語通」は圧倒的な少数派。落語に関心のないマスコミや世間一般は「知名度」だけが物差しなので、志の輔や昇太とこぶ平が肩を並べることに何の抵抗もなかっただろう。そして、その「タレントとしての知名度」を持つこぶ平が、気を遣う必要がない身内だという「使い勝手の良さ」は、小朝にとって大きな安心材料だったと思われる。

志ん朝なき21世紀の落語界のニューリーダーとして名乗りを上げた小朝は、過去の挫折も踏まえて「団体の壁を超えたグループ」という体裁を重視した。そんな「六人の会」に対して、いや、小朝に対して、立川談志は「雑魚は群れたがる」と痛烈な一言を浴びせた。

「六人の会」結成と「東西落語研鑽会」のスタート

小朝は2003年2月に記者会見を開いて「六人の会」結成と翌3月の「東西落語研鑽会」の開催を発表した。「六人の会」結成の目的は落語界を活性化すること。その最初の企画として打ち出したのが有楽町のよみうりホール(客席数1100)で隔月に行なわれる「東西落語研鑽会」で、小朝はこれを「かつての東横落語会のように若手の憧れの場となる理想的なホール落語」にしたいと語り、下駄履きでフラッと行く寄席とは異なる「ハレの日」としてのイベントにする、とも言った。

この時点ではまだ「大銀座落語祭」の構想は語られず、ただ「新しいホール落語を我々が開催する」と発表したに過ぎない。しかし芸能人として知名度の高い小朝、鶴瓶、志の輔、昇太、花緑らが所属団体の壁を超えて新会派を結成したことのニュースバリューは高く、「六人の会」結成と「東西落語研鑽会」のスタートは、マスコミで大々的に扱われた。「名人の死」以外でこれほどマスコミが「落語」を取り上げたのは久々だ。

小朝が引き合いに出した「東横落語会」は、文楽、志ん生、圓生、三木助、小さん、馬生(ばしよう)、志ん朝、談志、圓楽、小三治といった錚々たるレギュラー陣が鎬を削った「夢の寄席」である。2003年の落語界でそれに似た「オールスター」的なホール落語を、それも隔月で開催するなんて、現実には不可能だ。志ん朝は既にこの世を去り、圓楽は健康上の理由から高座を務めることがめっきり少なくなった。独立独歩の談志はその手のイベントに出るはずがない。小三治はともかく、それに匹敵する大看板となると……要するに「コマ不足」なのである。

だが、それは「落語通」の言い分だ。落語に興味のない一般大衆にとっては、小朝が「そういう会にする」と言い切ったことに意味がある。極論すれば内容や質は問題ではなく、一般人にとって「参加することに意義があるイベント」に思えることが重要なのだ。「六人の会」なるユニットは、その「イベント性」を最もわかりやすくアピールするために小朝が仕掛けた作戦だ。

小朝が賢いのは、上方落語を取り込んで「東西落語研鑽会」という打ち出し方をしたこと。東京と上方すべてをひっくるめての「オール落語」ということにしてしまえば、東京4団体の「壁」の持つ意味が希薄になるし、上方の大看板を呼ぶことで「コマ不足」の問題もある程度クリアできる。

具体的に、最初の1年間の出演者を見てみよう。

まず2003年3月の「第1回東西落語研鑽会」は、「六人の会」から小朝、鶴瓶、こぶ平が出演し、上方から三代目桂春團治(はるだんじ)を迎えている。トップバッターは立川談春だ。

同年5月の「第2回」は志の輔、鶴瓶、花緑に加え、上方から五代目桂文枝と笑福亭三喬(さんきょう)を迎えたラインナップ。

7月の「第3回」は小朝、昇太に加えて東京側から柳家小三治、上方からは月亭八方と笑福亭笑瓶が参加。

9月の「第4回」は志の輔、昇太、こぶ平、上方から春團治と桂つく枝。

11月の「第5回」は鶴瓶、こぶ平の他、東京から柳亭市馬、上方から桂三枝(現・六代目文枝)と桂小米朝(現・米團治)。

そして2004年1月の「第6回」は小朝、こぶ平に加えて東京から柳家喜多八、上方から桂文珍と桂雀々が参加した。

プロデューサー小朝の腕の見せ所は、談春、市馬、喜多八といった「これからの東京落語を背負って立つ逸材」を抜擢して世に知らしめるところにあり、その点での小朝の「人材の見極め」はさすがだ。

とはいえ、毎回のプログラムを単体で見れば、それほど贅沢なものではない。春團治、文枝、三枝、文珍、八方といった、普段東京では観ることの出来ない「上方の大物たち」の参加がある程度の豪華さを担保しているものの、鶴瓶や志の輔、昇太が頻繁に出ること以外は、ごく普通のホール落語だ。「こぶ平で一枠が潰れる」ことが度々あるのは、明らかにプログラムの充実度を損ねている。

だが、そんなことを言う人種を小朝は相手にしていない。小朝はあくまでも「落語をナマで観たことがない」人たち相手に「東西落語研鑽会」という「新しいイベント」を用意したのである。この「東西落語研鑽会」が従来のホール落語、例えば1999年にスタートした「朝日名人会」(有楽町・朝日ホール)などと異なるのは、言ってみれば「六人の会」が主催するという一点のみ。だが、それは決定的な相違だった。有名落語家がユニットを組んでイベントを主催するという画期的な発想とその派手なプレゼンテーションによって、「六人の会」は閉鎖的な落語界の生温い空気感とは無縁の「新しさ」を感じさせた。小朝が「辣腕プロデューサー」たる所以である。

小朝の目論見は見事に的を射ていた。「六人の会」が主催する「東西落語研鑽会」は大盛況となり、今まで「落語を観に行く」という行為に無縁だった世間の人々の幾ばくかの関心を、「現役の落語家」に向けさせることに成功した。

そう、この「現役の落語家」というところが重要だ。昔を懐かしむ落語通とも、志の輔ファンや昇太ファンとも異なる、「初めて落語を聴く人たち」という新たな客層を掘り起こした「東西落語研鑽会」は、来たるべき落語ブームへ向けての最初の地ならしの役割を果たすことになったのである。

「大銀座落語祭」

小朝がかつて企画しながらも頓挫したという「銀座落語祭」構想は、「六人の会」の主催による「大銀座落語祭」という形で2004年7月に実現することになった。

小朝の「六人の会」結成の狙いはこの「大銀座落語祭」にこそあったと言っていいだろう。2003年の「東西落語研鑽会」スタートはあくまでも前哨戦。たかだかホール落語を成功させただけでは世間を巻き込むムーブメントにはなり得ない。小朝が目指したのは、前代未聞の落語フェスティバルを開催することで、既成事実として「落語がブームになっている」というムードを演出することだった。

2005年春に発売された演芸専門ムック『笑芸人Vol.16』掲載の鶴瓶インタビューによると、小朝は2003年3月の第1回「東西落語研鑽会」の打ち上げで既に「7月に大銀座落語祭をやるつもりだ」と語っていたという。それは(おそらく翌年を見据えて)、時期を「7月」と特定した、という意味だろう。1996年に「7月20日」として施行された「海の日」は、2003年からハッピーマンデー制度により「7月の第3月曜日」となった。つまり、7月に3連休が定められたということで、小朝はここに目を付けたのである。

もちろん、大規模な落語フェスを実現するためには、金が掛かる。その点も抜かりがなかった。「大銀座落語祭2004」には「平成16年文化庁芸術団体人材育成支援事業」という冠が付いている。小朝は文化庁に話を通して国から金を引っ張ってきたのだ。

ここで僕は「小朝が」という言い方をしているが、もちろん名目上の主体は「六人の会」である。しかし、前述のインタビューにおいて鶴瓶は、「六人の会」発足記者会見のときも自分や志の輔、昇太らは「何をするのかわからず集められた」こと、その後も彼らは小朝の計画に「巻き込まれて」いるのだということを明かしており、たとえ小朝自身が言うように「六人の会」においては「全員一致」が原則だったとしても、すべてのアイディアは小朝から生まれたのは間違いない。

「大銀座落語祭2004」は7月17日(土)・18日(日)・19日(祝)の3日間、有楽町朝日ホール、銀座ガスホール、ヤマハホール、JUJIYAホール、ソミドホール、銀座ブロッサム中央会館の6会場で開催された。当時のパンフレット等に、3日間のプログラムと共に掲載された「ごあいさつ」は次のようなものだ。「大銀座落語祭2004」は7月17日(土)・18日(日)・19日(祝)の3日間、有楽町朝日ホール、銀座ガスホール、ヤマハホール、JUJIYAホール、ソミドホール、銀座ブロッサム中央会館の6会場で開催された。当時のパンフレット等に、3日間のプログラムと共に掲載された「ごあいさつ」は次のようなものだ。

「大銀座落語祭は、六人の会が主催する落語の祭典です。東西合わせて百名を超える落語家、落語関係者の御理解と御協力を頂き、すべての会の入場料金が、通常では考えられない低料金に設定されています。これは、少しでも多くの方に、落語を楽しんで頂きたいという強い気持ちのあらわれです。どうぞ色々な会をのぞいてみて下さい。そして、三日間ゆっくり楽しんで下さい」

そして【主催】大銀座落語祭実行委員会【後援】銀座通連合会・全銀座会・中央区【協賛】東京地下鉄株式会社銀座駅【協力】高田事務所・ねぎし事務所・橘右橘、といったクレジットが添えられている。

開催直前には銀座8丁目の資生堂ビル前で「六人の会」全員が揃ってのパフォーマンスが行なわれた。獅子舞、大神楽などによるオープニングに続いて登場した6人が大量のチラシを通行人に配布。続いて記者会見が開かれ、この模様は大きく報じられた。

プログラムを見てみよう。

2004年のメイン会場は有楽町朝日ホール。ここは「究極の東西落語会」と銘打ち、3日間昼夜でA・B・C・D・E・Fの6ブロックに分かれている。Aブロック(17日昼)は「こぶ平奮闘公演」「桂春團治の会」「志の輔の会」の3公演セット、Bブロック(17日夜)は「高田文夫・春風亭昇太・昔昔亭(せきせきてい)桃太郎」「笑福亭鶴光・月亭八方二人会」「当日まで秘密の会」のセット(「当日~」は川柳川柳、林家いっ平、ダンディ坂野、パペットマペット他が出演)。以下、Cブロック(18日昼)が「小遊三・楽太郎二人会」「桂文枝の会」「三遊亭圓楽の会」、Dブロック(18日夜)が「こん平・たい平・いっ平の会」「小朝の会」「鶴瓶の会」、Eブロック(19日昼)が「花緑・風間杜夫二人会」「歌丸の会」「三枝の会」、Fブロック(19日夜)が「小米朝奮闘公演」「木久蔵・好楽二人会」「文珍の会」となっている。

銀座ガスホールは17日が「立川流vs上方の凄い人々」(ブラック、談春、志らく、福笑他)、18日は「夢の親子会5連発!!」で「権太楼・三太楼」「扇橋・扇遊」「さん喬・喬太郎」「圓歌・歌司・歌武蔵」「圓丈・白鳥」。19日は昭和の名人の十八番を弟子たちが演じる「芸の伝承の会」で、市馬、圓窓、圓蔵、雲助、文朝、志ん輔他が出演。

その他、JUJIYAホールでは3日間で「早朝寄席・大ネタ対決(文左衛門他)」「早朝寄席・木久蔵一門会」「落語珍品堂1(扇辰、夢之助他)・2(南喬、藤兵衛他)」「圓朝寄席1(圓橘、正朝他)」「圓朝寄席3(喬太郎『熱海土産温泉利書(あたみみやげいでゆのさきがけ』)」「花緑ピアノリサイタル」等々。ヤマハホールはこれも3日間で「手話で楽しむ落語会」「親子で楽しむ落語会」「落語家の映画特集(しん平・志らく等の作品上映)」等の他、特別プログラムと銘打って「吉原へご案内」「華麗なるマル秘芸の世界」「小沢昭一:落語と私」「東西名手の競演!(一朝・喜多八・染丸他)」といった公演も。ソミドホールでは17日に「正雀怪談噺の夕べ」「談笑超過激ライブ!」、19日に「圓朝寄席2(談春・ぜん馬・三三)」と「橘家圓太郎独演会」。中央会館は19日の「小朝&綾小路きみまろの会」と「落語と歌舞伎夢のコラボレーション(落語家と歌舞伎俳優による鹿芝居他)」の2公演のみ。

これら多彩なプログラムが用意された「大銀座落語祭2004」の観客数は、延べ1万5000人。大成功と言っていいだろう。

もっとも僕自身はこの3日間、「大銀座落語祭」には行かず、普通の落語会にいつもどおり足を運んでいたのだが。

頼りになるのは保存された紙の資料

2004年に成功を収めた「大銀座落語祭」は年々規模を拡大し、2008年には参加落語家延べ400人、延べ観客動員数5万5000人を記録するに至る。この年の11月に行なわれた「第30回東西落語研鑽会」をもってこの落語会も終了。実質的にここで「六人の会」の活動も終わったと言っていい。

翌2009年には「六人の会」主催で10月11日(日)・12日(祝)の2日間にわたって「宮崎大落語祭」が行なわれ、これは2008年の「大銀座落語会」開催の時点で「今年で終わるこのイベントを引き継ぐ形で来年行なわれる」と予告されていたもの。当時の宮崎県知事は東国原英夫。2008年の時点で「六人の会」はこれを「落語ブームを地方に持っていくため」と発表したが、結局この1回で「六人の会」による「地方での落語祭」は終了した。

ちなみに「六人の会」に加わっていない唯一の団体、圓楽党(五代目圓楽一門会)では三遊亭楽太郎(2010年に六代目圓楽を襲名)が2007年より「博多・天神落語まつり」をプロデュース、規模を拡大しながら現在まで継続している。

「大銀座落語祭」は毎年各会場で前売り完売が続出する人気のイベントとなり、落語ブームの加速を促した一因であるのは事実。連休でもあることから地方から出てくるのを楽しみにしていた人たちもいて、小朝の狙いは正しかったと言える。これまで落語に馴染みがなかった人たちばかりではなく、毎年熱心に足を運んだ落語ファンも大勢いた。

ただ、僕自身は5年間で参加したのは僅か5公演のみ。初参加は2007年7月14日(土)に博品館劇場で午後1時から4時まで行なわれた「1部:立川談笑の世界/2部:立川志らくの世界」。独演会2本立てで1000円とは実にお得だ。続いてはその2日後の16日(月・祝)に銀座ブロッサム中央会館で行なわれた「究極の東西寄席」Gブロック(第1部:小沢昭一&加藤武/第2部:桂米朝/第3部:柳家小三治の会)で、このとき小三治は『天災』を演った。(米朝は小沢昭一との対談のみ)これはS席5000円。

あとは2008年7月17日(木)・18日(金)・20日(日)と、博品館劇場に3回通った。17日・18日は「談春と上方落語」。この会で談春は初日に『慶安太平記(善達の旅立ち)』『慶安太平記(吉田の焼き討ち)』を、2日目には『三軒長屋(上)』『三軒長屋(下)』を演った。上方からは初日に林家染丸と林家染二、2日目は笑福亭松喬と笑福亭三喬が出演。20日は「柳家喬太郎と上方落語その1」で、喬太郎は『ほんとのこというと』『純情日記横浜編』の二席、上方勢は笑福亭福笑と笑福亭たまが出演した。チケット代は各1500円。

「大銀座落語祭」は「お祭り」なので、各会場で行なわれるのは基本的に「企画興行」だ。小朝はさすがの情報収集能力と政治力・分析力を駆使して毎年なかなか興味深い「企画」を用意したと評価できるが、僕個人としてはさほど魅力を感じる「企画」が多いと感じられなかったこと、目ぼしい公演のチケットが取りにくくなっていたこともあって、ついつい足が遠のいた。

いや、正直言うと、プログラムを隅々まで読み込んで検討したりすることを、そもそも避けていたフシがある。それは僕が、基本的に「フェスが苦手」だから、というのが大きい。僕は、お祭り騒ぎの中でいろんなものを賑やかに楽しむのではなく、「好きなものに集中したい」というタイプ。それに、幾つかの会場を掛け持ちして歩き回るのも面倒くさがる無精者なので、「コマギレのプログラムを追ってあちこち移動するのもまたお祭り」という考え方は、肌が合わなかった。

小朝が提唱したのは「落語を観に行く日をハレの日にしてしまおう」ということ。それは「六人の会」として2004年に出版したフォト・インタビュー集『六顔萬笑』(近代映画社)に明記されている。僕は、それに異を唱えるつもりはまったくない。さらに小朝は「こんなことを言うと、寄席の良さは下駄履きでフラッと行かれるところだと、必ず反論する人がいるんですよ」と言っているが、そんな反論をするつもりもない。単純に、僕にとって落語は日常であってハレの日である必要がなかった、というだけだ。

ところで、この原稿を書くに当たって痛感したのが「最後に頼りになるのは保存された紙の資料だ」ということ。昨今あまりにインターネットが便利なので、ともすれば「ネットで調べればすべてわかる」と思いがちだが、「大銀座落語祭」の具体的なプログラムをネットで調べるのは困難だ。当時「大銀座落語祭」公式サイトは小朝の公式サイト内にあったが、それはもはや存在せず、今アクセスすることは不可能なのだ。そして僕が検索した限りでは、すべてのプログラムを記録したサイトは見当たらない。

なので、以下、僕の手元にある紙資料を基に、各年の「大銀座落語祭」の全貌を記しておきたいと思う。

「落語ブーム」と言われ始めた年 「大銀座落語祭2005」

「大銀座落語祭2005」は「上方落語がやってきた!」というサブタイトルのとおり、上方の落語家が57名参加する形で7月16日(土)・17日(日)・18日(月・祝)の3日間行なわれ、開催に先駆けて7月上旬に行なわれた銀座での「六人の会」の路上パフォーマンスと記者会見には上方落語協会会長の桂三枝(現・六代目文枝)も参加した。小朝は前年の成功を受け、さらに新鮮な要素として「上方」というキーワードを用いたのである。

ちなみに上方落語唯一の定席「天満天神繁昌亭」は三枝の肝煎りで2005年12月に着工、翌2006年9月にオープンしている。また2005年と言えばTBS系テレビドラマ『タイガー&ドラゴン』が1月に単発スペシャルとして、さらに4月から6月まで毎週放映されて「落語ブーム」と言われ始めた年。こぶ平が九代目正蔵を襲名したのはこの年の3月だ。

2005年は有楽町朝日ホールが使えず(16日の「朝日名人会」がバッティングしていたからだろう)、メイン会場が銀座ブロッサム中央会館に移った他、ガスホール、ヤマハホール、JUJIYAホール、コマツアミュゼホール、博品館劇場、よみうりホールが会場となった。

中央会館では「究極の東西寄席」が行なわれ、各ブロック毎に、A(16昼)は「正蔵初演の会」「仁鶴の会」「志の輔の会」の3公演セット、B(16夜)が「吉本特選名人会」「木久蔵・小遊三二人会」「小朝の会」。以下C(17昼)「花緑vsコージー冨田」「昇太と爆笑問題の会」「圓楽・楽太郎二人会」、D(18昼)「鶴瓶の会」「歌丸の会」「文珍の会」、E(18夜)「小沢昭一の会」「小三治の会」「三枝の会」。また17日夜には「圓朝落語を変わったアレンジで」と題して馬生らの鹿芝居で『芝浜』と亜郎のミュージカル落語『文七元結』も。

ガスホールは16日が「1部:この噺はこの人で!(一朝、鳳楽、小里ん、志ん橋)/2部:文楽トリビュート(圓蔵、小燕枝、圓太郎、萬窓)」と「1部:色恋・西と東(馬生他)/2部:上方の底力(ざこば、小米朝他)」、17日が「1部:志ん朝トリビュート(志ん五、春之輔他)/2部:圓歌・春團治二人会」と「東西特選二人会三連発(染丸・さん喬、福笑・圓丈、雀三郎・談四楼)」、18日が「1部:胃の負担にならない爆笑落語会(川柳、夢之助、しん平他)/2部:長講落語・鯰の急(朝馬他)」と「1部:志らく・たい平二人会/2部:東西夢の若手会(雀々、談春、喜多八、梅團治、吉弥)」。

ヤマハホールは16日「外国語落語会(入場無料)」と「1部:ナンチャンの落語会/2部:伝説の男たちの落語会(可朝、鶴光、桃太郎)」、17日「子供寄席(入場無料)」「長講名人会1(福團治、金馬、雲助、都)」「1部:復活!らくごのご(鶴瓶、白鳥、春之輔)/2部:待ってました!笑福亭(松枝、三喬他)」、18日「長講名人会2(松喬、圓窓、権太楼)」「1部:旬のお笑い大集合/2部:上方人気者勢揃い(八方、文福、きん枝、小枝)」。

JUJIYAホールは16日「小さんの遺産(三語楼、文楽、市馬、扇辰他)」「東京の落語家による上方噺(藤兵衛、左談次、ブラック他)」、17日「三代目三木助トリビュート(扇橋、小満ん他)」「1部:落語珍品堂(今松、圓橘、燕路)/2部:講談から落語に(小袁治、歌司、三三)」、18日「談笑の危険な独演会」「1部:有名人が落語になった(歌之介、ぜん馬、さん生、竹丸)/2部:NHK受賞者関西版(雀松、都んぼ他)」。

コマツアミュゼは16日「1部:志ん生トリビュート(志ん駒、志ん弥、喜助)/2部:東西艶ばなし(好楽、春若他)」、17日「サラブレッド10人会(金時、菊生、窓輝、王楽他)」、18日「1部:鶴瓶チルドレンの会/2部:上方落語珍品堂(仁智、小春團治他)」の他に鈴々舎馬桜の「カルチャー落語会」というのが毎日あった。

博品館劇場では18日につかこうへい原作『熱海殺人事件』を渡辺正行の演出で昼夜2回興行(出演:柳家喬太郎、小川範子他)。

そして、よみうりホールは17日に「三枝・きみまろ二人会(ゲスト:正蔵)」の2回興行と「風間がワ、ハ、ハと大笑い(1部:ワハハ本舗/2部:風間杜夫独演会)」。

2005年の観客動員数は前年より5000人増えて2万人だったという。

ちなみに僕は16日、17日ともに12時開演の「立川流広小路寄席」に通って2日間で22席の落語を聴いた、と記録してある。18日は『BURRN!』8月号の入稿締切直前だったため朝から晩まで編集部にいたようだ。

余談だが、僕にとって毎年この時期の3連休というのは基本的に仕事が最も忙しい時期なので、平日よりもむしろ落語会に足を運びにくいのだった。その点、上野広小路亭は編集部からタクシーで簡単に往復できるので便利だ。上野鈴本演芸場も同じだが、あそこは平日に行くことがほとんど。なお、編集部から歩いて行ける便利な神保町・らくごカフェがオープンしたのは2008年12月のことだった。

「落語ブームはこれからだ!!」――「大銀座落語祭2006」

「大銀座落語祭2006」のサブタイトルは「落語ブームはこれからだ!!」。7月15日(土)・16日(日)・17日(月・祝)の3日間の開催で、会場は中央会館、ヤマハホール、JUJIYAホール、コマツアミュゼ、時事通信ホールの5ヵ所に絞られた。

中央会館は「究極の東西寄席」。A(15昼)「正蔵の会」「仁鶴の会」「三枝の会」、B(15夜)「清水ミチコ」「花緑・風間杜夫二人会」「志の輔の会」、C(16昼)「小朝の会」「春團治の会」「小三治の会」、D(16夜)「1部:映画『寝ずの番』上映/2部:笑福亭一門会(呂鶴、福笑、鶴光)」、E(17昼)「遊三・小遊三親子会」「歌丸の会」「鶴瓶の会」、F(17夜)「圓蔵・木久蔵二人会」「圓歌・ケーシー高峰の会」「文珍の会」。

ヤマハホールは入場無料の外国語落語会や子供寄席等の他に15日は「1部:旬のお笑い!/2部:ナンチャンの落語会」、16日は「小沢昭一の吉原へご案内(1部:小沢昭一/2部:扇遊、圓菊)」と「大御所に歴史あり!(1部:金馬インタビュー/2部:圓楽インタビュー)」、17日は「危険な香りの落語会(1部:可朝他/2部:横山ノック他)」と「1部:らくごのないらくご会/2部:上方の人気者(八方、雀々他)」。

JUJIYAホールは15日「いきなり爆笑落語会(桃太郎、米助他)」「上方三都物語(小染他)」「待ってました若手十八番(正朝、萬窓、扇辰他)」、16日「世の中お金の落語会(歌武蔵、ぜん馬他)」「小佐田定雄の世界1(小春團治他)」「小佐田定雄の世界2(雀三郎他)」、17日「かえってきた鶴瓶チルドレン」「女性がからむと男はこうなる落語会(扇橋、馬生、菊之丞他)」「ぼっちゃん5の落語会(王楽、八光他)」。

コマツアミュゼは15日「圓生トリビュート(圓窓、鳳楽他)」「松喬・権太楼二人会」、16日「珍品堂1(三喬、談四楼他)」「この人この噺(志ん五、左談次、市馬他)」「芸術祭受賞者の会(松枝、南喬他)」、17日「珍品堂2(染丸、今松他)」「大の仲良し六人会(小燕枝、一朝、小金馬、小袁治、志ん橋、小里ん)」「珍品堂3(小満ん、喜多八、梅團治他)」。

そして時事通信ホールでは15日「亜郎の『オペラ座の怪人』」「喬太郎vs稲川淳二の怪談噺」、16日「さん生の『笑いの大学』」「雲助・白酒の師弟の怪談」「貞水と談春の怪談噺の会」、17日「昇太の『牡丹灯籠』」「おもしろ怪談噺の会(1部:志らく、白鳥/2部:楽太郎、好楽、たい平)」などが行なわれた。

ちなみに僕は15日は実相寺での「たまごの会(志ん輔、朝太他)」、17日には「立川流広小路寄席」に行ったが16日は一日中編集部で仕事をしていた。

落語ブームが本格化した中で行なわれた「大銀座落語祭2007」は7月12日(木)~16日(月・祝)の5日間の開催。テーマは「東西味くらべ! 落語満漢全席!!」。前年の観客動員数が何と3万5000人だったということで、遂に5日間の開催に踏み切った、ということか。

この年はお馴染みの銀座ブロッサム中央会館、JUJIYAホール、コマツアミュゼ、時事通信ホール、新たに加わった浜離宮朝日ホール、王子ホールなどの他、山野楽器やソニービル8F、東芝銀座ビル4F、三越屋上といったイベントスペースで入場無料の催しが「大銀座落語祭」の賑やかしに加わっているのが特徴的だ。

中でも目立つのは1時間単位で若手を3人登場させる山野楽器の「お楽しみ寄席」で、ラインナップは14日「時松・こみち・志ん八」「わか馬・つくし・駒次」「楽春・愛楽・好二郎」「遊馬・錦之輔・可龍」「蔵之助・圓十郎・鏡太」、15日「こしら・志らら・らく朝」「金八・金也・金兵衛」「神田茜・神田ひまわり・一龍斎貞寿」「らん丈・丈二・ぬう生」「福治・禽太夫・三之助」、16日「慎太郎・健太郎・笑海」「菊春・菊可・菊六」「種平・鉄平・錦平」「扇好・扇里・遊一」と、かなりニッチなラインナップ。あえて言うなら今の「シブラク」的な匂いもする。これは、落語のCDを売っているレコード店ゆえの「入場無料で落語ファンが来てくれれば」という戦略だろう。ちなみに山野楽器は「大銀座落語祭」が2008年に終了すると、翌2009年からは独自に「プチ銀座落語祭」を開催することになる。

前述のように僕はこの年「大銀座落語会」に初参加して14日に「談笑の世界/志らくの世界」(博品館劇場)に、16日に米朝・小三治の出る「究極の東西寄席」(中央会館)に行ったのだが、この5日間のそれ以外の行動はというと、12日と13日は林家彦いちがトリを取る上野鈴本演芸場夜の部(文左衛門が仲入り)、15日は春風亭一朝がトリの池袋演芸場夜の部へ行った。なお、16日には銀座から会社に戻って仕事をした後、いそいそとまた上野鈴本演芸場に行ったのだった。

実は落語以外の要素が多かった――「大銀座落語祭2007」

5日間開催となった「大銀座落語祭2007」のプログラム、主なところを記しておこう。

中央会館の「究極の東西寄席」はA(12夜)「ザ・ニュースペーパー」「ざこば・南光・雀々」「志の輔」、B(13夜)「稲川淳二」「コロッケ」「小朝」、C(14昼)「たい平・風間杜夫」「正蔵」「木久蔵・ケーシー高峰」、D(14夜)「昇太」「春團治・圓蔵」「文珍」、E(15昼)「桃太郎・白鳥・喬太郎」「清水アキラ」「三枝」、F(15夜)「好楽・夢之助・楽太郎」「圓楽」「歌丸」、G(16昼)「小沢昭一・加藤武」「米朝」「小三治」、H(16夜)「小枝・松村邦洋」「小遊三・花緑」「鶴瓶」。

博品館劇場は13日「新作二人会(仁智、小春團治他)/この人この噺(談春、鶴二、染二他)」、14日「談笑/志らく」「爆笑新作らくご会(遊方、福笑、たま他)」、15日「東西特選会(松喬、権太楼、可朝他)」「馬生一門会/鹿芝居」、16日「三木助追善公演/柳昇は生きている」「時代劇コント/時代劇裏話(高橋英樹他)/侍らくご」等。

時事通信ホールは14日「イョ、待ってましたの会(ぜん馬、千朝他)/遊びの世界(小満ん、萬窓他)」「上方おもしろ寄席(八方、仁福他)/芸能人らくご大会(渡辺正行、松尾貴史他)」、15日「イョ、待ってましたの会2(志ん輔、米二他)/おもいっきり珍品集(談四楼、枝三郎他)」「松本清張vs山田洋次(ブラック他)/この人この噺(喜多八、小染他)」、16日「一番弟子の会(志ん五、鳳楽他)/喬太郎におまかせ!の会」「ナンチャンの落語会/志ん朝トリビュート(文太、かい枝他)」。

コマツアミュゼは13日「三枝トリビュート(はん治他)/珍品堂(新治、福郎他)」、14日「芸術祭特集(金馬、染丸他)」「この人この噺(鶴瓶他)/SF怪奇噺集(春之輔他)」、15日「圓歌一門会」「SF怪奇噺集(小さん他)」「実の親子の競演リレー落語(圓窓、福團治他)」、16日「園菊一門会/柳家のお家芸」「普通じゃない落語会(小米、米平他)/上方らくごの四季(呂鶴、小米朝他)」。

JUJIYAホールは12日「枝雀一門若手会」、13日「浪花節だよ人生は」、14日「らくごカルチャー1/この人で聴きたい(文楽、助六他)」「吉朝一門会」、15日「らくごカルチャー2/珍品集(平治、藤兵衛他)」、15&16日「小佐田定雄の世界1・2」、16日「らくごカルチャー3/この人で聴きたい(龍志、圓橘他」等。

その他、浜離宮朝日ホールでは「怪談『真景累ヶ淵』落語と映画で楽しむ会」(12日)や「新真打四人の会(馬石、菊志ん他)/桃色婦人会」(13日)、「貞水の世界/『牡丹灯籠』親子リレー(扇橋他)」(14日)、「この人この噺(ひな太郎他)/東西新作落語対決(天どん他)」(15日)、「三枝・文珍・鶴瓶弟子の会/防衛らくご会」(16日)他が行なわれ、王子ホールでは「ミュージカルらくご」(14日)、「ゴスペル落語/サッチモ物語」(15日)、「若旦那たちの音楽会(花緑/小米朝)」(16日)等、音楽系のイベントが催された。

「大銀座落語祭2007」に参加した落語家の数は400人、観客動員数は5万人を記録した。2005年頃からの「落語ブーム」を加速させた大きな要素のひとつがこの「大銀座落語祭」だったのは間違いない。だが逆に言うと、「落語ブーム」が訪れていたからこそ2007年の「大銀座落語祭」がこれだけの規模で成功を収めたのも確かだ。

規模が膨れ上がった「大銀座落語祭」のプログラムをよく見ると、「落語」祭でありながら、実は落語以外の要素に依存する傾向が強い。特に「究極の東西寄席」にそれは顕著だ。大掛かりな「祭り」を成立させるためには必要なことなのだろうが、やはり無理があると僕には思えた。

小朝が言う「落語会に行く日をハレの日にする」という発想は、低迷した落語に一般大衆の目を向けるためにはこの上なく有効だっただろう。だが、それはあくまでも「入口」である。

落語は、「演者を聴くもの」だ。ひとたび「落語の魅力」を知ったならば、そこから先は、「自分の好きな演者を追いかける」ということになる。お祭り騒ぎは必要ない。いっぺんに数万人を集める「大銀座落語祭」の方式は、落語の本質とは懸け離れたものだ。

落語が「ブーム」と言われるほどの状況を迎え、「落語というエンターテインメント」に目覚めた新たな観客層が、思い思いに自分の好きな演者を追いかけるのが当たり前になってきたら、無理にテレビでお馴染みの芸能人と絡めて「落語を知ってもらう」必要はない。

落語界に活気が戻り、新規参入のファン層が小朝の仕掛けとは別のところで人気公演のチケット争奪戦を繰り広げていた2007年、既に「大銀座落語祭」が果たすべき役割は終わっていた。

小朝にもそれはわかっていたのだろう。翌年、「大銀座落語祭2008」の概要が発表されたとき、そこには「今年でファイナル」と謳われていた。

5万5000人を動員――「大銀座落語祭2008」

「大銀座落語祭2008」のサブタイトルは「落語の明日」。7月17日(木)~21日(月・祝)の5日間で5万5000人の観客動員があった。

中央会館の「究極の東西寄席」はA(18夜)「コロッケ」「鶴瓶・笑瓶」「文珍」、B(19昼)「正蔵・風間杜夫」「圓歌・小金治」「三枝」、C(19夜)「花緑vs渡辺正行・ラサール石井・小宮孝泰」「清水ミチコ」「昇太」、D(20昼)「木久扇・ケーシー高峰」「春團治・可朝」「歌丸」、E(20夜)「八方・きん枝・小枝」「ノブ&フッキーものまね」「志の輔」の5公演。

最終日の21日にはメインステージが有楽町よみうりホールに移り、昼に「小朝」「三枝」「小三治」の三本立て公演、夜にはグランドフィナーレと銘打って「昇太・志の輔 夢の二人会」を開催。そのグランドフィナーレの裏では新橋演舞場で正蔵が武蔵坊弁慶を演じる「勧進帳」を第1部、「三枝・鶴瓶二人会」を第2部とする特別公演が行なわれている。

その他の会場を見ると、博品館劇場では17日・18日に「談春と上方落語」、20日と21日に「喬太郎と上方落語」があり、談春の会は先述のとおり染丸・染二(17日)と松喬・三喬(18日)、喬太郎のほうには福笑・たま(20日)、雀々・都丸(21日)が出演している。博品館ではその他、19日には「権太楼/松喬・小里ん・志ん橋」「小米朝/可朝・鶴光」が、20日には「白鳥vs旬のお笑いたち/電撃ネットワーク/桃太郎の『死神』」が、21日には「チャンバラの会(時代劇コント、侍らくご他)」等が行なわれている。

時事通信ホールは17日「オール鳴り物入りの会(市馬、菊之丞他)」、18日「ザ・ニュースペーパー/ブラック&談笑」、19日は「雲助/小満ん」(昼)と「映画『深海獣レイゴー』(林家しん平監督作品)/福笑・しん平・彦いち・あやめ・遊方」(夜)、20日は「亜郎ミュージカル落語/狂言と落語の会(野村萬蔵、馬桜他)」(昼)と「春團治トリビュート(春團治、喜多八、歌武蔵他)/米朝トリビュート(米朝、ざこば、南光、雀々他)」(夜)、21日は「雀三郎の『らくだ』を聴く会(ゲスト鶴瓶)」(昼)と「芸能人らくご大会(南原清隆、千原ジュニア、コロッケ他)」(夜)。

銀座みゆき館劇場で行なわれたのは、17日「キレル!の会(馬生、小満ん、小燕枝、小金馬、正朝)」、18日「待ってました!笑福亭!(鶴光、呂鶴、小つる他)」、19日「志らく・白鳥/つく枝・三三」「おにぎやか!馬生一座(馬生、馬楽、正雀、菊春、世之介)第1部:落語/第2部:鹿芝居」、20日「大河らくご東の旅(松枝、九雀、佐ん吉他)」「文楽・志ん生 芸の継承(楽太郎、文楽、南喬、今松他)」、21日「歌之介・歌る多・歌武蔵/ひな太郎・圓太郎・遊雀」「市馬の世界(落語と唄)/遊びの会(小さん、一朝、喜多八、文左衛門)」。

JUJIYAホールは17日「京の噺の会(たい平、金馬、かい枝他)」、18日「オール鳴り物入りの会2(染丸、馬桜、扇遊他)」、19日「やられた!の会(馬風、小袁治、川柳他)」「長講特選会(圓窓、藤兵衛他)」「東京で聴けない噺(吉坊、雀松他)」、20日「ほろりの会1(燕路、まん我他)」「米朝イズムの会(千朝、宗助、小米他)」「愉快な仲間(左談次、志ん五、米助他)」、21日「ほろりの会2(梅團治、喬太郎他)」「遊三・小遊三/圓蔵・福團治」「NHK『ちりとてちん』出演者の会(松尾貴史、吉弥他)」。

教文館ウェンライトホールは17日「三三の世界」、18日「ラクゴリラ(生喬、花丸、つく枝、こごろう)」、19日「圓菊一門会/馬生一門会」「はやかぶの会(瓶太、文華、宗助、わかば他)」、20日「『真景累ヶ淵』通し(丈二、馬るこ他)」「繁盛亭in銀座(春之輔、仁福他)」、21日「芸術協会の個性(鯉昇、平治他)/女流三人会(神田茜、神田陽子、桂あやめ)」「春團治一門&文枝一門/鶴笑・小春團治・仁智」。

そして銀座小劇場は17日「白酒独演会」、18日「一之輔独演会(ゲスト:文左衛門)」、19日「栄助独演会」「かい枝独演会」、20日「志の吉独演会」「朝太独演会」、21日「好二郎独演会」「たま独演会」。この会場のプログラムは「これからの落語界はオレたちに任せろ!!」と銘打ってのもの。栄助は現在の百栄、好二郎は現在の兼好だ。

その他、入場無料・完全入替制の会として山野楽器で9公演(馬桜、志ん馬、こみち、天どん他)、銀座東芝ビルで6公演(好二郎、王楽、きつつき他)、フェニックスホールで4公演(白酒、左龍、金時他)、博品館劇場で「英語らくご(志の輔他)」「手話らくご(正蔵ほか)」、OPUSで「韓国語らくご」「子供寄席」他が行なわれた。

ファイナルとなった「大銀座落語祭」は、落語を盛り上げるためというより、むしろ既に訪れていた落語ブームを象徴するイベントのような見え方をしていたと思う。これだけの規模でこれほど盛り沢山な落語フェスを実行できたのは、小朝あってこそ。落語ブームの起爆剤としての「大銀座落語祭」は役割を見事に果たして幕を閉じた。

なお、前述したように僕はこの年、博品館に17・18・20日と通って「談春と上方落語」「喬太郎と上方落語」を観たが、それは「大銀座落語祭」への参加というより、追いかけていた談春や喬太郎の会だから。残る2日間は「大銀座」には不参加で、19日には小三治・さん喬・扇遊他が出演する「朝日名人会」(14時開演)と鯉昇・喜多八・龍志が出演する「ビクター落語会」(18時開演)に、21日には「志の輔らくご 21世紀は21日」(14時開演)と「立川談笑月例独演会」(18時半開演)に足を運んでいる。

(次回、第四章に続きます。水曜更新予定)

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