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「カミングアウト損」――エンタメ小説家の失敗学9 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第2章 功を焦ってはならない Ⅲ

「カミングアウト損」

「来た!」と思った。今度こそ波が来たと思ったのだ。糖尿病であることを明かすことには一定の抵抗があったが、これで作家として名を上げることができるなら、代償としては安いものだ。そんな思いで僕は重版の知らせを待ち受けていたのだが、肝腎の売れ行きのほうはなぜかあっという間に失速し、メディアであれだけ派手に取りざたされていたことが夢だったかのように思いなされる始末だった。

 なぜセールスに結びつかなかったのかは、わからない。本の装丁や帯が控えめで地味な上に、情報量が少なすぎて、どういう内容なのかが伝わっていなかったのではないかとか、世界文化社が文芸分野では後発で、セールスに関して十分なノウハウを持っていなかったのではないかとか、読者層の中で大きなパーセンテージを占めてくれるはずと期待していた「糖尿病予備軍」の人々にとっては、むしろ「現実に直面したくない」という気持ちのほうが強かったのではないかなど、いろいろと列挙することはできるが、いずれも今さら検証のしようもない仮説ばかりだ。

 ともあれ、結果として、自らの抱える病気をあえて白日のもとに晒した僕のこのオートフィクションは、「カミングアウト損」に終わった。

 それでも、ニフティで電子書籍化されれば、コメント欄での濃密な応酬なども抄録できるのではないかという一縷の期待を抱いていたのだが、そうこうするうちにニフティ側の担当者が転職してしまい、それに伴って電子書籍化の話もうやむやになった。どうやらたいして旨みがないらしいということがすでに判明していたことも、一因だったのかもしれない。

 大量のコメントがついた『シュガーな俺』ブログは、その後も何年間か放置されていたが、ある日ふとアクセスしようとしたら、跡形もなく消え去っていた。数々のコメントにひとつずつ丹念に返信した僕の血の滲むような努力と献身の証も、無用になったデータの塊として一瞬で消去されてしまったのだろう。

 だいぶ経ってから、ある病院では、「糖尿病患者の気持ちがわかる」という理由で、病棟勤務の看護師たち全員の間で『シュガーな俺』が回し読みされているといった話が伝わってきた。そういう形では、この本も広く浸透し、一定の貢献を果たしたのかもしれない。

 またこの本は、糖尿病専門医やその業界団体などからは注目されていたらしく、糖尿病がらみのシンポジウムに声がかかることが、その後何年も続いた。基調講演やパネリストとしての参加を依頼され、在住している東京から名古屋に大阪にと足を運んだが、講演料が出るとはいっても、小説家としての僕にとってさしてメリットのある話でもない。もともと人前で話すのが苦手なのを押してまで登壇することに意味を見出せず、ある時期からはそういう話があっても断るようになってしまった。

映像化のオファー

 実は、この小説についても、映像化のオファーはたびたびあった。ただし、小説の映像化は、「三〇〇〇にひとつ」と言われるほどハードルが高い。二作目の『忘れないと誓ったぼくがいた』も、最終的に映画化が実現するまで、浮かんでは消える映像化企画が七つか八つはあったと思う。

『シュガーな俺』でも何度となく似たような肩透かしがくりかえされたあげく、ある企画がついに、王手をかける段階まで達した。スポンサーも続々と決まり、脚本も改稿に次ぐ改稿を経て「第13版」にまでなっていた。ついには原作の使用料まで振り込まれたので、これはもう確定だろうと思っていたのだが、ある時期からぱったりと続報が途絶え、それからすでに五、六年が経過している。おそらく、土壇場で資金繰りが頓挫し、企画そのものが空中分解してしまったのだろう。

 なお、本作は二〇〇九年一〇月に、一度、新潮文庫に入っている。当時の文庫編集部の担当編集者が、単行本を読んでおもしろいと思い、ぜひ新潮文庫のラインナップに加えさせてほしいと持ちかけてきたのだ。新潮文庫なら初版部数の最小ロットも他社より桁違いに多いし、小さな書店にも置かれる確率が高いから、これで起死回生が図れるのではないかと期待したが、結果はやはり不発に終わり、この新潮文庫版『シュガーな俺』は、瞬く間に絶版の憂き目を見た。ほとほと恵まれていない作品である。 

わずか三作目という誤算

 せめてくだんの映画化企画が実現していれば、少しは話も違ったのかもしれない。しかし現実にはそれもかなわなかった中、この小説を刊行したことは、いったい僕に何を残してくれたのだろうとときどき思うことがある。むしろ、マイナス面のほうが大きかったような気さえするのだ。

 問題は、この作品が、僕のビブリオグラフィーにおいてわずか三作目にすぎなかったという点にある。

 当時の僕は、まず『ラス・マンチャス通信』という、一般受けからはほど遠い物語でデビューして、そこでついてしまったケチを、二作目の『忘れないと誓ったぼくがいた』でどうにか振り払ったところだった。両者は作風としては大きく異なるが、なんらかの「ファンタジー」要素があるという点では通底している。僕はたぶん、そこで大きく路線を変えるべきではなかったのだ。

 その二作に続いて発表したのが、糖尿病を主題としたなかば自伝的な小説とあれば、「いったいこの作家は何を書きたいのか」といたずらに読者を混乱させ、気持ちを離れさせる結果にしかならなかったのではないだろうか。

 最初の数作というのは、その書き手の「作家像」を形成する重要な契機となる。一作、二作読んでみて、気に入れば次も買う、というのが読者の心理だろう。その選択肢がまだ乏しいうちに、「この作家のテイストは自分に合う」と判断してもらうためには、内容もテイストも異なるちぐはぐなものをむやみに並べてしまってはいけなかったのだ。

 自らの糖尿病闘病体験を赤裸々に綴った小説――それもいいだろう。しかしそれを世に放つのは、何もこのタイミングでなくてもよかったのではないか。せめてあと何作か書いて、「平山瑞穂」という作家像がある程度定まり、一定の固定読者がついてからでも遅くなかった気がする。そうすれば、「あの平山瑞穂が、今回は意外なものを書いた」ということで、『シュガーな俺』自体への注目度も高まっていたかもしれない。

 三作目では、「意外」も何もない。まだ海のものとも山のものとも知れぬ状態なのだから。

 しかし僕は、新潮社のGさんによる忠告にもかかわらず、「功を焦って」いた。目の前に提示されたオファーに、一も二もなく飛びつかずにはいられなかった。そのことが、今になって悔やまれる。

 もちろん、『シュガーな俺』という作品を発表したこと自体が失敗だったと言うつもりは、毛頭ない。問題はあくまで、そのタイミングを誤ったことなのだ。世界文化社の売り方にも難点があったかもしれないにしても、「作家個人の糖尿病体験を小説にする」という担当編集者の発案そのものは、冴えたものだったと今でも思う。だからこそ、メディアもあれだけ殺到してきたのだ。

 企画としては勝算があっただけに、適切なタイミングを捉えそこねてしまったことは、いくら悔やんでも悔やみきれない。

その後

 さて、この『シュガーな俺』については、悪い面ばかり書き連ねてしまったが、ささやかながら「いい面」もなかったわけではない。それについても付言しておく必要があるだろう。

 二〇一八年七月から翌年三月にかけて、僕は『日刊ゲンダイ』に、『患者が語る 糖尿病と一生付き合う法』というコラムを週に一度、三二回にわたって連載している(現在でもウェブ版で読める)。糖尿病に罹患してから一四年ほどが経過した時点での現況、いわば『シュガーな俺』の続編とも呼べる代物だ。

 インスリンを打ちすぎて低血糖による昏倒状態に陥り、救急搬送された際の顛末や、その後発売された最新式の血糖測定器の効用などを綴ったものだが、小説家として行きづまり、路頭に迷いそうになっていた中、この連載から発生する原稿料は貴重な収入となった。ささやかといえばあまりにささやかな利得だが、これも『シュガーな俺』を発表していなければありえなかった企画だ。刊行から十数年を経過してもなお新しい仕事に結びついたという意味では、この作品からもなにがしかの恩恵を受けたのだといえなくもない。(続く)


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