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新しい平等とは、人間を能力で評価しないこと―僕という心理実験21 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmid

妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

過去の連載はこちら。

第2章 日本社会と決定論⑬―本当の平等とは何か?

親は選べない

 「努力できることが才能だ」と落合博満、松井秀喜、イチローは言う。私はこう思う。「努力出来る分野を発見し、それに労力を集中出来る環境にいる」ということは「運」なのだと。努力は自由意志に裏支えされない。
 
ゴルフの松山英樹選手の父親は、日本アマ選手権に出場経験があるゴルファーだった。恵まれた体躯、施された英才教育。松山選手がオーガスタで優勝し、グリーンジャケットを着たことはどこまでが事前に決まっていたことなのか?
 
親は選べない。つまり必然であり偶然だ。彼は確かにとんでもない努力をしたのだろう。しかし、努力出来る環境にいたこと、努力出来る運命にいたことも事実だ。同様に、努力出来ない環境にいる人もいる。努力出来る環境で努力した人だけを、選民だとして褒めそやす。努力出来ない環境で、努力しなかった人は貶められる。そんな社会はもうやめにしよう。

引きこもりの人と松山英樹選手は当価値だと思う。どちらも運命に従って、ただただ事前に決められた道を進んだ生物だとしか言いようがない。どちらも優れていないし、どちらも劣っていない。
 
ドラえもん15巻の『あやとり世界』では、のび太が自分の特技のあやとりが「皆からすごいと言われないから悔しい」と言って、もしもボックスを使って“あやとりのうまさが人間の最大級の価値とみなされる世界”にしてしまう。すると、のび太は世間から天才少年、名人として崇められる。このストーリーは、自分の才能がお金になるかならないかは、その社会的仕組みがほとんど運のようなものであるという問題をわかりやすく提示してくれている。

日本人ならば、野球が上手い人の方が、カバディに類稀なるセンスを持っている人よりも、尊敬や憧れが得られるだろう。しかしインド人であったならばこの関係は逆転しうる。ちなみに、ジャイアント白田は大食い日本一だったのに、それほど尊敬されていないように見えるし、水ダウでも雑にいじられている。もしもボックスさえあれば、彼は大食いの現役(選手)を辞めなかったかもしれない。
 
現在の日本人は、「勤勉であることが人生の成功にとって重要であるか?」という質問に対して、42%の人しかYESと言わないというデータがある。つまり努力しても無駄であるという悟りを多くの人が持っているのだ。

本当はもう皆、真実を知っている。それを認めたくないだけだ。世界の真相は、決定論なのだ。“強すぎた偶然”のことを“必然”だったと認識し直したことは、あなたにもあったろう。
 
人生の勝者、成功者だけが評価されるのは間違っている。大谷翔平はそりゃあすごい。人間の能力値の偏差値が高い。しかしそういった人間達は、既に十分な対価が得られている。地位や金や名声だ。運動神経、頭、顔面の偏差値が高い人間は、高所得や優れた配偶者を得やすいだろう。
 
そんな彼らをさらに「目指す」「崇める」「讃える」必要はあるのか? 人間は生まれによらず平等だとした四民平等の思想的な革命。次の時代の新しい平等とは、人間を能力で評価しないことではないか?

全ての人間は、存在するだけで素晴らしい

能力値の偏差値は、その後の人生で得られる利益に差を生む。それは仕方が無い。それを是正して欲しいとまでは言わない。だが彼らを尊敬することと、尊敬すべきだと社会全体で促すようなことはもうやめにしてみてはどうだろう。
 
本当は皆気がついているのに、なぜ見てみぬふりを続けるのだろう。お金の置き場所を頭で考えて、それを増やし続けるゲームが主業の上級国民なんかより、日々激務の中、プライドを持って人のために動いている介護士・看護師達の方が何千倍も美しいことに。
 
どんな人間でも、自分なりに悩み、苦しみ、それでも頑張って生きている。全ての人間は、存在するだけで素晴らしい。
 
パラリンピックのアスリートは“すごいから”認められるのか?「障害者だけれども、すごいから特別にマジョリティ側に入れてあげる。」そんな声が聞こえてくるのは、私の精神疾患ゆえの幻聴だろうか。
 
全ての障害者は、すごいことをしなくても尊重されるべきだろう。障害者だけではない。全ての命はそこにあることをもってして尊重されるべきであり、生まれ持っての能力の偏差値で価値を判断されるのはおかしい。

もしIQや運動能力の高い成功者、努力を積み重ねた彼らを崇めるならば、努力(と社会が認定するごく狭い何か)が出来ない身体を生まれながらに持たされた人や、(現状の社会が求めるごく限られた)能力が発揮出来ない状態の人、例えば自発呼吸が出来ず、発話することが不可能で、起き上がることも、意志の表示も出来ないような重度の障害者は、蔑まれることにならないか? 全力で生きているのに。
 
それは相模原で障害者を連続で殺したあの人物の思想と同じではないのか?
 
あなたが大谷翔平を尊敬する時、少なくとも部分的に「蔑むべき人間」がいると認めていることにはならないだろうか? 「人間の命には能力や努力によって明確な優劣があるのだ」と。目指すべき命があるならば、蔑むべき命もあることにはならないか? 論理の片方の端だけ否定して、片方の端は認めることが私にはどうしても出来ない。
 
能力は能力であり、それは人間としての優劣とは無関係だと信じたい(信じさせて欲しい)。そして、この思想には“想い(意志)”が必要になる。

誰も敬わず 誰も蔑むな
ただし 人の幸せを願い 人のために動け

(続く)


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