未来から来た人|日本をこよなく愛する92歳の「撮り鉄」J・ウォーリー・ヒギンズさんのこと
光文社新書で1年ぶりに続編が登場した、昭和30年代のカラー写真を集めた『続・秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』。著者のJ・ウォーリー・ヒギンズさんは、米国出身で、日本と日本の鉄道を愛するあまり、日本に移住してしまった、現在92歳の老紳士。鉄道ファンの間では撮り鉄として名前が知られており、これまで撮りだめてきた貴重な鉄道写真は、大判の写真集として出版され、日本写真協会賞や、鉄道友の会による賞(島秀雄記念優秀著作賞)も受賞している。
そしていま、彼の撮った写真は、鉄道写真としてだけでなく、当時の日本各地や人々の様子をカラーで記録した貴重な資料として、多くの日本人を魅了し、注目を集めている。
出版にあたり、取材、翻訳、写真整理に携わったライター・翻訳家の佐光紀子さんが、友人のウォーリーさんについて、文章を寄せた。2冊の新書からのウォーリーさんの写真を交えつつ、ご紹介する。
文/佐光紀子
写真/J・ウォーリー・ヒギンズ
タイトル写真:高知駅前(1962年5月26日)国鉄バスで松山へ向かうウォーリーさん。
ちょっと変なおじさん?
私がウォーリーさんと知り合ったのは、もう15年以上も前、原宿にある「東京ユニオンチャーチ」という教会でした。そこは英語で礼拝を行う超教派の教会で、日本に住むさまざまな国籍の人が通っています。私もその教会に通う一人でした。
教会で、慈善団体支援の会合に参加したときのことです。月に一回行われる会合の座長をつとめていたウォーリーさんは、おしゃべりを続けている私たちに向けて、拳でトントンと机をたたきました。ドキッとした瞬間、「じゃぁ、会合を始めます。欠席の人は名前を言って」。真顔でジョークを言って会議の開始を宣言します。真顔で冗談を言うのは、どうやら昔からのようで、周りも、「出た、出た、ウォーリーのジョーク」と笑いながら席に着くのが常でした。
座長としてはとにかく忍耐強く、人の意見をよく聞いてくれるウォーリーさんですが、会議が終わると、あっという間に荷物を片付けて帰ってしまいます。「今日は、アメリカの雑誌に頼まれて、会津若松まで写真を撮りに行くんだ。間に合わないから、これで帰るよ」と、さっさと引き上げてしまいます。何を撮りに出かけているのかは知りませんでしたが、とにかく時間に厳格で、実直。そんな印象でした。
表参道のお祭り(渋谷区)1962年9月4日 東京ユニオンチャーチ近くの表参道の通りが夏祭りの子どもで賑わう様子。写真左手に表参道の大通り。車道は舗装されているが、歩道は未舗装だ。
当時のウォーリーさんは、静岡に奥様のはま路さんと住んでいたのですが、教会には鈍行列車でやってきていました。「静岡からなら、新幹線の方が早いんじゃないですか?」というと、「新幹線は好きではないんだ」とのこと。
代わりに、東海道線で小田原まで出て、そこから小田急線、地下鉄と乗り継いで、教会のある表参道にやってくるというのです。私から見ると、けっこう、というか、かなり変な外国人でした。しかも、行き来や遠出には、愛用の「青春18きっぷ」を活用していると自慢げに説明してくれます。当時はその切符の存在すら知らなかった私から見ると、「なんだか妙に日本の切符や電車に詳しい、ほんとに変なおじさん」だったのです。
泉-上松川間(福島県)1959年9月7日 福島市と飯坂温泉を結ぶ福島電鉄飯坂線が、松川鉄橋を渡っているところを撮った一枚。左がわの車道には、疾走するバイクとリヤカー。車は見当たらない。
御茶ノ水の書泉グランデで
娘が中学に入ったころ、学校の宿題で山の手線について調べることになりました。「そういえば、教会で会合の座長をしているおじさんが、なんだか妙に電車や切符に詳しいから、どういうところに行けば情報があるか聞いてあげるよ」そう請け合って、ウォーリーさんに相談してみました。
「御茶ノ水の『書泉グランデ』という本屋さんに、鉄道の専門コーナーがあるから、そこに行くといい」というのがウォーリーさんの答えでした。ウォーリーさんとはそれまで、ほとんど日本語で会話をしたことがなかったので、そんな日本の本屋さんのことをよく知っているのねぇ、と内心ビックリ。
ところが、娘と出かけた書店で、娘と私はさらにビックリするようなものを見つけます。「J・ウォーリー・ヒギンズ著」と書かれた、1冊何千円もするような、彼の鉄道写真集が、何巻もずらりと書棚に並んでいたのです。そして著者紹介の欄にあった「JR東日本の顧問」との文字にまたビックリ。だからあんなに電車に詳しかったのね、と納得しました。
「ママ、ちょっと変わったおじさんだって言ってたけど、ウォーリーさん、ずいぶん偉い人みたいだね?」娘に言われて、「ほんとねぇ。ちっとも偉そうにしてないから、全然知らなかったわ」と今までの自分の態度を反省しつつ、なんだか誇らしく思ったのを覚えています。
御茶ノ水駅付近(東京都千代田区)1959年2月8日 お茶の水橋から聖橋方向を撮影。右手奥にニコライ堂の屋根が見える。中央に緑と黄色の都電も。
御茶ノ水駅付近(東京都千代田区)1964年8月2日 上の写真から5年経った御茶ノ水。撮影場所は若干異なる。右手に中央線、左手に都電、真下は丸ノ内線の線路だ。
日本に来る前から
ウォーリーさんは、1956年にはじめて、日本にやってきました。当時29歳。発表されているプロフィールに、「米軍の軍属として来日」とあるので、一部SNSなどでは、GHQの軍人だったと思っている方や、なかには「スパイだったらしい」なんて書いている方も見かけますが、「軍属」というのは、軍に所属している「軍人以外の人たち」を指します。
ウォーリーさんのお父さんは、彼が子どもの頃は鉄道会社に勤めていましたが、大学生になった頃には米軍の仕事をするようになっていました。軍人ではなく、軍で物流関係の仕事をしていたようです。そんな関係もあって、彼も軍の仕事(これも軍人ではなく)に就いたようでした。
そしてとうとう、ウォーリーさんが日本に1年間派遣されることが決まります。彼の家族の中ではすでに、軍医だった叔父さんが、20世紀の初頭に日本に来ていました。ですから、ウォーリーさんが日本に来ることになったとき、叔父さんが日本の地図(JTBの前身である「The Welcome Society of Japan(喜賓会)」発行のもの)や、横浜で使っていた切符の回数券などを資料として渡してくれたといいます。そして、それを彼は今も、大切に持っています。
日本に来る前に彼が入手していたもう一つの大切なものが、「日本語の時刻表」です。こちらは、彼より一足先に、呉に赴任していた米軍の関係者からもらったもの。この人も言わずと知れた鉄ちゃんで、日本にいる間、セッセと日本中を回っていました。ウォーリーが来日当初持っていた情報は、彼によるものが大きかったと思われます。
呉市長浜(広島県)1959年9月20日 もちろん呉にも出かけて写真を撮っている。呉市内の市電は一路線のみで、繁華街を広町の方へと抜けていく。
おそるべき鉄ちゃんネットワーク
しかし、インターネットも、電子メールも、SNSもない時代に、どうやって、呉で仕事をしていた鉄道ファンと、これから日本に向かおうとしている鉄道ファンが出会えるものか……。実は、シカゴ在住の鉄道ファンの知人が、呉から帰ってきたその人と、ウォーリーさんを引き合わせてくれたのだとか。
鉄ちゃんネットワーク恐るべし。60年以上も前のアメリカのシカゴで、アメリカで唯一だったかもしれない日本語の時刻表の受け渡しが行われたときの様子を、思わず想像してしまいました。
当然ながら、彼もウォーリーさんも、日本語は読めなかったわけですが、基幹列車については英語の時刻表があるので、それと地図を元に判読すれば、この時刻表はローカル線に乗る際にも非常に有益だというアドバイスを受けた、とウォーリーさん。日本語の文字が読めないわけですから、漢字の形を地図上で拾って、それに対応する列車を探して……というのは、怠け者の私には、気の遠くなるような作業です。
私がそう言うと、ウォーリーさんはキョトンとしていました。何がそんなに大変なんだ? そう。好きな電車に乗るためなら、パズルのような漢字の地図を読み解くのなんて、ちっとも苦ではなかったのでしょう。
彼はそうやって、日本に来る前から、周到に、日本での鉄道の旅を準備してきました。読み込んだ時刻表は、今でもウォーリーさんの手元にあります。その時刻表と、呉にいた友人がくれた「呉の基地で働いている日本人が作ってくれた列車のリスト」を元に、彼は日本での鉄道の旅を始めたのでした。
伊奈駅(愛知県)1961年5月21日 鉄道だけでなく鉄道ファンの姿をおさめた写真も。名鉄が新たに走らせたパノラマカーをひと目見ようとホームで待つ鉄ちゃんたち。
鉄道だけでなく、日本も好きに
こうして来日したウォーリーさん。最初の1年は、横須賀に停泊する軍艦に寝泊まりしていました。入国前から「日本国内での電車での旅の仕方を考えて」ワクワクしていた様子は、昨年刊行した光文社新書の第1弾『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』のまえがきで描写されています。休みごとにあちこちに出かけては、電車の小旅行を続けていました。
そんなことをしているうちに、日本の鉄道だけでなく、日本や日本人のことも大好きになっていく様子が、新刊である第2弾『続・秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』のまえがきで書かれています。
曰く、「……全く話の通じない私を目の前にして、(日本の人々は)ああ言っているんだろう、こう言っているんだろうと、みんなが私を巡ってあれこれ相談しているのがわかる。彼らは決して放り出さずに、こちらの要望を推察してくれた。そして、これかな、というものを持ってきてくれたり、してくれたりするのだが、それがほとんどの場合、こちらの期待以上だった。これが、私が日本を好きになった大きなきっかけだ」
そして1年の勤務を終えた後、2カ月の休暇を得たウォーリーさんは、日本各地を回る旅に出ます。日本各地と言っても、彼が目指すのは、全県制覇でもなければ、名所旧跡を回ることでもありません。あくまでも、彼が持っていた鉄道リストの中で、彼が乗りたいと思っていたものを中心に、鉄道の旅を楽しむことだったのです(彼が、日本の鉄道のどんなところに惹かれたのかは、また別の機会にお伝えできたらと思います)。
衣笠山公園(神奈川県横須賀市)1956年4月10日 はじめて日本に来てから1週間ほどして撮った写真。「桜を見に行きたい」と言ったら、同僚が教えてくれたのが衣笠山公園だった。先生らしき人と桜並木を歩く子どもたち。
衣笠山公園(神奈川県横須賀市)1956年4月10日 桜を見終わって坂を下っていく途中で出会った家族。これから桜を見に行くところだったのだろう。
「カラーフィルム」の秘密
実は、カラー写真で話題のウォーリーさんは、(当然ながら)白黒でも撮影をしています。「撮り鉄ヒギンズ」としての写真は、むしろ白黒が中心だといっても過言ではありません。
ご本人によると、鉄道そのものの写真は、車体なども黒っぽいものが多く、車両そのものに焦点を当てているので、カラーである必要性が低いとのこと。また、写真の多くは複数枚撮影して、撮り鉄仲間と交換したり、プレゼントしたりするのに使っていたので、枚数が必要なこともあり、安上がりで、劣化も少ない白黒を愛用していたそうです。
一方、風景(もちろんそこに鉄道は必須ですが)に焦点をあてて撮る時には、カラーの方がずっと面白いと、日本に赴任になる半年ほど前のメキシコ旅行で気がついたというウォーリーさん。日本では、風景写真は意識してカラーフィルムで撮るようにした、と言います。
また、滞在途中から、機会があれば日本に住みたいと思うようになったウォーリーさんは、家族や友人たちに、その日本の魅力や、なぜ自分が日本に惹かれているかを伝えたくて、カラーで日本の景色を撮り続けたといいます。
後楽園(東京都文京区)1961年10月29日 後楽園ゆうえんちのメリーゴーラウンド。カラフルな提灯が下がっている。
普天満神宮(沖縄県宜野湾市)1958年7月31日 奥には幼い子を抱いた母親と子どもたちの姿。夏の空がまぶしい。
当時、日本ではほとんど手に入らない高級品だったカラーフィルムですが、基地内にはアメリカと同じ価格で買い物のできる店がありました。当時の日本の市場に出回っているよりはるかに安価に、コダクロームを入手することができたのです。
ウォーリーさんによると、当時のコダクロームのフィルムは、現像料込みの価格で売られていたそうです。だから、「現像はアメリカでしていた」とウォーリーさん。アメリカまで送って現像して、それが戻ってくるのですから、かなり時間はかかります。今のデジカメの感覚とはずいぶん違ったものだったのでしょう。
このように、当時でも決して安いものではなく、また手間もかかったコダクローム。廉価版のカラーフィルムに手を出さず、コダクロームで撮り続けたために、退色が避けられたのを、ご本人は「運が良かった」と言いますが、先見の明があったとも言えます。
日本では、1958年に富士フイルムが、カラーネガフィルムとカラーペーパーを発売。「富士フイルムのあゆみ」によると、「(1963年の)“N64”の発売により、(中略)国内市場における当社カラーフィルムの販売は急速に拡大していった」といいます。
あくまでも推測の域を出ませんが、写真については、当時アメリカが10年から15年ほど先を行っていたのではないかと思われます。そういう意味では、彼は発展途上の日本の写真市場に、未来からタイムスリップしてやってきたようなところがありそうです。
上本町(大阪府大阪市)1958年8月31日 シャープの洗濯機の広告が描かれた色鮮やかなトラックが目を引くが、サングラスにランニング、サンダル履きのライダーも目立つ。とはいえ撮りたかったのはいつだって路面電車だ。
消えゆくことが分かっていた――簡易鉄道の未来を知っていた人
未来からタイムスリップしてきたのは、写真の体験だけではありません。大好きな鉄道のフィールドでも、モータリゼーションの進むアメリカからやってきた彼には、日本の鉄道がこれから進む道が見えていたのだろうと思われます。それが、彼を軽便鉄道などのナローゲージ(狭いレール幅の鉄道のこと)の記録に向かわせたのです。
モータリゼーションの陰で鉄道が姿を消して行く現実は、遅かれ早かれ日本にもやってくるだろう。だからこそ、簡易で安価な作りで、人々の身近な足でもあった軽便鉄道や路面電車は、彼にとって、魅力的だったのです。
大沢温泉駅周辺(岩手県)1961年10月12日 花巻電鉄は幅が762ミリの線路を走る軽便鉄道で、ファンが多かった。この10年後には廃止となった。
しばらく時間が経っても、それほど変わらない姿でそこにあるであろう名所旧跡よりも、やがて消えゆくことがわかっている簡易な鉄道の方が、彼にとって遙かに魅力的だったのは、彼がある意味で「鉄道の未来」からやってきたからだと言えそうです。消えていくことがわかっていたから、すでに彼の祖国では見かけることがなくなったからこそ、彼には目の前にある鉄道の価値がわかったのでしょう。
日本でも、アメリカほどではないとはいえ、ある程度のモータリゼーションが実現し、多くの路面電車が姿を消しました。ウォーリーさんのこの本を見て、今、日本人の私たちが感じるのと同じようなノスタルジーを、当時のウォーリーさんはすでに感じながら、写真を撮っていたのではないかと思われます。
だからこそ、残しておかなければと、彼は撮り続けたのです。大好きな日本の光景としての、ありし日の軽便鉄道や路面電車の姿を。
鶴居村営軌道・新富士から中雪裡に向かう途中(北海道)1959年7月31日 釧路湿原の西の端には道路らしきものはなく、村営軌道が唯一の交通手段のようだった。乗客たちと女性の車掌が総出で貨車を側線から本線へと押して移し、客車と連結させている。
釧路市城山(北海道)1959年7月29日 釧路臨港鉄道は、釧路川の東岸沿いにある東釧路駅から2つのターミナルまでを結ぶ鉄道だった。写真の城山はその一方の終点。石炭を貨車に積んでいる。
前作よりさらにパワーアップして発売されたウォーリーさんの光文社新書の続編、年末年始の帰省のお供に、ご家族やご友人へのプレゼントに、ぜひお買い求めください…!未読の方は、第1弾もおすすめです。