【#13】思い出リゾート
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【#13】思い出リゾート

嬉野珈琲店へようこそ。
マスターは大の珈琲好きである「水曜どうでしょう」カメラ担当ディレクターの嬉野雅道さん。店ではこだわりの珈琲を淹れながら、マスターが人生のあれこれについてじっくりと語ります。マスター独特の視点から語られる、胸に詰まった息がすっと抜けるお話――。本日は、嬉野さんが小学3年生の時の、家族との思い出について。皆さんには、思い出すと穏やかな気持ちになれる、そんな心の拠り所となる思い出はありますか。

きみにはあるか、思い出リゾート

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あれは私が中学生だったか、高校に入ったばかりだったか、いずれにしても、私がまだ10代だった頃の話です。

たしか夏休みのある夕方だったと思います。晩ご飯の支度を終えた母が台所から2階の子ども部屋にいた私に「ごはんの出来たよー!(ごはんができたよ※佐賀弁です)」と、集合の声をかけてくれたのです。私は「はーい!」と、すぐに大きな声で答えました。ところが、母は再度、「ほら! ごはんの出来たて言いよろうが! ちゃんと返事ばせんね!(ほら、ごはんが出来たと言っているでしょう、ちゃんと返事をしなさい※佐賀弁です)」と、なぜか階下で一方的にキレ始めたのです。

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いや、これはおかしい。私は、ちゃんと返事をしたのに、どうして「返事がない」的なもの言いで一方的に母にキレられるのか。それで私も若干キレはじめ、だったらこれなら聞こえるかと、かなりヤケクソ気味の大声で「はーーいーー!!!」と、返したところ、どうしたことか、さらに母は語気荒く、「あんた! あたしになんべんでん呼ばせんしゃんな! はよう降りてこんね!(あなた、私に何回も呼ばせないで! 早く降りてきなさい!*佐賀弁です)」と、3度目を言い立てるのです。

それを聞いて私は反射的に「そいけん! さっきからなんべんでん! はーい!て言いよっじゃんね!(だから、さっきから何回も、はーいと言っているでしょう*佐賀弁です)」と、腹立ちまぎれに、まくしたて、どたどた階段を降りて行ったのです。

すると、食卓では、イラついた母とイラついた息子の間で、父だけが嬉しそうに笑顔を見せながら、「おまえたちは本当に面白いな」と言いだすので、「なんの話だよ」と、妙な入り方をする父に対しても若干イラついたわけです。

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ところが、解説してくれた父の話によると、母が、「ごはんが出来たよ」と私に呼びかけるたびに、私は毎回母の呼びかけが終わるのを待たず「はーい」と返事をしてしまうので、母の呼びかけが終わるのと同時に私の返事までピタリと終わってしまい、母が息子の返事に耳を澄ますタイミングには毎回沈黙が訪れて、母は「返事がない」と息子にキレだし、そうとは知らない私は私で、「だからこっちは、毎回きっちり返事をしている」と、母にキレていったらしいのです。

こうして、呼べば呼ぶほど、答えれば答えるほど、母子は下と上とでマヌケにキレてゆき、そんな双方の事情が明瞭に聞き分けられる場所にいた父だけが、こじれて行く原因が毎回残念すぎて実にバカバカしくて面白かったぞと種を明かすので、「なんだ、そんなことだったのかよ」と、私は頭を掻くしかなかったわけです。いやまぁこれってオチもない話で恐縮なんですが、でも、なんかですね、これほどとるに足らない出来事を50年近く経った今も忘れずに覚えているのですから、この日の記憶は、ひょっとしたら私の中では幸福な思い出になっているのかもしれんな、とも思うわけです。

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だって、あの日、ひとりだけ、ことの次第が分かる位置で母子の諍いを面白く聞いていた父にしたって、夏の日の夕食を前に、自分の妻と息子が、バカみたいな原因で、悪意もないのにいがみ合って行くそそっかしさが、単純に微笑ましかったかもしれませんものね。

20歳で終戦を迎え、そこから戦後日本を建て直してきたという自負の強かった戦中派世代の父としては、家長として、自分の家族のそそっかしさに、ふと平和を感じ、そんな平凡な家族と暮らす呑気さに心を慰められ幸せを感じたのかもしれんなぁと、今になって思うのです。

父が感じた小さな満足感が、あの日食卓で、イラつく母子を迎え、ひとり嬉しそうに微笑む父の顔に表れていたようで、あの日の父を思い出すのも、なんだか懐かしいんです。

もしかすると、私の人生が幸福に思えるのは、意外にこのような他愛もない子ども時代の記憶に、未だに私が慰められるからかもしれんなぁと思うのです。

過去の記憶に慰められ今の自分がリフレッシュする。たしかに私の場合、そういうことがあるみたいです。だから、私は、リフレッシュのためにわざわざリゾート地まで出かけなくてもよいのかもしれません。つまり、私にとって思い出は一種のリゾートなのかもしれない。私は自分の「思い出リゾート」に、リフレッシュされながら、ここまで幸福に人生をたどってきたのかもしれないのです。

まぁ、思い出をリゾート感覚で反芻するなんて、私だけがしてることかもしれませんが、とりあえず今日は、オチもない、そんな話をさせてもらおうと思っています。

隠された、子ども時代の思い出

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私は子どもの頃、「息子さんは、もしかすると白血病かもしれません」と、小児科のかかりつけ医に疑われたことがあったそうです。でも検査の結果は白血病ではなかったのですが、しかし、空振りに終わったとはいえ、両親はきっと気が気ではない時期があったことでしょう。しかし、私が白血病ではないと分かった後も、その事実は私には知らされないまま私は大人になり、私が初めてその話を聞いたのは父が亡くなってからのことでしたから、私はすでに43歳になっていました。

結婚以来ずっと父を精神的支柱にしてきた母は、2002年に父を亡くして以来とにかく独りぼっちになってしまったという気分が強かったようで、それを案じた私は、しばらくまめに帰省するようにしていました。

そんな帰省中に母と交わした思い出話の中から、幼い私が白血病を疑われたという話が、たまたま母の口から出たのです。

「あのときは、ほんに世話やったよ(あのときは本当に心配だったよ*佐賀弁です)」

母は当時の心情をそう振り返りながら打ち明けてくれました。それは実に30数年を経て初めて私が知る話でした。私は聞いて驚くというより、「え? なんだ、そういうことだったの?!」と、当時感じていたいろんな違和感にいっきに合点がいったのです。

だって奇妙だったのです、あのときの両親の態度は。それは私が小学3年の秋のことでした。

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何かがおかしい! 父と母に感じた小3の違和感

三人兄弟の末っ子だった私は、小学校に上がるまで、母の後ろを追いかけ回し、母が角を曲がれば、私も曲がるといったふうに始終チョロチョロつきまとうため、兄や姉からは「金魚の糞」と蔑みの言葉を投げかけられておりました。母にしたところで、うちの家業が寺だったものですから、朝から晩まで家事に掃除に追われる多忙な身であるのに、そこへうるさく私がつきまとうので、虫の居所の悪い日には、よく母の地雷を踏んで母に癇癪を起こされることも多々ありました。ところが私が小学3年の秋のことです。私がどこを踏もうが母は少しも癇癪を起こさなくなり、父からも叱られることがなくなったのです。

両親の態度が、どことなくおかしく思えてきたのは、当時、楽しみにしていた小学3年の秋のバス旅行を間近にひかえた、ある日曜日の晩に、私が熱を出して夜遅く掛かりつけの小児科医へ連れて行かれた辺りからでした。

一夜明けた翌朝、私の熱はあっけなく下がって、具合の悪さはまったくなくなり、私はすっかり元気になっていました。学校が嫌いだった私は、「あっけなく治っちゃったなぁ。1日くらい休みたかったなぁ」と、布団の中で落胆するほど元気になっていたのです。「仕方ない、登校する支度を始めるか」と観念していたら、両親から、「しばらく学校には行かなくていいから寝ていなさい」と予想外のことを言われたのです。

私は耳を疑いました。だって、私は朝からピンピン元気だったのです。それなのにどうして学校に行かなくていいのでしょう。いえ、別に学校に行きたかったわけではありません。だって私は学校に行くより家にいる方が好きな子どもでしたから、内心では大いに悦んだのです。とはいえ、それはそれで、この展開があまりにも不自然なのは否めないのです。

まるで狐につままれたような心境とでもいうのか、子ども心にも、何かが、つっかえたようで、どうにもしっくりこないのです。

驚愕! おとうさん!あなたもですか!

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だって学校を休むのは、風邪で熱を出して身体がだるいとか、食べ過ぎてお腹が痛いとか、なにかしら具合の悪い症状があるから休むわけで。なのに今や私は熱もなく、普通にお腹だって減るのです。なにより、そうそうは寝ていられないほど元気なのです。それなのに「学校に行かなくて良い」だなんて。

これはどういうことでしょうか。いや、もちろん、病気は治りかけが大事ですから、これまでにも「症状が治っても大事をとって休ませる」という両親の判断はありました。でも、そんなときは、たとえ元気になったとはいえ「お菓子なんて、もってのほか!」と、食べるものは母から厳しく制限されていたのです。それがどうしたことでしょう、その母が、今回は何を食べても叱らないのです。いや、そればかりではありません。「何か、食べたいものはないか?」と聞いてさえくるのです。まるでそこには、「食べたいものがあるのなら、食べさせてやりたい」とでも言いたげな母の底意が見えるようで、子ども心にもまったく経験のないパターンだっただけに、どうにも落ち着かないのです。

なかでも不可解だったのは、少し前に近所のスーパーへ買い物に行く母のお供をしたとき、お菓子コーナーで豪華なオマケの付いた素晴らしいお菓子を見つけ、ダメもとで、「あのお菓子……欲しいなぁ」と、かなり遠慮がちに母にねだったところ、「そんな高いものはダメにきまっとろうが!(そんな高いお菓子はダメにきまっているでしょう*佐賀弁です)」と、言下に否定された、そのお菓子を、何を思ったか母が買って来たことです。

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それは、ちょうどクラスメイトたちが、私が行きたがっていた秋のバス旅行に出かけた日のことでした。母は、旅行に行けず家で寝ている私が不憫だったから買って来たよというのです。それを聞いて私も一旦は素直に悦びましたが、しかし、私の9年余りの子ども人生を振り返っても、たかが小学校の秋のバス旅行に行けなかったくらいで、普段、絶対買ってくれないようなお菓子を買ってくれるとは思えない。どうも怪しいのです。そして、決定的に私が驚いて戸惑ったのは、寝ている私に、ニッコリ微笑みながらお菓子をくれた母が、悦ぶ私を見ながら、不意にエプロンの端をつかんで、

「ほんにねぇ、可哀想にね。代わらるんもんなら、あたしが代わってやろうごたっよ(ほんとうにね、可哀想にね。代わってやれるものなら私が代わってやりたいよ*佐賀弁です)」

と、おいおい泣き始めたことでした。

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これは、ただ事ではないでしょう。いきなり私の枕元で母は泣き出したんですから。私はいよいよ混乱しました。まさか、バス旅行に行けなかったくらいで私を不憫に思ってここまで泣くわけはないんですから。とはいえ、そうでないのなら、なんで母は今、こんなにまで泣いているのだろう。私は、母を前に唖然とするばかりでした。

お陰で、せっかく母が買ってくれた高級お菓子も、ちっともうれしく思えなくなり、私にはそこが残念でなりませんでした。

さらにその晩、大阪出張から夜遅く帰ってきた父まで、「まさか」と思うおもちゃを私に買って来たのです。それは当時、佐賀の田舎では売っていなかった「GIジョー」という兵士の人形だったのです。その人形は手足の関節が全て動き、ライフル銃をマシンガンに持ち替えて構えることもでき、当時の子どもの間で大人気なおもちゃだったのです。そんなものを父は買って来たのです。私は、包みを開けてその事実を知り、息を呑み、心の中で絶叫したのです。

「おとうさん! どーしてこんな高価なものを!」

もはや、母に次いで父までも、やってることが理解不能になってしまったのです。

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可哀想に9歳の私は、あんなに欲しかった高価なものを次々に手にしているのに、ちっとも心の底から悦べない。だって悦びが湧き上がる前に戸惑いが襲ってくるんですから。そういうことなんですよ。いくら子どもだって、もらう理由もないものをもらったら、「なぜだ!」と、不可解が募るばかりです。お陰でちっともうれしさは込み上げて来ません。

とはいえ、せっかく父が大阪から高価なおもちゃを買ってきてくれたんですから、悦ばないわけにもいかないとも思ったので、私は、いちおう父の前で大いに悦んでみせはしたものの、果たしてどんな顔つきになっていたのやら。

でも、そのときの謎の数々が、30数年を経て母の述懐で、すべてに合点がいったわけです。

「そうか、あのとき私は白血病かもしれないと疑われていたのかぁ。それで両親は、とりみだし、私を不憫に思い、あれほど唐突に私に優しく接するようになってくれていたのかぁ」

母の話によると、小児科の先生は、私が診察に連れられたあの日、血液検査をしたのでしょう。そして、その検査結果のある数値に気がかりな予感があったらしく、「まさか」と思いながら、いや他の可能性も考えられると、さまざまに想定される病気の検査をして行き、私はその度に病院へ出向き、父と母は、私の知らないところで小児科の先生からこの先の見通しを聞かされていたようなのです。そして、「これかもしれない、あれかもしれない」と検査した結果、ことごとく違い、父と母は「これで、もう、あと残るのは白血病しかありません」と、小児科の先生に告げられ、大いに緊張したというのです。でも検査の結果、私は、その白血病でもなかったというわけです。

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かくて、小児科の先生の懸念は杞憂に終わり、両親はホッと胸を撫で下ろし、でも、その顛末を私に聞かせてやろうにも、どう切り出したものかと迷ううち、きっと父も母もめんどうになったのでしょう、私は、何も知らされないまま、1ヶ月半ぶりで再び学校へ通い始めることになったのです。

久しぶりに登校した日のことは今でも覚えています。私はその日の朝もきっと病院へ行ったのでしょうね、私の記憶では、私が、学校に着いたときには、もう全校的に授業は始まっている時間でした。校舎はしーんと静まり返っていて、私はあまりにも久々の登校だった上に、登校時間も過ぎていたので勝手が違い過ぎて、だんだん緊張してきて、そんな中、私はひとりで上履きに履き替え、だれもいない廊下をたどり、ドキドキしながら自分の教室へ向かったのです。教室の前まで来ると授業中で、私が教室の後ろのドアを控えめにガラガラと開けると、クラスメイトたちの目が一斉に私に注がれ私はさらに緊張したのです。振り返ったみんなも、長いこと休んでいた私の突然の登場に驚いた顔をしていました。母から連絡を受けていたのでしょう、担任の女の先生が私を見とめると、うなずいて席に着くように目でうながしてくれました。そして、みんなには、「はい。黒板に注目するように」と声を上げ、授業は再開され、そのあと私はどうしたか、何も覚えていません。

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思い出は不思議です。思い出せば、そのときに感じていた自分の気持ちまでが蘇ってくるのですからね。懐かしい曲を聴いたときに、その曲が流行っていた当時のいろんなことまでが切なく鮮明に思い出されるように、あのときのクラスメイトの気配も、そこにあった静寂も、あの日、私に感じられたことのいろいろが、あのときのまま思い出の中に残されていて、思い出すたびに私は今もあの日を味わうことができるのです。まさにここが、私の「思い出リゾート」なところです。

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自分の中に分からないことがたくさんあるって、とってもクレイジーで良いじゃないか

つい最近聞いたことで、すごく驚いたことがありましてね。それは、とてもおかしな話でしたよ。なんでも、私たちの意識が思いつく前に、実は私たちの無意識の方が先に思いついて私たちの身体を動かしているんだというのです。言ってることが分かりづらいかもしれませんが、つまり、私は珈琲を飲みたいと思って動き出したと思っていますけど、本当の順番はそうでなく、まず私の無意識が先行して動き出し、それを私の意識が後追いして「お、そうか、オレは珈琲が飲みたいと思ったから、今、珈琲を淹れようとしているんだな。多分そうだ珈琲でも淹れよう」と、後から辻褄を合わせているんだそうです。

「本当かよ」と思いますけど、どうもそうらしいんですよ。もちろん私たちの意識に先行して無意識が動き出すとはいえ、そのタイムラグは、もんのすごく短い時間らしいんですが、でも、私たちが意識するより先に無意識が僅かに早く動き出しているというのは、どうやら本当のことらしいんです。

いったい、どういうこっちゃと、それを聞いたときに思ったのは、無意識が私の意識に先行して私という個体を動かしているのなら、私の意識って、無くたって、私は生きていけるということなんだろうかという疑問でした。

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いやまぁ、こんな面倒なことを、こんな終わろうかというところへきて、今更始めるのも乱暴な話なんですけど。でも、ひょっとしたら私たちの意識って、私たちの勘違いみたいなことなんだろうかと思ったら気になりましてね。

だって、生きるってことを無意識が思いついてこの身体を引っ張ってくれてるんなら、「違う、違う。そんなもんオレが全部やってるに決まってるだろ」って思い込んでる私の意識って、例えば、映画館で映画を見て席にふんぞりかえって座ってるだけのやつなのに、そいつはスクリーンで展開されてることを全部自分が思いついて動かしていると思い込んでいるだけのやつ、ってことなのかもしれませんもんね。それが私らの意識の実像。そんなバカなねぇ。

いや、なんでこんな分かりづらいことをわざわざこんな最後に書いているかというとですね。私の意識が、「今、体験している」と思い込んでいるこのリアルな今がですよ、ひょっとしたら、映画館で映画を見てるみたいなことかもしれんと思うとね、ここからすでに思い出と同じ手順で、今というものを体感しているんじゃないのかなぁって、ふと思ってしまったからなんです。

あぁまた分かりづらい。でも、思い出の中に、いつまでもあの日の気持ちが鮮明に残っているってことは、元へ返せば、そもそも、「今やってる!」と実感しているこの今も、ひょっとしたら、すでに思い出と同じ手順で思い出してるってことかもしれないなぁと思ったものですからね。思い出と同じように今を感じてるから、何年経とうが鮮明に蘇るのも不思議ではないのかもしれないと、そう思ったんですね。あぁ伝わらない。

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でも、私はずっと怪しんでいるのです。人間の脳って、自分のものなのに、さっぱり目指しているところがわからないって。だって私たちが信じて疑わない自分という意識だって、この肉体のどこにあるのか未だに分からないらしいですからね。なんか人間って、考えれば考えるほど、そもそもの存在の仕方がクレイジーですよね。でも私は、この世界の成り立ちや運航の仕方がクレイジーと思えるとき、この世の裏側が見えるようで、一番ワクワクするんですね。

いやもうダメだ、まるで伝わらない。それでは皆さん、また次回もこれに懲りずにお越しください。お待ちしています。
(次回は9月30日更新です)

嬉野雅道(うれしの まさみち)
1959年生まれ。佐賀県出身。「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)のカメラ担当ディレクター。愛称は「うれしー」。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞優秀賞など多くの賞を受賞したドラマ「ミエルヒ」では企画を担当し、福屋渉氏とともにプロデューサーも務めた。「愛と平和と商売繁盛」「負けない」がモットー。どうでしょう藩士と奥様に人気。著書は『ひらあやまり』『ぬかよろこび』(ともにKADOKAWA)など多数。

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