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ワインの噴水、数千頭の羊肉…「金襴の野の会見」とは!? 君塚直隆『王室外交物語』第3章を特別公開!

『立憲君主制の現在』(新潮選書)でサントリー学芸賞を受賞、『エリザベス女王』(中公新書)で新書大賞2021に入賞、イギリス王室やヨーロッパ国際政治史などに関する数々の著作で人気の君塚直隆氏が、新刊『カラー版 王室外交物語』(光文社新書)を刊行いたしました。物語は紀元前14世紀から21世紀までの3500年におよび、舞台も中東、アジア、ヨーロッパ、そして日本と壮大に巡ります。さらにカラーの写真、資料、地図も満載の贅沢な1冊です。ここでは特別に、「第3章 宮廷外交の黄金時代――1520~1913年」から、冒頭「饗宴外交のはじまり――金襴の野の会見」を公開いたします。国王同士の見栄の張り合いのスケールの大きさに驚かされます…!

王室外交物語_帯付RGB


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第3章 宮廷外交の黄金時代:1520~1913年


饗宴外交のはじまり――金襴の野の会見


15世紀半ば以降に、ヨーロッパ各地に「常駐大使館」が徐々に設置されるようになり、17世紀後半までに大使館には豪奢(ごうしゃ)な建造物が使われ、そこで外交官らによって繰り広げられる饗宴(きょうえん)も、「外交」にとってきわめて重要な意味を持つようになっていく。

その先駆けともいうべき饗宴外交が、今から500年前に行われ、そののち長きにわたりヨーロッパの外交世界で語り草となってきた「金襴の野(The Field of Cloth of Gold)の会見」と呼ばれる一大ページェントであった。

会見が行われたのは、フランス北部の港町カレーから南西に17キロほどの場所にあるアルドル。ここにときのイングランド国王ヘンリ8世(在位1509~47年)とフランス国王フランソワ1世(在位1515~47年)が、大勢のお供を引き連れてまさに鳴り物入りで乗り込んできたのだ。トランペットが華やかに鳴り響くなか、2人の国王は黄金色の衣装に身を包み、馬上で抱き合った。王とともに入城した3000人の兵や馬も、すべて真紅のベルベットの衣装やきらびやかな金具で飾り立てられていた。

この会見は、1520年6月7日から24日までの18日間にわたり続けられた。これに先立つこと2年前、1518年にヘンリが音頭を取るかたちでヨーロッパ中の主要大国と20ほどの中小国との間で「ロンドン条約」が結ばれた。その前年の1517年10月にドイツ中部のザクセンでマルティン・ルター(1483~1546)により「95ヵ条の提題」が出され、ローマ教皇庁の腐敗が糾弾された「宗教改革」が始まったのである。ヘンリはこのルターの動きを早期に止めようと、キリスト教徒の王侯らが一致団結して「普遍的な平和」を築くべきであると提唱したのである。

当時のヨーロッパ国際政治は、まだ国王に即位したばかりのフランソワ1世とスペインのカルロス1世(在位1516~56年)との競合関係によって大きく左右されていたが、両王ともにロンドン条約に調印し、ヘンリは「平和の調停役(ピース・メイカー)」を気取っていた。

301_ヘンリ8世

イングランド国王ヘンリ8世


ところが所詮イングランドなど当時は二流国にすぎなかった。フランソワもカルロスも「先輩」であるヘンリの顔を立てて条約に調印したものの、和解はわずか1年で瓦解(がかい)する。1519年にカルロスの祖父でハプスブルク家の当主マクシミリアン1世が崩御(ほうぎょ)し、ここに新たな神聖ローマ皇帝を選ぶ選挙が行われることになったのである。

第2章でも論じたとおり、すでに15世紀半ばから皇帝にはハプスブルク家の新当主が選ばれる「慣習」にあったが、ここに異変が生じてしまう。皇帝を選ぶ選挙権を持つ選帝侯のなかには、ルターの唱える宗教改革に賛同するものたちが複数おり、ローマ教皇庁の熱心な支持者であるカルロスの姿勢に反発していた。ルターの活動を支持した彼の領主にあたるザクセン選帝侯がその筆頭であった。そこにフランソワがつけ込んできたのである。

こののち皇帝選挙は熾烈(しれつ)を極めた。フランソワは選帝侯らに莫大な黄金を贈り自身への投票を要請した。対するカルロスも買収作戦では負けてはいなかった。このときフランソワが用意した黄金は、重さにして1・5トンに及んだとされる。しかしカルロスにはかなわなかった。彼は2トンぶんの黄金(85万フローリン)をばらまき、見事当選する。ここに神聖ローマ皇帝「カール5世(在位1519~56年)」が登場した。それはカール(以後、本書ではカール〈5世〉と呼ぶ)が手に入れた71番目の称号であった。カールは様々な相続の関係から18もの王冠を戴(いただ)くヨーロッパで最大の実力者となっていた。

ここに亀裂が入ったカールとフランソワとの関係を何とか修復したい。ヘンリ8世は、翌1520年の5月末と7月、すなわち「金襴の野の会見」をはさむかたちで、カールと二度にわたり会談し、金襴の野ではフランソワと会見して、両者の和解に尽くしたのだ。

302_フランソワ1世

フランス国王フランソワ1世


しかしなぜ「金襴の野」と呼ばれるのか。

フランス王はこの草原に、金糸で編まれた布に覆われた巨大なテントをいくつも設営した。最大のものは高さ36メートルにも及んだとされる。まさに草原全体が金襴で覆われているかのような豪華さであったといわれる。

対するイングランド王も豪華な布地と木材で全長100メートルにも達する仮宮殿を設営した。当時は貴重品だったガラスもふんだんに使われたため、フランス側は「水晶宮(クリスタル・パレス)」と呼んだとのことである。それぞれのテントや仮宮殿には、英仏双方の技術の粋を結集した様々な工芸品が配された。これまた英仏両王の意地の張り合いだった。

ただし今回はイングランド王に軍配が上がったのかもしれない。会見2日目の6月8日、アルドルの上空に巨大なドラゴンが突如姿を現したのである。それはイングランド側が準備した巨大な凧(たこ)であった。見事な色彩が施された凧は口から火を噴く花火までしかけられ、大空を優雅に飛翔した。これにはさすがのフランソワ1世も呆然(ぼうぜん)とするしかなかった。

贅を尽くした饗宴の数々


18日間に及んだ会見ではあったが、政治的な話し合いはほんの少しだけ。あとは騎乗槍(やり)試合や格闘技、祝祭、そして日曜にはミサなどが行われ、両王は心ゆくまで楽しんだ。ヘンリとフランソワが揃っての宴会は3回(6月10・17・23日)のみ行われ、あとはそれぞれの王妃やヘンリの妹で先代のフランス王に嫁いだメアリや、当時フランソワの庇護(ひご)下にあったナヴァラ王エンリケなども交え、双方のテントや仮宮殿を訪ねての午餐(ごさん)や晩餐が催された。「金襴の野」に集まったのは英仏総勢で1万2000人にのぼった。

6月10日の晩餐は、200名の紳士と134名の淑女が参加し、ヘンリは黄金の皿に載せた50ものコースを振る舞ったという。豚肉、牛肉、羊肉、キジのシチューや、当時は高級な食材だった白鳥、そして雄鶏や子豚の丸焼き、鹿肉のパイなどがメインであった。

この18日間の会見のためにイングランド側が用意した食材は、羊と子羊が3406頭、仔牛842頭、牛373頭、各種の豚69匹など肉類だけでも大変な数に及んだ。しかもこれらの家畜はすべて生きたまま連れてこられ、食べ頃になって食肉処理されるまで牧草地で飼育されていた。さらに魚類は、ツノガレイ、ヒラメ、アナゴ、ザリガニ、そして哺乳類だがネズミイルカなどが、これまた食材として供されるまで真水や塩水の水槽の中で飼育され、晩餐の席に出されていった。加えて様々な種類の鳥類も6475羽(うち13羽が白鳥)用意され、使われた鶏卵は総計で9万8050個にものぼったとされる。

もちろんワインなどの飲み物にも事欠かなかった。ボルドーやブルゴーニュはもとより、近隣からも大樽が取り寄せられ、20万リットルものワインが供された。仮宮殿前には、そのワインが吹き出す噴水まで造られていたとされる。もちろんイングランド人の好きなビールも6万6000リットルも用意されていた。

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『金襴の野の会見』 馬に乗って到着するヘンリ8世の姿が(左下)


そして君主同士の会見ともなれば、「アマルナ文書」の古代中東世界の時代(第1章)から相も変わらぬ「贈り物の交換」である。残念ながら、「金襴の野の会見」でどのような贈り物が交換されたのかに関する詳細な記録は残っていないようであるが、フランソワ1世からはヘンリ8世にマントヴァ産の駿馬(しゅんめ)が贈られたようである。

第2章でもすでに紹介したとおり、16世紀になると王侯同士の贈り物はさらに豪華になっていった。先述のロンドン条約が締結されたとき(1518年)には、フランスからの外交使節にヘンリ8世は特大の銀製カップを52個も贈っている。さらに翌19年6月にはフランソワの次男アンリ(のちの国王アンリ2世)の洗礼式のお祝いに、豪奢な金製の食器類がヘンリからフランス王妃に贈られた。

この時代になると、それぞれの国の工芸技術の粋を競い合うような贈り物も頻繁に見られるようになる。金襴の野の会見では、最終日(6月24日)の別れ際に、ヘンリ8世からフランソワ1世にはダイヤモンドと真珠で彩られた頸飾(くびかざり)が、フランソワからヘンリには数々の宝石がちりばめられた腕輪(ブレスレット)がそれぞれ贈られ、友好を確かめ合ってそれぞれの帰路に就いたとされる。

この「金襴の野の会見」には、果たしていくらぐらいの費用がかかったのであろうか。フランソワの側はおよそ40万リーヴル(当時の英貨にして4万ポンド)を使ったとされる。今日の貨幣価値に直すのはなかなか難しいことであるが、この当時、フランス王が手にした塩税(ガベル)が年間に40万リーヴルであったとされるから、それと同額になる。王の年収は300万から400万リーヴルの間とされており、年収の8分の1から10分の1をこのわずか18日間のためだけに使った計算になる。

対するヘンリはもっと大変だった。もともとウェールズの田舎豪族の出自から国王になった家(テューダー家)であり、父のヘンリ7世が辣腕(らつわん)を振るって年収を10倍に増やしてくれたものの、当時のイングランド王の年収は10万ポンド少し。そのヘンリ8世が、「金襴の野の会見」に要した金額は3万6000ポンドほどであったとされる。年収の3分の1を超えると同時に、通常の年間の宮廷維持費より高いくらいであった。

まさにルネサンス全盛期のヨーロッパにおける、国王同士の見栄の張り合いが最高潮に達したのがこの「金襴の野の会見」であったといえよう。しかしフランソワにとっても、ヘンリにとっても、「戦争」に比べればはるかに安く済んだのである。これより7年前にヘンリがフランス遠征に費やした金額は100万ポンド以上に達していた。自身の年収の実に10倍以上である。ヘンリにとって「外交」は「戦争」よりは安上がりだった。

とはいえ、これだけ贅を尽くした「外交」を展開したところで、「戦争」が起こらない保証などどこにもなかった。現に、「金襴の野の会見」から20年余を経過した1543年に、ヘンリ8世はカール5世に引きずられるかたちで対仏戦争に乗り出した。ところがカールはヘンリなどお構いなしにフランソワと早々に講和を結び、残されたヘンリが和平にこぎつけたのはそれから3年も経った46年6月のことだった。この間にヘンリは160万ポンド以上も遠征費につぎ込み、しかも結果は徒労に終わったのである。

宿命のライバル――カールとフランソワ

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著者プロフィール

コンパス写真

君塚直隆(きみづかなおたか)
1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『悪党たちの大英帝国』『立憲君主制の現在』(後者は2018年サントリー学芸賞受賞、ともに新潮選書)、『ヴィクトリア女王』『エリザベス女王』『物語 イギリスの歴史(上・下)』(以上、中公新書)、『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』(光文社新書)、『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書)、『女王陛下のブルーリボン』(中公文庫)、『女王陛下の外交戦略』(講談社)など多数。

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