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【第2回】いつから英語を始めるべきか?

■膨大な情報に流されて自己を見失っていませんか?
■デマやフェイクニュースに騙されていませんか?
■自分の頭で論理的・科学的に考えていますか?
★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、哲学者・高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!

今年から始まった「小学校英語」

2020年4月から日本全国の公立小学校で「英語」教育が始まった。これまで中学校でスタートした「教科」としての「英語」が小学校5年生から始まり、年間70コマの授業で成績が評価される。また、5・6年生が楽しんで英語に触れていた「外国語活動」は、3・4年次に実施されることになった。この英語教育方針の大幅な変更は、将来どんな結果をもたらすだろうか?

本書の著者・寺沢拓敬氏は、1982年生まれ。東京都立大学人文学部卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修了。オックスフォード大学日本問題研究所客員研究員を経て、現在は関西学院大学社会学部准教授。専門は、言語社会学・応用言語学。著書に『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社)や『「日本人と英語」の社会学』(研究社)などがある。

さて、読者は英語が得意だろうか? 仮に得意でなくとも、好きだろうか? 日本人にとって「教養」の一部とみなされる「英語」は、何歳から学び始めるべきだろうか? なぜ英語が苦手な日本人が多いのだろうか?

本書の特徴は、「小学校英語」を一種の社会現象とみなして、社会学的な文脈で検証している点にある。著者の寺沢氏は、「小学校英語」に賛成・反対の主張を表明するわけではなく、その本質的・構造的な問題点を指摘する。そこで浮かび上がってくるのが、「小学校英語」の抱える大きなジレンマである。

2011年から始まった「聞く・話す」を中心とする「外国語活動」は、「英語嫌い」が増えないように、小学生の頃から英語を楽しんで触れることを目的に導入された。つまり「遊びのようにして英語に親しむ」わけだが、実際には「遊び」だけでは「読む・書く」英語力は向上しない。結局、「教科」としての「小学校英語」が導入されたわけだが、今後「教科」として成績を評価されるのが嫌だという「英語嫌い」が増えたら、本末転倒ではないか?

ここで問題になるのが、誰が「小学校英語」を教えるのかという点である。英語が不得意な小学校教員が教えるよりも、ネイティブ・スピーカーを雇う方がよいだろう。しかし、地方自治体には財政的余裕がない。そこで文科省に泣きついても、「有効性が立証されていない」という理由から、財務省が首を縦に振らない。だから英語が不得意な小学校教員が教える状況が続き、ますます「有効性」が出ずに「予算」も付かないというジレンマ状態が続く。

本書で最も驚かされたのは、公立中学生に対する2つの「ランダム化比較実験」の結果、1つのモデルでは「小学校英語」の経験者と非経験者の間に英語力の有意差が認められず、もう1つのモデルでは「微弱な有意差」が認められたものの、その差は偏差値1~2点程度に過ぎないという事実である!

「小学校英語」の導入には、教員の配置・研修や教材・カリキュラムの整備など、莫大なコストがかかる。ところが、そのコストに対して「小学校英語」の有効性は偏差値1~2点程度に過ぎないというのである。安倍政権下に官邸主導で強引に進められた「小学校英語」だが、ここでも結局、現場だけが疲弊するという、何度も見慣れた光景が繰り返されているように映る。


本書のハイライト

小学校英語をとりまく条件は深刻かつ重大なものばかりであり、しかも、それらが相互に絡み合い、袋小路に陥っている。小学校教員は現場で日本の英語教育の屋台骨を支えるべく子どもと向き合うが、教育環境は一向に改善されない。文科省や教育委員会も条件整備のために奮闘するが、財務担当者は金庫の扉を固く閉ざしている。……確実に言えるのは、あらゆる立場の人々が満足する完璧な解決策はないということである。(p. 229)


第1回はこちら↓

著者プロフィール

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高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『ゲーデルの哲学』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。

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