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『斜陽』のかず子は、なぜ涙を流しながらも上原との道ならぬ恋に溺れたのか? #5_2

太宰治『斜陽』を、「浮気市場」=「不倫」をキーワードに読み直す視点を提示した前回。後編では、いよいよ具体的に作品中の人間関係に即して考察していきます。かず子はなぜ上原を愛してしまったのかーー。もはや「不倫」について考える文学作品として、『斜陽』は欠かせないテキストです。

前編はこちら

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上原の立場から不倫を考える

上原からみた不倫とかず子からみた不倫の2つがありますが、まず上原の心理からかず子という不倫相手について考えます。

上原は既婚者で、そのほかにも不倫相手がいました。ですから、不倫について倫理的な歯止めは存在しません。チャンスがあればいつでも、という心構えです。経験に裏打ちされた不倫偏差値も高そうで、そこに降ってわいたようにかず子が登場するのです。直治曰く「姉さんは美しく、(略)賢明」ということなので、上原としても、はじめて見るかず子を視覚的に魅力な女性と思ったことでしょう。

「東京劇場の裏手のビルの地下室」に入ってお酒を飲んだ帰りにかず子に突然キスしたのは、それなりの魅力があったからこそです。かず子の方は、それがきっかけで恋愛感情をいだくようになります(なってしまいます)。上原としては軽い気持ちでキスしたのに、かず子は家庭の事情からの精神的逃避もあって、徐々に上原への気持ちを高ぶらせていくわけです。

かず子は3度にわたり手紙を出して、上原のことが好きなこと、上原の子どもがほしいことを訴えというのは先述のとおりです。浮気相手としてしか見ていない上原としては、たいへんびっくりして当惑したことでしょう。かず子の手紙に返事を書くわけないのも当然です。

思いを募らせたかず子は、突然、しかも夜中に上原のもとに押しかけていきます。一夜の遊び相手としか見ていない上原は、その気持ちを隠そうともしません。上流階級のかず子なら性病の心配がなく、東京から遠い伊豆に住んでいるため秘匿の保証もあります。しかも浮気市場ではありえないくらい魅力度も高いです。上原の子どもをほしいというのが唯一の難点ですが、そのほかの観点からすると不倫相手として理想的な女性でした。

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上原はかず子に「遮二無二」にキスします。かず子からすれば「性慾のにおい」がするキスです。また上原は「しくじった。惚れちゃった」と言いますが、これは恋愛感情をいだいたという意味ではありません。セックスの対象として惚れたという意味です。上原は念を押します。「行くところまで行くか」と。これに対して、かず子が「キザですわ」と答え、否定しなかったので、上原としては、あとはタイミングをはかるだけと思ったに違いありません。

 いつのまにか、あのひとが私の傍に寝ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言の抵抗をした。
 ふと可哀そうになって、放棄した。
「こうしなければ、ご安心が出来ないのでしょう?」
「まあ、そんなところだ」

このように、上原は、かず子という魅力的な女性と一夜だけ肉体関係になりました。そこには愛情のかけらもありません。性欲のはけ口としてのセックスだったのです。かず子と違い、上原はそれ以上の関係を望んでいません。

ただしもう1つ、上原がかず子と肉体関係になった重要な理由として、上流階級に対する征服欲があったことは見逃せません。太宰が『斜陽』で描き分けているのは、上流階級と庶民の階級的な視座です。この観点から2人の性的な関係を描くことが太宰の意図なのです。

上原は上流階級に対して劣等感をいだいています。上原は告白します。

「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢なところがある。(略)僕は田舎の百姓の息子でね(略)」
「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑している。」

上原には直治を通じて上流階級に対する屈折した興味があり、畏怖があり、拒絶感があり、劣等感がありました。この上流階級に対する感情の裏返しとして、「おひめさま」のかず子を肉体的に征服したかったことが考えられます。かず子を征服することで、「鼻持ちならない傲慢な」人たちに対する優越感をいだけたはずです。この意味においても、上原の目的は一夜限りの関係で達成できたことになるのです。

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かず子の立場から不倫を考える

では、なぜかず子は上原と肉体関係になったのでしょうか? かず子は独身女性で、不倫相手としてわざわざ上原を選んでいます。上原はいったいどんな魅力を持っていたのでしょうか?

どうやら上原の見かけではないようです。なにしろ、かず子のお手伝いさんは上原を「小柄で、顔色の悪い、ぶあいそな人」と評していますし、かず子自身もはじめて会った時に上原に対して「お年寄りのような、お若いような、いままで見た事もない奇獣のような、へんな初印象を私は受取った」としています。

ところが、6年前に一緒にお酒を飲んだときにキスされて、それがきっかけで上原に対して思いを寄せていきました。とくに病気の母をかかえ、放蕩者の直治を弟にもつかず子が、現実逃避の手段として恋愛に逃げ込みたい気持ちは理解できます。それで6年間も、片思いの兆候である「美化」した上原に恋愛感情を増大させていったこともなるほど理解できます。もしこの延長線上にある上原だったら、次に会った時に肉体関係になったとしても自然のなりゆきと納得できるかもしれません。

ところが、問題はここからです。

かず子は6年ぶりに上原に再会します。目の前に現れたのは以前の上原でも、美化された上原でもありませんでした。見かけが変わり果て、たいへん醜い男性になっていたのです。「顔は黄色くむくんで、眼の赤くただれて、前歯が抜け落ち」ていました。生理的に拒否反応が出ますよね。

さらにかず子は、上原が自分を愛していないことも悟りました。キスをされた時に「性欲のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙だった」と描写されていますから。自分が愛情の対象として見られていないことを知ったかず子は、その時点でさっさと帰ってしまえばよかったのですが、上原と寝てしまうのです。

では、なぜかず子は上原と肉体関係を結んだのでしょうか?

2つの説明が可能です。ひとつは、上原の見かけではなく、才能に惚れていたというものです。心理学者ジェフリー・ミラー博士らの研究に、女性は排卵期になると、創造的知性をもつ男性に惹きつけられるという仮説があります。女性は排卵期と生理期を繰り返す特徴がありますが、ミラーらは女性の性周期と芸術的才能をもつ男性への好みについて実証研究を行ないました。
①「芸術の才能は豊かであるが、貧乏」②「芸術の才能は乏しいが、お金持ち」③ビジネスの才能が豊かであるが、貧乏」④「ビジネスの才能がないが、お金持ち」の4種類の男性像を女性被験者に示し、性周期においてどのタイプを好むか選ばせたのです。実験の結果、妊娠しやすい時期では、「芸術の才能は豊かであるが、貧乏」な男性がもっとも好まれました。他の時期においては、答えはさまざまでしたが、妊娠しやすい時期に短期的関係を結ぶ相手としては、「創造的知性」を持つ男性に惹かれ、その男性との間に子どもを産みたいと願う傾向にあると結論づけています。

まさしく上原は、貧乏であるが、小説家としての才能は豊かです。直治から上原の小説を借りて読んでいるので、かず子は上原の知性については承知していました。ですから、子どもができやすい排卵期において上原と肉体関係になって子どもを妊娠したくなったことは、遺伝子レベルの欲求だったと考えることができます。

もう1つの説明は、太宰の『斜陽』のメインテーマからの仮説で、上原が庶民と上流階級との「懸け橋」の役割を果たしたという考え方です。いかにも太宰的な解釈です。

上原は自分を庶民の出身としていますが、かず子にとっての上原は「庶民の世界からの逸脱者」なのです。上流階級と庶民を繋ぐ存在として上原がいて、その上原と肉体関係をもつことは自分が庶民になろうとする強い意志の表れと捉えることができます。そもそもキスをしたのは地下室の階段の「中頃(なかごろ)」という表現(階段の「途中」という表現ではなく)も、太宰が象徴的に「懸け橋」を描いたと解釈できる点です。 

ですから、現在の変わり果てた上原に「一時間ちかく」抵抗したものの、最後には抵抗を「放棄した」のです。かず子にとって、上原という存在は「庶民転生」への入口であり、上原への恋慕=庶民転生への希求でもあったのです。 

そして、直治が自殺することによって「庶民への希求」に挫折したのと違い、かず子は上原の子どもを宿すという形で成就したわけです。

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なぜスガ子は不倫をしなかったか?

太宰が描いたもうひとつの不倫は、直治と上原の妻であるスガ子との関係です。両者には不倫関係はありませんでしたが、直治には、スガ子への強烈な恋愛感情がありました。直治は遺書の中でせつない気持ちを、「永いこと、秘めに秘めて、戦地にいても、そのひとの事を思いつめて、そのひとの夢を見て、目がさめて、泣きべそをかいた事も幾度あったか知れません」と表現しています。

では、スガ子のどこが好きだったのでしょうか? 同じく遺書の中で、次のように述べています。

 そのひとは、姉さんよりも、少し年上です。一重瞼で、目尻が吊り上って、髪にパーマネントなどかけた事が無く、いつも強く、ひっつめ髪、とでもいうのかしら、そんな地味な髪形で、そうして、とても貧しい服装で、けれどもだらしない恰好ではなくて、いつもきちんと着附けて、清潔です。(略)或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装って、いつも優しく微笑んで暮しているのです。

かず子も、はじめてスガ子に会った時に好印象を持ちます。夜中に玄関に突然現れたにもかかわらず、スガ子は「言葉の調子には、なんの悪意も警戒も無かった」「しんからのんきそうに笑っておっしゃる」「あの奥さまはたしかに珍らしくいいお方」と感嘆しています。

直治、かず子の両者が簡潔に言及しているとおり、スガ子は、庶民的で素朴な女性です。放蕩作家である上原の妻とは思えないくらい、つつましく、超然として気高く、清潔感がただよっています。直治が希求する庶民的な女性の模範です。上流階級を忌み嫌い、庶民に近づこうとした直治が、このようなスガ子に惚れるのは必然でもあります。直治はスガ子の中に庶民の理想を発見していたのです。

では、スガ子によって直治はどんな存在だったのでしょうか? 不倫をしなかった理由は何なのでしょうか?

これはスガ子の立場を考えれば、容易に理解できます。残念ながら、スガ子にとって、直治は上原のミニチュアであり、分身でしかありません。上流階級から逸脱しようとする直治と、庶民から逸脱した上原とは基本的に同じ種族なのです。ですから、上原1人を愛していれば十分なのであって、直治と不倫する理由がありません。上原と重複するだけで、直治から新しく得られるメリットがないのです。

スガ子は階級などというものとは無縁です。性欲とも無縁です。かわいい娘と日々の生活があり、貧しいながらも満足しています。庶民の中で、庶民として気高く生きているのです。上原がお金を入れてくれないために切れた電球を買うことができず、「私どもは、これで三晩、無一文の早寝ですのよ」と苦労していても、「のんきそうに笑って」いるような女性なのです。こんなスガ子に直治が惚れるのは当然としても、スガ子の方には直治に恋愛感情をいだく必然性がなかったのです。

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『斜陽』から不倫を学ぶ

浮気市場を分析し、『斜陽』からふたつの不倫のケースを浮気市場にあてはめて考えました。以上から、私たちが不倫を考えるうえで知っておきたい点が3つあります。

1つめが、長い結婚生活においては、夫婦どちらかに不倫願望が芽生えて、それを実行に移したいという気持ちが出てくることはしかたがないということです。ですから、不倫が許せないと思うのでしたら、その防止策を講じることが必要になります。

防止策の中でとくに重要なのは、「ポケットマネー」の把握です。不倫するにはお金が必要です。上原も不倫にはそれなりのお金をつぎ込んでいたはずです。「ポケットマネー」の存在を明らかにしてコントロールできれば、たいていの不倫は防げるものです。通常、夫は、正規のお小遣いのほかにどこかに隠し口座をもうけ、ポケットマネーを還流するしくみを作っているはずで、その存在をあばく必要があります。「うちの夫に限って」というのは幻想です。必ずやっています(妻が隠れてへそくりを貯めているのと同じことです)。その隠し口座を発見したら、すぐに指摘し、取り上げ、謝罪させるべきです。笑いながら「なにこれ、お金隠していたわけ?」とでも言えば、おおごとにならずにお金を召し上げることができます。

2つめは、直治が上原の妻を好きになってしまったように、不倫相手というのは「意外に」近いところに存在するということです。相模ゴム工業が行なった全国調査「ニッポンのセックス」では、不倫相手について詳細に調査しています。それによると、不倫相手がもっとも多いのは「職場」で21.4%、続いて「友だちの紹介・合コン」21.2%、「友だち」13.9%であり、3つの出会いを合計すると56.5%となり、過半数を超えます。ですから、もし夫ないし妻の不倫の有無をチェックしたかったら、同じ会社や交友関係を調べれば、おおよそ分かるようになっています。

3つめとしては、不倫はどんなことがあっても、秘匿しなければならない点です。かず子も直治も、おそらく上原でさえも秘匿していたに違いありません。不倫は「ひめごと」です。もちろん気のゆるみによって、配偶者にバレてしまうことはありえます。しかし大原則は、絶対に相手に知られないようにすること。不倫が発覚して得をする人は1人もいません。不倫された側は、不倫の事実を知って、悲しみ、怒り、裏切られたと感じ、絶望的になります。

ですから、どんな状況になったとしても不倫はしていないと宣言しなければなりません。たとえ不倫相手とラブホテルに入るところを写真に撮られても、セックスしている現場に踏み込まれたとしても、不倫は絶対に認めないことが重要です。どんなウソをついてもかまいません。

不倫に関して全国調査を行なったアンケート(小学館「週刊ポスト」2010年12月17日号」)の中には、以下のようなエピソードがあります。

「家に財布を忘れたときに、浮気を怪しんでいた妻に、中身をチェックされた。相手の写真を見つけられたが、魔除けだと言い張った」(45歳/夫/会社員)
「夫の帰宅が遅いので、何か浮気の証拠がないかとスーツのポケットを探ってみたんです。そしたら、居酒屋のレシートが出てきたんだけど、飲み物がカルーアミルク、ピーチフィズ。おまけにデザートはチョコパフェです。夫を問い詰めるとしどろもどろになりながら、『甘党の男友だちと行ったって(笑)』(47歳/妻/専業主婦)

これでよいのです。このような意味不明な言い訳でも不倫を白状してしまうよりもずっとマシです。ウソをついている限り、グレーのままでいられますから。不倫を正直に認めてしまったら、白のオセロが一斉に黒になるように、すべてが悪い方向にひっくり返ってしまうのです。

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第5回のまとめ ~シングルマザーは甘くない~

最後に、かず子の妊娠とシングルマザーとして生きる宣言について、一言追記しておきます。太宰自身が私生活において奔放で、不倫をするのは構いませんが、『斜陽』においてかず子を上原(ひいては太宰)の都合のいいように描いているのには納得できません。

かず子は上原と肉体関係になり、その結果妊娠し、子どもを産み、一人で育ててゆくことを宣言します。「はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする気持はありませんでした」と最後の手紙にあるので、上原に対して養育費を請求することも認知してもらうこともしていません。

これって上原に都合よすぎではありませんかね。浮気市場での不倫関係とはいえ、子どもができた以上は、上原に道義的かつ法的な責任が生じます。避妊具をつけないでセックスしたわけですから、妊娠させる可能性は理解できたはずです。スガ子と離婚して、かず子と再婚すべきとまでは言いませんが、子どもを認知して、養育費を払うことは必ずすべきです。

そんな状況なのに、「道徳革命の成就」というお題目で上原を免罪し、かず子にシングルマザーの宣言をさせるのは、上原(つまり太宰)にとって都合がよすぎる結末です。

かず子がシングルマザーとして1人で婚外児を育ててゆくのは簡単なことではありません。現実はたいへん厳しいです。今日でも困難なことのに、戦後の混乱の時代ならなおさらです。

なにしろかず子にはお金がありません。すでに貧乏の域に入っています。両親ともになく、弟も自殺して天涯孤独になったかず子が女手一つで子どもを育てる困難さは想像を絶します。おそらくは伊豆の家を売って、そのお金を生活費にあてるのでしょうが、それでもたいへんな苦労が予想されます。仕事に就くとしても、労働のスキルがありません。また子育てはどうするのでしょうか。当時は託児所もありません。面倒をみてくれそうな母親もすでに亡くなっています。どうやって仕事と育児を両立させていくのでしょうか。

一夜の関係だったにしても、妊娠してしまったわけですから、不倫とはいえ上原に責任をとらせ、養育費も請求すべきだったのです。まあ、これ、現在の私たちだから主張できることですけれどね。令和の時代では納得できない結末でした。


バックナンバーはこちら↓

第1回 夏目漱石『こころ』前編
第1回 夏目漱石『こころ』後編
第2回 森鷗外『舞姫』前編
第2回 森鷗外『舞姫』後編
第3回 武者小路実篤『友情』前編
第3回 武者小路実篤『友情』後編
第4回 田山花袋『蒲団』前編
第4回 田山花袋『蒲団』後編
第5回 太宰治『斜陽』前編

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