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有機農業vs慣行農業の不毛な痴話喧嘩

【連載】農家はもっと減っていい:淘汰の時代の小さくて強い農業④

㈱久松農園代表 久松達央

久松 達央(Tatsuo HISAMATSU)
株式会社久松農園代表。1970年茨城県生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後,帝人株式会社を経て,1998年に茨城県土浦市で脱サラ就農。年間100種類以上の野菜を有機栽培し,個人消費者や飲食店に直接販売している。補助金や大組織に頼らずに自立できる「小さくて強い農業」を模索している。他農場の経営サポートや自治体と連携した人材育成も行う。著書に『キレイゴトぬきの農業論』(新潮新書)、『小さくて強い農業をつくる』(晶文社)。

ネット空間の農業者たちの間では、「慣行農業は農薬をバンバン使う危険な農業だ」「偏った有機農業者が『農薬キケン』のフェイクニュースを撒き散らしている」といった論戦が今日もにぎやかに繰り広げられています。しかし、それは世の多くの人にとっては意味のない、コップの中の論戦になってしまってはいないでしょうか?

消費者に直接販売をしている農業者と話をすると、必ずと言っていいほど、「農薬のことで客から不快な質問をされた」というエピソードが出てきます。それに続くのは、不勉強な有機農家への愚痴の数々。有機農業の実践者である私に、いきなり銃口を向けてくる農家も多いので、まずはこちらが「非戦闘員」であることを示さないと会話が始まらないこともあります。

そもそも、有機農業の栽培面積は全体の0.5%。「有機vs慣行」という構図で捉えているのはごく一部の農業者だけで、有機農業は「勢力」と呼べるような力を持ち得てはいません。個々の有機農業者の経営規模はとても小さく、彼らを敵視する人たちが思うほど社会的にインパクトのある活動はほとんどないのが実状です。

やっかいなのは、SNS等を通じて、あたかも有機vs慣行という対立軸があるかのような「演出」をして、商売をしたり、政治的な主張を展開する人たちの存在です。

事実を捻じ曲げてでも広めるニセニュースのことを「オルタナティブ・ファクト」と呼びますが、「有機vs慣行」という構図の存在自体が虚構で、オルタナティブファクトなのです。

そんな中で普通の農家が、有機の生産者や消費者から農薬の使用を悪と決めつけるような、科学的に誤った言葉を投げつけられれば、気分がいいわけがありません。そもそも、事実に基づかない批判やデマは、厳に慎むべきことです。まして、他者を貶めることによって自身の正当性を主張するのは卑劣である上に、手法として有効でもありません。

一方で、言われる慣行農家の側も、農薬批判への反発にムキになり過ぎている感は否めません。不当な中傷への反感はもっともですが、批判内容への反駁を越えて、有機農業という手法そのものを否定したり、有機農業者一般にレッテル貼りをするのは過剰反応です

嫌な思いをした経験は気の毒ですが、自身の嫌な体験をその対象全般に広げて偏見の目で見るのでは、それこそ偏見で他者を批判している相手と変わりなくなってしまいます。「危険な農薬を使う殺人農家」「偏った有機デマ野郎」などという醜い争いには、どっちもどっちとゲンナリします。

世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールのほうがより影響力があるような現在の社会状況は「ポスト・トゥルース」と呼ばれます。事実かどうかよりも、ある立場に立ったポジショントークで互いに罵り合うことは、あらゆるトピックについて見られる風景です。

ジャーナリストの佐々木俊尚氏は、ネット空間の政治言説の現状を、『時の政権をひたすら「攻撃」している人と、ひたすら「擁護」している人たちの2つに「分断」され、毎日無限に続くドッジボールみたいに球をぶつけ合っている』と表現しています。有機vs慣行のドッジボールも、選手も観客も傷つくだけの不毛なものです。

SNSの普及が、不毛な議論を加速させていることは間違いありません。そうなってしまう大きな理由は「エコーチェンバー」と「フィルターバブル」と呼ばれるインターネット特有の情報流通の現象です。

「エコーチェンバー」とは、ソーシャルメディアを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況を、閉じた小部屋で音が反響する物理現象にたとえたものです。

「フィルターバブル」とは、インターネットの検索サイトが提供するアルゴリズムが、各ユーザーが見たくないような情報を遮断してフィルターをかけてしまうために、まるで泡の中に包まれたように、自分が見たい情報しか見えなくなることを指します。

たまたま農薬が危険だという記述を目にした人が、不安に思ってそれを追いかけていくと、それを補強する情報ばかりが表示されることになり、狭い部屋でこだまのように響いている偏った意見を、社会全体の声だと勘違いしてしまいます。一方で、批判を受けた側も、「何だ、このデマは!?」となってその意見を追いかけると、デマの側にいる人と同じ検索行動を取ってしまいます。

その結果、狭い部屋の中で、偏った意見を言う側と言われる側が大声で怒鳴りあって、そのこだまを大論争だと思っているという状況が生まれてしまいます。SNSの参入障壁が低くなり、レイトマジョリティ層が「参入」してきた2010年代後半から急速にこの現象が強まったように思います。

デマやフェイクニュースの拡散が世界中で大きな問題となっていることを考えれば、SNS上の嘘を侮って放置していいということは全くありません。デマを流す人も、それに騙されて拡散する人も容認されるべきではないことは強調しておいていいでしょう。

ただ、酒場の片隅で痴話喧嘩を延々続けている酔っ払い夫婦のように、コップの中の論戦に血眼になっている農家たちを見ていると、他に論じるべきテーマはあるのに、と思ってしまいます

農業者のSNS界隈ではこの手の話題がよく「盛り上がって」います。フェイクも多いので、極端な主張を正論でねじ伏せようとする気持ちはとてもよく分かります。しかし、もう少し客観的に全体構造を見ると、己の行為も結果的にフェイクの拡散に加担してしまっていることもあります。反応しないという「戦い方」も有効な武器かもしれません。

※本連載は今夏に刊行予定の新書からの抜粋記事です。

久松さんと弘兼さんの対談が掲載されています。


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