山口周さんの幻のデビュー作『グーグルに勝つ広告モデル』を全文公開!【その6】7章
7章 ターゲットメディアとしてのラジオの確立
*子供部屋メディアの盟主としての地位を失ったラジオ
実は、ラジオだけが他のメディアと際立って違うポイントがあります。それは、インターネットが登場するかなり前から、明らかな市場縮小傾向にある、という点です。
例えば、地上波民放ラジオの営業収入の総計は1996年の2780億円から2005年の2104億円へと約25%減少しているのですが、この現象トレンドはインターネットが本格的に普及した2000年以前から続いていて、1997年から1998年への一年だけで、前年比8%も減少しています。
1997~1998年というと、時期的にネットはまだまだ黎明期という状況でしたから、この現象は別の原因に帰せられると考えられます。
では一体どのような原因なのか?
表面的には、若者がラジオを聴かなくなったから、というのが、その答えということになっています。
なぜならラジオは、アテンションの総量を30代以上のシニア層に極端に依存する構造になっているからです(図11)。
非常に興味深いのは、10年前の同じデータを見ると、20代以上の世代が主流だったことです。これは、時間の経過とともにリスナーも同じだけ年を取っている一方、若年からのリスナー層へのエントリーが完全に止まってしまっていることを示唆しています。
どうしてこのような事態が発生しているのか?
筆者は、
子供部屋メディアの盟主としての地位を失ったこと。
が、その根本原因ではないかと考えています。
*生活に根付くメディア
ラジオというのは、非常に習慣性の強いメディアです。生活に根付くメディア、と言い換えてもいい。これはポジティブな意味でいわれることが多いのですが、ネガティブな捉え方をすれば、「何となく、無目的に」聴くメディアであるともいえます。
例えば、新聞を無目的に読む人は少ないでしょう。詳しくは後述しますが、新聞は、意識しているにせよ無意識にせよ、ベンチマーク(水準点・規範)を知る、という明確な目的を持って接触するメディアです。無目的に読んでいる人がいるとすればそれは、目的を持って読むことを繰り返したために習慣化してしまった人だと考えられます。
ではラジオはどうか?
先述したように、明確な目的を持ってラジオに接触しているリスナーが多数派だとは考えにくい。生活に根付いている、ただ何となく聴いているというのはそういうことです。これは逆にいえば、そういう習慣がなくなったら聴かなくなってしまう、ということを意味しています。
ということはつまり、ラジオというのは若いときに聴取を習慣化させる、生活のリズムの中に溶け込ませる、というのが戦略的に重要になってくるメディアだということです。
では、その習慣化は過去においてどのようになされ、それが今になってどうして機能しなくなってきたのか?
過去においては、中高生が自宅の部屋で「個人的に接触できる」メディアはラジオしかありませんでした。
テレビを考察した際に、テレビの世帯あたりの台数が1980年当時1.4台だったのが、2010年には2.5台になるというデータを提示しました。つまり、今現在40歳前後の人が中高生だった1980年前後は、テレビというのは基本的に家に一台しかないメディアだったわけです。もちろんその当時はインターネットもオンラインゲームもありません。
一方、当然ながら中高生になると自宅の部屋で悶々と悩んだり、親に見せられないようなことをいろいろと始めたり、あとは受験勉強を始める、というか、勉強しているかどうかはともかく深夜まで部屋で起きているようになるわけです。
で、そのとき、家族以外の誰かとつながっている感覚を得たい、もっと踏み込んでいえば、親をバイパスして世界を見てみたい、夜の社会を覗いてみたい、という気持ちがわいてくる。そんな彼らの気持ちに応える、開かれた一つの窓としてラジオが機能していたように思います。
そうやって青春時代を過ごした人々にとって、ラジオというのは、おそらくいつまでたっても生活の中に根付いている、何となく聴いてしまうメディアの一つとしてありつづけるのだと思います。
*変化が表面化したときには、すでに手遅れ
ところが1980年代の半ば以降、この構図が少しずつ崩れていきます。
まず、テレビの価格が劇的に下がり始めます。価格指数で見てみると、1985年度時点でのテレビの価格を100とした場合、1990年度が60、1995年度では40にまで下がってしまいます。10年で半分以下になってしまったのです。ちなみにこの数値は、2000年度では25程度まで下がってしまいます(図12)。
これによって、テレビを複数台所有するというのが中流家庭においても常識的になり、子供部屋にテレビが置かれるようになりました。これが一つ目の大きな要因で、もう一つの要因がゲームです。
任天堂のファミリーコンピューターが発売されたのが1983年、ファミコンブームの火付け役になった怪物ソフト「スーパーマリオブラザーズ」が発売されたのが1985年、「ドラゴン・クエスト」の発売が1986年です。
いわば、1980年代半ば以降、家庭内で、いやもっと厳密にいえば子供部屋で、中高生のアテンションを強烈に奪う恐るべき競合が矢継ぎ早に登場してきた、ということです。そして2000年以降、インターネットもその競争に参加してきます。
つまり、1980年以前まで、中高生の部屋におけるアテンションをマンガ誌とともに独占してきたメディアであるラジオは、1980年代の半ば以降、急速に他のメディアにその盟主の座を奪われていったわけです。その結果として、「何となくラジオを聴く」「何となく聴いてしまう」という習慣がインストールされていない世代が、どんどん生まれてきたわけです。
非常に恐ろしいのは、子供部屋におけるアテンションのシェアが奪われているということが、経営上インパクトの大きい数値としてすぐには出てこなかった、ということでしょう。変化が表面化したときには、すでに致命的な構造的問題になっていた、というのがこの問題の難しさです。
実際には、1980年代からリスナーが将来的に減少する芽は出ていたはずなのに、それが表面に現れたのは近年になってからだったということです。
どうして、こういうことが起こるのでしょうか?
この話を少し単純化して考えてみましょう。
1985年前後の大変革まで、中学3年生の10%が毎年ラジオリスナーデビューしていたと仮定してみましょう。中学3年生、つまり15歳の人口というのは大雑把に約150万人になりますから(総人口1・2億人÷80〈平均寿命をざっくり80歳と考えて〉=150万人)、毎年15万人の新たなラジオリスナーが生まれていたことになります。
一方、ラジオリスナー全体の人数は、聴取率が2%だとしても、全国で240万人存在することになります(1・2億人×2%=240万人)。ですから、これまでは毎年参加してきた15万人の新規聴取者の数が少しずつ減ったとしても、すぐに大きなインパクトとして表面化することはありません。
この15万人の「新たにラジオファンになる人」は、1980年代の半ば以降、徐々に徐々に、ジワジワと減少していくのですが、それが経営上にインパクトを持った数値として出てくるのは、そういう時代を中高生として過ごした世代が20~30代になってきたとき、つまり「今」ということになるわけです。
ネットとの代替性の議論以前に、ラジオはこういう構造的な難しさを抱えているメディアだということをまず認識することが必要です。
その認識の上に立って、さらにネットの登場によってラジオというメディアにどういう影響があるのかを考察し、打ち手を検討してみたいと思います。
*FMとAMで異なるネットとの代替性
ネットの台頭によるラジオへの影響は、どのように考えられるでしょうか?
筆者は、FMとAMでは、置かれている状況が若干違うと考えています。
先述した、メディアの代替性を検討する3ポイントで、それぞれを見てみるとどうなるでしょうか?
まず提供情報ですが、FMラジオはどちらかといえば音楽が主流で、AMラジオはトークが主流です。次に情報の消費シチュエーションですが、FMラジオは相対的に屋内での聴取が多く、AMラジオは屋外での聴取が多いのが特徴です。最後に、アクセススタイルですが、この点はFMもAMも変わりなく、受動的消費が基本で、かつ編集の柔軟性はまったくありません。
こういった点から考えてみると、FMラジオはAMラジオに対して、相対的にネットとの代替性が高いのではないか、と考えられます。特に、ネットラジオを考察してみると、情報としては音楽が主流で、消費シチュエーションが屋内ですから、これはもう真っ向からアテンションを奪い合うことになりそうです。
したがって、ラジオの項ではこの二つを分けて考察してみたいと思います(図13)。
*FM局はネットラジオのフル活用により、企業能力の活用効率を最大化できる
まずFMラジオを考察してみましょう。
先ほども申し上げたとおり、FMラジオはコンテンツの主流が音楽で、しかもこれを屋内で消費するという特性を持っていますから、ネット、特にネットラジオとの代替性がきわめて高いと考えられます。
一方で、FMラジオが依拠しているビジネスモデルも、テレビや新聞と同じようなアテンションの卸売りですから、このアテンションの獲得量がネットラジオの台頭によって奪われることになると、これはきわめて由々しき事態ということになります。
これに対してどのような打ち手が考えられるのか?
アテンションの獲得量がネットラジオに奪われるということであれば、テレビと同じようにアテンションの単価を上げるという考え方もありますが、筆者は「映像を見せられない」ラジオの媒体特性を考慮すると、これは限界があるだろうと思います。
ラジオは、もとより単位時間あたりの情報量がテレビに比べて少ない媒体です。この媒体を用いて広告単価を上げようとしても、自ずと限界があるように思えます。
筆者は、FMラジオに関しては、アテンションの総量を維持・向上させるという方向で考えるべきだと思っています。
では、どのようにするのか?
いろいろとアプローチは考えられると思いますが、筆者は、FM局自身がネットラジオを始めてみてはどうかと考えています。
FMラジオ局は、その編成能力や番組制作能力、音楽コンテンツのアーカイブに関する理解、どれをとっても音楽系コンテンツの編集能力という点では図抜けています。
この組織能力をフルにレバレッジするために、電波によるラジオ放送を基幹事業として続けながらも、よりジャンルを絞ったサブ・ステーションをいくつか立ち上げ、ネットラジオに食われるアテンションを、自らネットラジオを展開することで獲得していく、という考え方があります。
ありていにいえば、どうせ食われるんだから自分で食え、という話です。
*「ある特徴を持ったセグメント」を切り出す
実は、すでにいくつかの局ではネットラジオ事業も立ち上げていますので、この意見に関しては「何を今さら」と思われるかもしれません。ただ、筆者はこれをもっとラジカルにやっていいのではないかと思っています。
どういうことか、ちょっと極端な例を使って説明してみますと、例えばクラシック専門局、それも場合によってはバロックだけという局はあり得ないでしょうか。
ビデオリサーチ社をはじめとしていくつかの調査を見てみると、ラジオでクラシック番組を聴取している人の平均年収は、1000万円を超えています。オーディエンスの平均年収が1000万円を超えているマスメディアはほとんど存在しないことから、もし実現すれば、非常にユニークで差別的優位性を持ったメディアになると考えられます。
重要な点は、新しいビジネスを始めて新しいリスナーを獲得するのではなく、既存のリスナーの中から「ある特徴を持ったセグメント」を切り出して、広告メディアとして高単価で売りやすい事業モデルを作る、ということです。
さらに加えて、いくつかの点からこの事業モデルの有効性を考えてみると、一つは、そもそも音楽放送を行っていくという側面において、FM放送局は組織として図抜けた能力を保持している、ということが挙げられます。
今現在は、電波帯域が限定されていることから、1ステーションを運営するにとどまっていますが、その組織能力をフル活用すれば、複数のステーションを運営することは可能なはずです。
もう一つの理由として、ネットラジオをゼロから立ち上げてリスナーを獲得していくのは大変な労力がかかりますが、既存FM局が行うとなれば、自社媒体をプロモーションのためにフル活用できる、という利点があります。
最後のポイントとして、ネットラジオの事業運営にかかる固定費がきわめて低いのに加えて、そもそも今現在運営している放送事業で培った資産を活用すれば、限界コストをほとんど見込まずに事業運営できる可能性がある、という点を指摘しておきましょう。
現在FMラジオ局が抱えている資産としての様々な能力を、もっと様々な方面に使えという話です。
*ローカル局との協働
この事業のクリティカルな懸念の一つとして、全国ネットとの協働をどう図っていくか、という点があります。
ネットラジオはエリアと紐づきません。一方、電波メディアというのは、基本的にエリアで住み分けて皆で仲良くしましょう、という業界ですから、エリアを飛び越えてコンテンツを配信できるネットラジオは、既存ラジオ局、特に企業体力の小さいローカル局にとっては脅威となります。
一方で、中央のFM局にしてみれば、ネットワーク局に造反されると広告営業の面で難しい(全国一律に広告を出すことができなくなる)。ここは非常にジレンマがあるポイントで、ロジカルに整理をすれば解が得られるというものでもありません。
ただ重要なのは、放っておけば電波のみに依存したFMラジオというメディアには、成長の機会がないという点でしょう。
一種の権益として地方ごとに切られた電波を有していながら、一方で権益としてのウマミが減っていくことがかなり高い蓋然性で予測されているときに、その権益の守護に走るのか、新たな事業機会を、それぞれの関係者が模索していくのか? 非常に難しい問題です。
おそらく、こういう状況を打開するのに必要なのは、美しい事業プランや業界再編案よりも、胆力・人間力に優れたビジネスプロデューサーでしょう。
ラジオを、21世紀の文化社会に即した新しいメディアとして発展させるような、そういう大プロデューサーの登場を願ってやみません。
*AM局はシニア向け特化メディアとしての事業機会を追求できる
次に、AMラジオについて考察してみましょう。
先述しましたが、AMラジオは、提供情報、情報の消費シチュエーションともに非常にユニークネスが高く、したがってネットに代替される性向は、テレビやFMラジオと比較して、相対的に低いと考えられます。
では、AMラジオは他のメディアに比べて将来的に安定性が高いか、というと、これはこれで別の難しさがあると考えられます。
筆者自身は、ラジオが抱える構造的な問題に関しては、AMラジオのほうがより深刻だろうと考えています。
なぜなら、FMラジオが、まだ「音楽を聴きたい」という目的(というほど明確でもないですが)を持っているのに対して、AMラジオの聴取は、本当の意味で「何となく」「つい」という接触態度で行われていることが多く、より「習慣化されていない層の台頭」による悪影響をこうむると考えられるからです。
では、どんな打ち手が方向性として考えられるでしょうか?
まず大きな論点として、若年層の離反という構造的な問題をどうやって解決するのか、というのがあります。
筆者はこの問題については、むしろ問題としてではなく、発想を変えて新たな事業機会として捉えてはどうか、と考えています。要するに、どんどんリスナー層がシニアに偏っていって、かつ若年層のエントリーを促すことが構造的に難しいのであれば、いっそのことシニアに特化したターゲットメディアとして新たな事業ビジョンを策定してはどうか、ということです。
50歳以上の世帯主の構成比はすでに50%を超えていて、かつ今後拡大が期待される。しかも可処分所得は高く、消費性向も高い。つまり日本では珍しい成長市場です(図14)。
*人口が減ると、何が良くないのか?
余談ですが、よく人口が減る人口が減るといって大騒ぎしている方がいますが、人口が減ると何が良くないのか、というのは、非常に厳密に考えを積み重ねていかなければ答えが出ない問題です。しかもユニークさ、つまり置かれている状況や産業構造によって、答えがまったく変わってきますので、デリケートに扱うことが必要だと筆者は考えています。
例えば、償却期間の長い大型の装置産業の場合は、人口が減ることに対して確かに中長期的な対処が必要だと思いますが、それとて市場の減少に歩調を合わせる形で、生産設備のキャパシティを償却すれば何の問題もない話です。
それと、もう一つ気をつけなければいけないのが、人口全体が減る、というだけであって、セグメントごとで見ていった場合、成長市場になるケースもあるという点です。
これまでも若干お話ししましたが、シニア層はそのいくつかある成長セグメントの一つですし、新聞・雑誌の考察で後述する上流階級・ニューリッチ層というのもそれにあたるでしょう。
狭い島国に大量の人がいて、その人口に合わせた大量生産型マスマーケティングが行われ、その結果、社会全体的に多様性の許容度が低くなってしまっているのが今の日本の状況です。
人口減少悲観論を垂れ流す人は、人口が日本よりはるかに少ないドイツやフランス、イギリスといった国が、グローバルなポジショニングを確保しつつ、本質的に豊かな生活(一人あたりGDPといったマクロ経済指標ではなく)を実現していることを、ぜひ考えてほしいと思います。
*シニア向け広告、通販
話が横道にそれましたが、整理してみるとこういうことになるかと思います。
ポイント1 AMラジオのリスナーはシニア層にどんどん偏っている。
ポイント2 若年層を取り込むことは構造的に難しい。
ポイント3 シニア層は成長市場でありマーケティングの対象として魅力的。
結論 AMラジオをシニア向けターゲットメディアとして捉えなおすべき。
という考え方です。
では、シニア向けターゲットメディアとして、具体的にどんなアクションが取れるでしょうか?
一つは、もちろん今後、雨後の筍のごとく登場してくると思われる、シニア向けのサービスや商品の広告を取り込むということ。もう一つ、大きな事業機会になりそうなのが通販です。
シニアの人たちは外出する性向が他世代より減退します。一方で先ほどお話ししたとおり、可処分所得も高いし消費性向も旺盛です。となると通販ということになりますが、ネットに関してはデジタルリテラシーが低いので、相対的に他世代に比べて抵抗感が強い。というわけで、ラジオでの通販というのは、一つの事業機会と考えられないでしょうか。
*ラジオが直面する社会構造的な問題
これまで、ラジオが直面している構造的な問題から始めて、FMラジオ、AMラジオそれぞれについて、今後の方向性に関する考察を進めてきました。
もちろん、筆者の提言は単に一つのアイデアということであって、ほかにも様々な事業機会があるだろうと思います。
ただ、一つだけ関係者の方に忘れてほしくないのは、ラジオが直面している現在の問題は、ラジオ自身の問題というよりも社会的な構造に起因していると考えられ、直接的に問題に対処したとしても、解決は非常に難しいだろう、という点です。
変化の背景を読んで、その変化の流れに合わせ、むしろそれを逆手にとって新たな事業機会を模索していくことが、ラジオには求められていると筆者は考えています。
必要に迫られた際に大胆で果敢であることは、思慮に富むのと同じことである。(マキアヴェッリ『フィレンツェ史』)
(8章以降に続きます。毎日更新予定)