【第49回】魚にも「心」があるのか?
■膨大な情報に流されて自己を見失っていませんか?
■デマやフェイクニュースに騙されていませんか?
■自分の頭で論理的・科学的に考えていますか?
★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!
鏡に映った「自己」を認識する熱帯魚
チンパンジーの目の前に大きな鏡を置くと、どうなるだろうか? 最初は、鏡に映った姿を他のチンパンジーと勘違いして、威嚇したり、攻撃的な態度を見せたりという「社会行動」をとる。ところが、しばらくすると、鏡に向かって腕を振り回したり、口を開けて中を見たり、股間を覗き込んだりする。
つまり、チンパンジーは、普段は自分で見ることのできない身体の一部分を鏡に映そうとする。すなわち、自分の行動と鏡像の行動の「随伴性(同調性)」を確認していると想定されるが、それを証明することはできるだろうか?
1970年、チューレーン大学の心理学者ゴードン・ギャラップは、鏡を見たことのない野生の若いチンパンジーを10日間個室に入れ、80時間にわたって鏡を見せた。このチンパンジーに麻酔をかけて、無味無臭の赤いインクで頬に印を付ける。麻酔から覚めた後の行動は普段と変わらず、とくに印に触れることもなかった。ところが、このチンパンジーに鏡を見せると、指で自分の頬の赤い印に触れ、その指先をじっと見つめて、匂いを嗅いだのである!
この方法は、今では「鏡像自己認知テスト(MSR: Mirror Self-Recognition Test)」あるいは「ミラーテスト」と呼ばれ、動物の「自己認知」を判定する実験方法とみなされている。ギャラップは、雄と雌の野生のチンパンジー4頭で同じ実験を成功させて、その成果を『Science』1970年1月号に発表した。
その後、さまざまな動物で追試が行われ、ボノボ、オランウータン、アジアゾウ、イルカ、シャチ、カササギなどで成功報告がある。ところが、ギャラップは、それらの追試はサンプル数が少なく、再現性を確認できていないと批判し、「鏡像自己認知ができるのは大型類人猿だけだ」と主張している。
本書の著者・幸田正典氏は、1957年生まれ。鹿児島大学水産学部卒業後、京都大学大学院理学研究科修了。大阪市立大学助手・講師・助教授を経て、現在は大阪市立大学教授。専門は、動物生態学・比較認知科学。著書に『魚類生態学の基礎』(共著、恒星社厚生閣)などがある。
さて、幸田氏は、ホンソメワケバラという熱帯魚を鏡のある水槽に1匹ずつ入れた。最初は口を大きく開けて鏡を攻撃するが、次第に鏡に向かって、突進したり急停止したり上下逆さになったりと奇妙な行動をとるようになる。この魚に麻酔をかけて、喉の部分に寄生虫に似たマークを付ける。麻酔から覚めた魚を水槽に入れても、とくに変わった様子はない。ところが、水槽に鏡を入れると、この魚は自分の喉を見て、水槽の底にある石に喉を擦りつけ、再び鏡の前に戻って、マークが取れたか確認する行動をとったのである!
本書で最も驚かされたのは、これまでの追試では、若いチンパンジーで約75%、チンパンジー全体で約40%の成功率しかないミラーテストに、ホンソメワケバラが14匹中14匹と100%の成功率を誇っているという点である!
幸田氏は、彼の大発見の論文を『Science』に投稿したが「reject(不受理)」されてしまった。なぜなら、査読者のギャラップが猛反対したからである。本書には、動物認知研究の最先端で何が起こっているのか、発見の高揚感から研究者の人間性に至るまで、活き活きと描写されている。「魚が自己認知する」という驚愕の発見が哲学的に何を導くのか、考える必要性が出てきた!
本書のハイライト
ホンソメワケバラという10cmもない小さな熱帯魚が、鏡で自己の顔を覚え、そのイメージに基づいて鏡像自己認知を行っていることが、明らかになった。そのやり方はヒトとほぼ同じなのである。つまり、小さな魚とヒトで、自己認識という高次認知とその過程までもがよく似ていたのだ。こんなことをこれまで誰が予想しただろうか(p. 247)。
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著者プロフィール
高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。