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過酷な改稿作業――エンタメ小説家の失敗学15 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第3章 作品の設計を怠ってはならない Ⅲ

言われてみれば、なにもかもがもっとも

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。三〇〇枚削る――? 三〇〇枚といえば、短めの長篇小説一冊分にも相当する量ではないか。僕にしてみれば、「半分削れ」と言われているのにも等しいほど、理不尽で無理無体なリクエストに感じられた。

 しかし、彼女がそれを求めるのも、当然のことだったのだ。二作目の『忘れないと誓ったぼくがいた』が少しばかり売れたことを除けば、小説家としての僕にはまだ実績らしい実績がなかった。そういう書き手の作品を刊行すること自体に、一定のリスクが伴っている。そんな僕の作品を、上・下に巻を分けた形でなど、出版できるはずもなかった。

 それに、単純に原稿の量が多すぎるということ以外にも、問題はあった。

「個々の場面はどれもよく描けています。平山さんは文章がうまいので、どんどん読めてはしまうんですけど、後半、話が大げさになりすぎていると思います。もう少し規模のコンパクトな展開にしたほうが、この作品のテーマには合っていると思うんです」

 リクエストをしゃにむに否認したくなる気持ちの陰から、指摘されている問題点に対する理解がじわじわと迫り上がってきた。

 特に問題視されていたのは、終盤で男たちを宴に招く祥子が置かれている境遇についてだった。初稿では、祥子は数奇な運命を辿る形で、奥多摩の山奥に構えられた豪邸で寝起きしているという設定になっていた。屋敷の持ち主は、大手製薬会社を創業し、巨万の富を得た上で、現在は隠居しているある老人であり、祥子は住み込みで彼の身の回りの世話をしている。そこへ、招かれた衛が訪ねていくわけだ(最終的には、衛は一人でそこを訪れる形になる)。

 その構図が、デビュー作『ラス・マンチャス通信』の最終章とあまりにも似ているというのだ。その点に、編集長が苦言を呈しているとも聞かされた。たしかに『ラス・マンチャス通信』でも、語り手〈僕〉が最後に向かうのは、山中に構えられた豪壮な邸宅であり、裕福な老人がそこの主として君臨しているという設定だった。

「自己模倣というのは、作家が絶対にやってはいけないことのひとつ」

 編集長は、口をすっぱくしてそう強調していたという。

 言われてみれば、なにもかもがもっともだった。脳内にあるイメージを吐き出し、文章化するのに夢中になっていて、僕はほかならぬ自作とのその類似にすら気づいていなかったのだ。

 それに、終盤の「奥多摩パート」をめぐるその「大げさな」設定を改めるだけで、必然的にごっそりと原稿量を減らすことができるのは、改稿に取りかかる前から目に見えていた。山奥の屋敷をめぐっては、ほかにどんな人物が住み込んでいるのか、どんな経緯で祥子はそこで暮らすことになったのかなど、周辺事情の説明だけで膨大な文字数を費やしていたからだ。

過酷な改稿作業

 こうして、大規模なダウンサイジングを中心課題とする、苛酷な改稿作業が始まった。三〇〇枚分減らすというのは、並大抵のことではない。「奥多摩パート」はもちろん、それ以外の場面からも、何人もの重要人物を、最初からいなかったことにしなければならなかった。丹精込めて一度生み出した文章を、「ここはどう描けば最も効果的だろうか」と逐一心を悩ませて絞り出していった描写の数々を容赦なく削り取り、かなぐり捨てるのは、腕や足をもがれるほどつらい作業だった。

 あまりにもつらいので、改稿は遅々としてはかどらなかった。それを済まさないことには本にしてもらえないのだから、やるしかない。しかし、原稿に向き合っては意気阻喪することの連続で、心は消耗するばかりだった。前章でも述べたとおり、三作目が世界文化社の『シュガーな俺』になってしまったのは、その作業から一時的にでも逃避したかったからにほかならない。『シュガーな俺』の話が立ち上がったのは、『冥王星パーティ』の改稿に乗り気になれないばかりに、その刊行を無期延期にしているさなかのことだったのである。

 しかし、いつまでも目をそらしているわけにはいかなかった。『シュガーな俺』の原稿が手を離れたあたりから、僕はようやく肚を決めて猛然と改稿を推し進め、言われたとおり、約三〇〇枚分減らした上で、物語をしかるべき落としどころに持っていくという所業を成し遂げた。「直すのがとてもうまいので驚きました」とGさんに褒めてもらえたのが、せめてもの報償となった。

 その過程で、祥子が最後に衛を招く場所は、奥多摩の屋敷から、ずっと都心部に近い国立市あたりの、一人暮らししているアパートであるという設定に「矮小化」された。

 そもそも『冥王星パーティ』というタイトルは、そうして衛を迎え入れた祥子が、現在の暮らしぶりについて、「まるで冥王星にでもいるみたいな気分」と漏らす場面に由来している。この場合の「冥王星」とは、「この世の果て」といった意味合いだ。そんなさびしい場所で催されるささやかな宴だからこそ、「冥王星パーティ」なのである。

 それは、奥多摩の山奥の屋敷で、俗世間とは切断されたような暮らしを送っている祥子がつぶやいてこそ、真価を発揮する台詞だった。国立市のアパートでは、今ひとつその孤絶感を適切に醸すことができないのだが、タイトルとも関係する作品のエッセンスとして、台詞そのものは改稿後も残しておいた。

『冥王星パーティ』改題『あの日の僕らにさよなら』

 こうして大きな代償のもとに本になった『冥王星パーティ』だが、売れ行きは悲しくなるほど心細いもので(実売数をちゃんと確認したわけではないが、おそらくそれまでで最低のレベル)、目指していた「再デビュー」など、とうてい果たすべくもなかった。

 一部の(特に女性の)書評家などは高く買ってくれたようだし、やはり女性である担当のGさんも、たぶん単なるお世辞ではなく、「この本がなぜ売れないのか、私にはわかりません」と首を傾げてくれていた。身近な友人・知人の間でも、特に女性から、「今までの平山さんの作品でいちばん好きかも」と言ってもらえた(そうした女性読者の支持を得ることは、僕がこの作品を書く際に最初から意識していたことのひとつでもあった)。

 しかし、最後に残るのは結果――売れたか売れなかったかだけだ。この本は、いや、この本もまた、無数の文芸書がしのぎを削る競争にみごとに敗れた。ただそれだけのことでしかないのだ。(続く)


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