見出し画像

【第20回】「センター」は体のどこにある?――頭上運搬の美しさの秘密|三砂ちづる


忘れてしまった、身体の力。脈々と日常を支えてきた、心の知恵。まだ残っているなら、取り戻したい。もう取り戻せないのであれば、それがあったことだけでも知っておきたい……。
日本で、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、ラテンアメリカで。公衆衛生、国際保健を専門とする疫学者・作家が見てきたもの、伝えておきたいこと。

著者:三砂ちづる

探しても見つからない「軸」「センター」とは

先回の連載(第17回)で「センター」という言葉を使った。沖永良部の女性の頭上運搬の姿の美しさについて、「まっすぐなセンターが通っている」と書いたのである。

「センター」とは何か。「軸」とか「センター」とか「正中線」という言い方は、ときどき耳にすると思う。フィギュアスケートで回転するとき、「軸がぶれた」という言い方をしたり、クラシックバレエで「センターを意識してピルエットを行う」などと言う。武道では「正中線」と言われるし、ゴルフでも「軸が決まる」などという使い方をしていると思う。

スポーツや舞踊においてパフォーマンスを上げるためには、どうやらこの「軸」とか「センター」とかいうものが重要であるらしい、ということはわかる。軸が決まったり、センターが通っていたりすると、ハイパフォーマンスが期待できるし、何より見ていて、じつに美しいのである。

「軸」は、では、どこかに探して見つかるものなのか。亡くなった体を解剖していけば、内臓や骨のように、どこかに「軸」というものがあるのか、というと、ない。どこにも視覚的に見つからない。物理的に体のパーツとして探して、どこかに「あ、軸があった」というふうに見つかるものではないのである。

運動科学者である高岡英夫は、それは「意識」である、と論じた。「センター」という身体の意識であると呼び、この「意識」を研究して「身体意識」と命名する(*1) 。昔からよく言われてきた「丹田」なども「身体意識」なのである。

感覚器は、視覚、聴覚、そして体性感覚の3系統に分けられるのだが、高岡は「意識」もまた、この3系統に分けられると考え、視覚情報をもとに成立するような意識を「視覚的意識」、聴覚情報をもとに成立する意識を「聴覚的意識」、体性感覚の情報をもとに成立している意識を「体性感覚的意識」、略して「身体意識」と命名した、という(*2) 。

重力線に沿って形成された「意識」

すでにわかりにくいかもしれない。なぜわかりにくいと感じるかというと、そもそも「意識」とは何かということを、明確に定義することが困難だからである。

意識とは何なのか、いったい、意識とはどこから生まれてくるのか、何に由来するものなのか。私たちは、まだ、知らない。

それは、生命がどこから生まれてきたのか、とか、どこから宇宙が始まったのか、ということと同じように、まだ人間が解明できていないことだからとしか言えない。

高岡は、意識が何であるのか、どこからきて何に由来するのかは、古来も今もわからず、突き詰めると「魂」の話になってしまい、今後も解明されることは困難であろうという (*3)。

同時に高岡は、わからないとはいえ、人間が生きているときに意識はたしかに存在するものであり、「様々な感覚器から求心性神経を通って脳に送られる情報と、脳から制御器に指令を送る遠心性神経が介在する情報に支えられている側面がある」 と説明している(*4)。

ともあれ、「身体意識」というものは存在し、従来、正中線、軸、センターなどと呼ばれていたものは、言い方は違えど、同じものを指しており、それは、「重力線とその延長線上に沿って形成された直線上の身体意識」(*5) であり、高岡はそれを学術的な統一概念としてあらためて「センター」と呼ぶ、と定義しているのである。

重力の微妙な感知に必要なのは「ゆるんでいること」

「重力線」というものは、物理的に存在している。だから、誰にでも感じられるもののはずである。

では、その重力線の延長線上に沿って、誰でも意識が形成できるのか、というと、そうではない。話が戻るが、舞踊やスポーツで「軸が通っている」と言われるような人にしか、形成できていないのである。

重力の感知のメカニズムは、高岡によると「頭部にある身体の傾きを感知する前庭、加速度を感じる三半規管、そして全身の筋肉に埋まっていて筋肉にかかる張力を感知する筋紡錘(きんぼうすい)という感覚器、足の裏にある圧力を感じる感覚器などから、どこにどのくらいの力が働いているかを微妙に感じ取り、その情報を脳に送って」おり、「そして、脳はそれらの情報を演算処理して、重心の位置や重力の方向を判断」するものであるという(*6)。

なぜ、重力線は存在するのに、それに沿って身体意識を形成できないのかというと、身体のあちこちの筋肉に力が入っていて、重力の感知がスムーズにいかない、すなわち、重力の微妙な変化を感じることができなくなっているから、なのである。

だから、物理的な重力線の変化を感じるには、できるだけ、筋肉を脱力させている必要があることになる。つまり身体意識を形成するためには「ゆるんだ体」が必要であり、また、「ゆるんだ体」になってくると、さらに身体意識が強化されていく、というサイクルに入り、どんどんパフォーマンスが上がっていく。

高岡が、誰にでも行うことができる「ゆる体操」 (*7)を発案し、普及を行なっているのも、そもそも体がゆるんでいることが全ての基本だからである。

意識をダイナミックに使う頭上運搬

頭の上に何かものをのせて運ぼうとするときには、「重力線」を使わなければならない。

地球の中心に向かって伸びる重力線に沿って、ものを置くと安定する。戸棚にしてもなんにしても、ものを置いても、そのものが落ちないのは、重力線に沿って置いてあるからである。

人間の体は、戸棚のように真っ直ぐでもないし、静止してもいない。頭の上は平らではないし、体のパーツは、さまざまに分かれているし、しかも、頭上運搬は「運搬」こそが目的なのだから、ものを運ぶために、体を動かさなければならない。

ここで行われなければならないことは、運ぼうとするものの重心が体の重心と重なり、体を真っ直ぐ重力線に沿わせること、しかも、歩いて運ぶのであるから、動くたびに、その重力を感知し、微調整されていかねばならない、ということである。

まさに、「重力線とその延長線上に沿って形成された直線上の身体意識」を、ダイナミックに使いながら動いている、ということになるのである。

よくゆるみ、センターの形成された美しさ

頭上運搬は過酷な作業である。数十キロに及ぶものを運んだり、毎日、家族のために水を運んだりするために使われた。しかし同時に、その姿が凛として美しいことは、折に触れ語られていた。

この連載でも書いてきたが、伊豆諸島では、異性の目の多い夕刻の時間帯に、彼らがいる場所を選ぶようにして、頭上に水をのせて歩いていた娘もいたという。沖永良部でも、その運搬する姿の美しさと、頭上にものをのせたままで挨拶をしようとするしぐさの可憐さについて、島尾敏雄が書き残してもいた。

年齢を重ねても腰が曲がらず、美しい姿勢のまま老いていくことも、頭上運搬を行っていた地域では語り継がれている。頭上運搬をする本人たち自身が誰より、その美しさについて自覚的であっただろうと思われる。

この美しさはもちろん、「センター」が形成され、体にこわばりがなく、よくゆるんでいるからにほかならない。

すーっと真っ直ぐに地球の中心から立ち上がるような真っ直ぐな体でありながら、ゆらゆらとした感じがあり、硬さは感じられない。毎日、生活の一部として行うことであるから、毎日、形成されたセンターは磨かれ、ゆるんだ体はさらにゆるんでいく。

そういう身体の状態が精神に影響を与えないはずはない。包容力があり、芯の通った人に自然になっていったはずである。

(*1)高岡英夫『からだにはココロがある』総合法令出版、2002年。
(*2)高岡英夫『センター・体軸・正中線――自分の中の天才を呼びさます』ベースボールマガジン社、2005年。
(*3)高岡前掲書 2005年。
(*4)高岡前掲書 2005年。
(*5)高岡前掲書 2005年。
(*6)高岡前掲書 2005年。
(*7)たくさんの本があるが、たとえば、高岡英夫『脳と体の疲れを取って健康になる 決定版 ゆる体操』PHP研究所、2015年。

・・・・・・・・・・・・・・・

著者:三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学多文化・国際協力学科教授。

バックナンバーはこちら


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!