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ポリコレへの配慮は作品の質を損なわない カナダ「アンという名の少女」

光文社新書の永林です。突然ですが、私は子どものころ「赤毛のアン」の大ファンでした。小学生のときに買ってもらったジュブナイル版でハマり、高校生のときには、治部さんと同じく村岡花子訳の新潮文庫シリーズ10冊を繰り返し読みました。その世界観が大好きだったのですが、登場人物がフランス人の使用人を蔑んだり、親のいない子どもを馬鹿にしたり、カナダ人以外の人間を「信用できない」と言ったりするなど、差別発言がふつうにあることで「こんなにいい人たちもあたりまえに差別するんだなぁ」と学んだ記憶があります。今回の「ジェンダーで見るヒットドラマ」で紹介するのは、「赤毛のアン」のリメイクドラマ「アンという名の少女」(原題:ANNE WITH AN E)です。今作では、こうした人種差別発言はもとより、ジェンダー観や子どもの人権について大幅にアップデートしているのが特徴です。治部れんげさんは「ポリティカル・コレクトネスを強く意識した作りでありながら、説教くさくはない高度なエンタメ」と本作を評します。

治部れんげ著「ジェンダーで見るヒットドラマ: 韓国、アメリカ、欧州、日本」(光文社新書)は6月16日発売! 先行公開の原稿はこちらで(だいたい全部)読めます! ↓

※以下、治部れんげさんの記事はネタバレを含みます。ドラマ未視聴の方はご注意ください。

マイノリティの人権視点で名作をアップデート

小説「赤毛のアン」は、日本で根強い人気を誇ります。カナダ南東部のプリンス・エドワード島にある架空の村アヴォンリーを舞台に、年老いた兄妹の住む農園に引き取られた孤児の少女アン・シャーリーの物語です。美しい農村や森、花々などを背景に、孤独だったきょうだいとおしゃべりな女の子が愛情を育む素敵なお話です。

私は、このアンの物語と世界観の熱狂的なファンです。子どもの頃に村岡花子訳の新潮文庫を繰り返し読んだのに始まり、アンの大学進学、結婚、出産、子育てなどを描く続編を読破しました。プリンス・エドワード島の自然や建物の写真を収録した本や、物語に登場するお菓子やキルトを再現した本も持っていますし、小学生の頃、プリンス・エドワード島に住むヘザーという女の子と「文通」したこともあります。

日本における「アン」人気を定着させたのは、なんと言ってもアニメでしょう。1979年1月~12月に毎週日曜の夜7時30分からフジテレビ系で放送されたアニメ版「赤毛のアン」は監督を高畑勲、画面設定と画面構成を宮崎駿が手掛け、アンの魅力をよく表した名作です。村岡花子訳の原作小説を忠実に再現しつつ、イメージを膨らませた素晴らしい作品で、私はDVDセットを持っており、繰り返し見ています。

このように、原作、派生書籍、アニメなどで知られ、根強い人気を誇る名作「赤毛のアン」の実写ドラマが「アンという名の少女」です。視覚的な要素やストーリーの主要部分で原作の世界観を忠実に再現し、主要登場人物のキャラクターを生かしつつ、現代の人権感覚を織り込んで上手にアップデートしたところが、このドラマをお勧めしたい理由です。

まずは、ビジュアルの要素から見ていきましょう。

◆原作を再現した映像の美しさ


このドラマが素晴らしいのは、舞台となるプリンス・エドワード島やアヴォンリー村の美しい自然です。島の特徴である海辺が繰り返し描かれ、光り輝く水面と水平線、背後に広がる草原の対比が見事です。アンの通学路は林の中の小道で、木々が茂る自然に囲まれています。原作に描かれる通り、学校の裏手にある小川で、生徒たちが牛乳瓶を冷やす様子も見ることができます。

アンがマシュウ、マリラのきょうだいと暮らすグリーン・ゲイブルズ(緑の切妻屋根の家)は、白い壁、木造りの床や家具で清潔に保たれ、夜はロウソクの明かりが独特の雰囲気を醸し出しています。マシュウが買ってくる「ふくらんだ袖の服」はアンの瞳によく合う緑色で素敵な刺繍がしてあります。

アンの親友ダイアナには、お金持ちの叔母さんがいて、島内随一の街でお城のような家に住んでいます。原作の出版は1908年、ドラマの中でアンが「来年は1900年よ」と話すシーンがあり、描かれるのは1800年代終わりでしょう。今から220年前のカナダ南東部農村と街の様子が見事に再現されています。

視覚と言えば登場人物の印象も大切です。主人公のアンは、赤毛で灰緑色の眼をしており、そばかすがあって痩せている、と原作に書かれた通りの俳優が演じます。本人は自分を「美人ではない」と思っていますが、豊かな想像力と明るさが魅力的です。冬になるとよく被る帽子の色と目の色が合っていて、渋い色合いの服装でありながら、とても素敵なのです。

親友で黒い髪の美少女ダイアナ、無口で優しいマシュウ、マリラ、おせっかいだけど根は良い人であるリンド小母さんまで、まさに原作のイメージそのものです。そしてアンのライバルで後に恋人となるギルバート・ブライスの知的で思慮深い様子。このドラマの制作者は、資料として日本のアニメ「赤毛のアン」を見たに違いない!と思うほど、アニメ版のファンが大満足すること間違いなしの配役です。

◆マシュウとマリラを通じて描く「血縁なき親子」の深い愛

原作でも描かれ、ドラマでも重視されているのは、マシュウとマリラが夫婦ではないものの、アンにとって最良の「両親」になっていく過程です。マシュウの愛情深さと、人間として正しい姿勢は特に、的確な脚色がなされています。「お前がいないと寂しい」「お前は賢い」と常にアンを励まし「私の娘」と呼びます。

マリラの先進性は、原作では、女の子にも教育が必要と考えるシーンでさりげなく示されますが、ドラマではよりはっきりと描かれます。例えば、ある時、学校で問題を起こしてしまったアンについて、教会に相談に行くと、牧師にこんなことを言われます。

「結婚するまで家においておけばいい」

この牧師には悪気がなく、原作が描かれた約220年前の性別役割分担に基づく価値観を素直に述べただけです。しかし、帰宅したマリラはアンに言います。

「牧師さんの話は時代遅れだわ。あなたは自分で決めなさい。そして前進するの」

「あなたは賢くて機転もきく。可能性を狭めないで。私には選択肢がなかったけれど、あなたは道を選べる」

後述するように家庭の事情で勉強も恋愛も諦めたマリラですが、彼女の教養と先見性は際立っています。あまり人づきあいをせず、きょうだいで農場と家の切り盛りを続けてきたマシュウとマリラが、実は当時のジェンダー規範――女の子は教育より結婚が大事――から自由で、アンを心から愛し、その能力と特性を伸ばしたことは、原作やアニメにも通じる物語のメインテーマです。様々な局面でアンを支えるマシュウとマリラの言動を見ていると、血縁の有無ではなく、共に暮らし、愛情を注ぐことで人は「親子になる」のだ、という思いを新たにします。

そんなわけで、この2人が大好きになった私は、内気なマシュウが意を決して村の演劇発表会に出演し、締めのセリフを述べた時は、涙が出そうになりました。また、ずっと家庭の主婦だったマリラが、ドラマの終盤で村の代表として政策運営に係るようになった時は、実の親の活躍を目の当たりにしたような誇らしい気もちになりました。マリラにお祝いの花束を贈りたい! と思ったほどです。

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写真:Wikipedia「赤毛のアン」より

◆原作にはない「子どもの人権尊重」の視点

こうして視覚的にも主要テーマにおいても原作の世界観を見事に再現した「アンという名の少女」ですが、ストーリーにはかなりの脚色があります。特に、子どもと女性の人権尊重という視点を大幅に追加しています。

アンは赤ん坊の時に両親を熱病で失い、里親の家を転々とした後、孤児院へ行きました。原作では、里親の家も子だくさんで大変な中、アンは子守や家事をして働いています。孤児院も子どもで一杯であり、これまで誰にも望まれなかったアンの悲しい来歴が淡々と語られています。

ドラマでは、こうした環境でアンが受けた虐待やいじめを描くことで、子どもの人権について考えさせます。

アンはたびたび、心が過去にトリップします。里親のもとでは家事作業が遅いと怒られ、突き飛ばされて戸外に放り出され、庭でお尻を何度も叩かれていました。孤児院では、読んでいた本を大人から取り上げられて破られたり、同年代の女の子達に取り囲まれて意地悪を言われたり、死んだネズミをつきつけられ、スカートをめくられたりしていました。誰からも愛されずに生きてきたのです。

マシュウとマリラに引き取られた後、日常生活や学校で嫌な思いをするたびに、アンはこうしたシーンを思い出して動きが止まってしまいます。アヴォンリー村の学校や集まりでも「孤児院出身」とか「孤児だ」と陰口をたたかれるシーンがあります。見ていて辛くなりますが、これは子どもの置かれた過酷な現実から目を逸らすな、という製作者のメッセージだと私は解釈しました。アンはおしゃべりな少女ですが、自分が受けた虐待については、ずっと誰にも語ろうとしません。それだけ心に深い傷を残しているのです。

もし、アンのように両親を失った子どもが、適切な養育家庭に出逢っていなかったら、一体どうなっていたのでしょう。ドラマの終盤、自分の両親とルーツを知ろうとしたアンは、辛い時期を過ごした孤児院を訪れ、両親に関する資料を探そうとします。その帰りに玄関で、かつて自分をいじめていた女の子が床掃除をしているところに遭遇します。数年前と変わらずアンに意地悪を言う女の子に、アンは、「ここはつらいわよね」といたわるように声をかけて去っていきます。いじめっ子自身が辛い仕打ちを受けた被害者であることを想像したのでしょう。

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◆ドラマオリジナルの登場人物の過去と背景 

ところで、このドラマが素晴らしいのは、主人公のアンだけでなく、アンを引き取って育てるマシュウとマリラの人生をも、丁寧に描いていることです。原作で「変り者」ゆえに独身のまま年老いたと簡単に説明されるマシュウとマリラですが、ドラマでは彼らが若い頃に経験した淡い恋にも光を当てます。その詳細は、素敵なエピソードなのでぜひ、ドラマをご覧ください。

ところで、このドラマが素晴らしいのは、主人公のアンだけでなく、アンを引き取って育てるマシュウとマリラの人生をも、丁寧に描いていることです。原作で「変り者」ゆえに独身のまま年老いたと簡単に説明されるマシュウとマリラですが、ドラマでは彼らが若い頃に経験した淡い恋にも光を当てます。その詳細は、素敵なエピソードなのでぜひ、ドラマをご覧ください。

マシュウとマリラが両想いだった相手と添い遂げず、独身を貫いた理由としてドラマでは「ヤング・ケアラー問題」を扱っています。長兄が若くして亡くなると、母親が体調を崩して寝込んでしまいます。心労で1年以上、起き上がれない母親を看病し、家事を切り盛りするため、少女だったマリラは家庭に入り、マシュウは農場の働き手となるため学校を辞めるのです。

ここで、子どもが家族の犠牲になる問題が明確に描かれています。日本でも関連報道が増えているヤング・ケアラーは、2020年12月21日のNHK報道によれば、18歳未満で家族の介護、世話などをしている子どもを指します。家庭内のことで子ども自身は「当たり前」と思っているので、外から分かりにくいこと、埼玉県では高校2年生を対象に調査を行った結果、25人に1人の子どもがヤング・ケアラーであることが分かったそうです。

マリラの場合、女の子であったため、母親だけでなく弟(原作では兄)のマシュウを世話したことが触れられ、ここにはジェンダー課題が見て取れます。このように、ドラマが描く子どもを取り巻く社会課題は、決して過去の話と片づけられず、現代を生きる私たち視聴者に問題を突きつけるのです。

子どもと言えば、特に印象に残ったのは、グリーン・ゲイブルズでマシュウの農作業や家畜の世話を手伝っているジェリーという少年です。彼は原作にも登場しますが、ドラマでは大幅に脚色されています。フランス系で貧しい家庭出身のジェリーを通じて、「子どもの格差」を描くからです。

ドラマの始めの頃、アンがジェリーに冷たくし、八つ当たりするシーンが何度か出てきます。ここで分かるのは、アンは子どもであり、自分の辛い体験を、社会的文脈で位置づけられていないことです。自分と同世代の男の子が、学校へ行かず農場で手伝いをしているのを見ても、アンには何が起きているか分かりません。こうしたシーンを見て、私はアンの無神経さに少し苛々しました。アンの人物像を単に魅力的に描くのではなく、欠点も含めて現実味をもって感じさせる描写でした。

ある時、学校で起きた嫌な出来事についてぼやくアンに「僕は学校に行けない」とジェリーが答えます。同じ村の中で同じように農業を営んでいる家でも、孤児を養子にして育てた上、使用人を雇う余裕のあるグリーン・ゲイブルズと、実子を働かせなくては食べていけない貧しい農家があることが分かります。農作業に明け暮れるジェリーは将来を夢見ることもありません。はっとしたアンはジェリーにアルファベットを教え、その数年後にはジェリーはグリーンゲイブルズの玄関に座り、本を読むまでに成長していました。

ジェリーを巡るエピソードから私が読み取った示唆は、現代日本に住む海外ルーツの子ども達と学校を巡る課題です。言語や文化が壁になり就学できていなかったり、学校に来ても授業が分からなかったり、宗教的な理由で参加できない活動があるなど、子どもと多文化共生を巡る課題は山積みです。このドラマを見た方には、ジェリーは決して過去の外国の話ではないことを知ってほしいです。

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◆女性の人権と性的自己決定の問題に踏み込んだ

子どもと女性の人権を語る際、一番大きな問題は身体と性における自己決定でしょう。「アンという名の少女」の最も現代的な要素は、思春期の子ども達がキスなど身体的接触に関心を持ち、自分の性的指向に気づく過程を描くことです。こうした要素は原作にもアニメにも一切描かれていなかったテーマです。

10代半ばになると、アヴォンリーの子ども達は学校で、キスごっこのようなゲームをしたり、誰が誰を好きかと噂しあったりします。こうしたやり取りの中で、アンが里親のDVや性交渉を見聞きしていた事実が判明します。アンが男性器をネズミにたとえ、学校の先生と年長の女生徒の恋愛を解説してみせると、大人たちから非難されてしまいます。現代の深刻な課題である、目前DVとトラウマの問題や、性教育を全くせずに隠す規範の問題を、村社会の中で描いて見せるのです。

物語のクライマックスは、アンが村における結婚やジェンダー規範を告発する下りです。当時のアヴォンリー村で、女の子はしばしば10代で結婚し、その際、男性側の家庭に一定の結婚資金が送られていました。妻は結婚するまで純潔でいることが求められます。結婚前に男性と身体的接触をした女性はふしだらだ、と非難されますが、男性は咎められない二重基準がはびこっています。

また、女の子は進学より結婚を優先すべし、という価値観がいくつかの家庭の出来事を通じて描かれます。例えばピアノが上手で好きなダイアナが、それを職業にするつもりはなく「結婚後に、夫が許したら趣味として続けようと思う」と話すシーンや、アン達と一緒に進学を希望するダイアナに、両親が花嫁学校を強要するシーンが典型的です。

このように、女性を縛る慣習に疑問を持っていたアンは、ある日、クラスの男子が、婚約相手の身体を無理に触ろうとした出来事を知って激怒します。アンは学校新聞に問題を告発する記事を書き、それが教会で配布されると、村は大きな衝撃に包まれます。個人名は書かれていなかったものの、当事者である少女は傷ついて家に閉じこもってしまいます。

アンの告発は、当事者のプライバシーに対する配慮が欠けていたものの、問題認識は正しいものでした。クラスメートたちは、当初、アンが起こした問題をやっかいに思いますが、ギルバートはアンの味方になり、毅然として言います。

「女の価値を決めるのは男ではない」

「自分の体は自分のもの。そして尊重されるべきもの。私たちは自分の権利や望みについて男たちよりよく知っている」

「女性は男性がいなくても生まれた時からすでに完全体だ」

アンの書いた記事を読み上げたギルバートがクラスメートに問いかけると、誰も異論をはさむことができません。

「誰のためにでも戦ったはずだ。それがアンだ」

ギルバートの短い一言は、彼がアンの強さと正義を深く理解していることを示し、心を打つシーンです。

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この後、村の支配層である評議員会の男性たちは学校新聞を廃刊にしようとしたり、「天候や農作物や帽子の流行」など、当たり障りのないテーマだけを扱わせようとしたり、さらに酷いことをしたりします。それに対して、先生と子ども達、マリラやリンド夫人がいかに戦って勝っていくか、詳細は書かずにおきますから、ぜひドラマをご覧になってみて下さい。そこには、現代も続く男尊女卑という問題、言論を弾圧する権力の問題、そして子ども達の学びの場を暴力的に奪おうとする慣習の問題が描かれています。

ドラマでアヴォンリー村の子ども達は”Freedom of speech is a human right(言論の自由は基本的人権)”と声を上げます。こうした訴えは、今もなお、必要とされています。

本稿を執筆している2021年4月、ミャンマーでは、民主的な手続きを無視して政権を奪取した軍隊が人々の声を封じ、抗議する市民に銃を向けて殺しています。香港では、権威主義的な中国政府が人々の言論の自由を奪っています。アヴォンリーの子ども達を抑圧する村の権威的な男性達を「古い」と笑うだけではすまない現実がこの世界には、まだまだあるのです。

◆人種差別と先住民族弾圧を描く

このドラマが追求する人権問題は、カナダ本国も不問にしません。ギルバートは仕事先で出会った中南米出身のセバスチャンと親しくなり、共にアヴォンリーで暮らします。アンの物語が描かれる30年以上前、1863年にはアメリカ合衆国で奴隷解放宣言が出されていますが、黒人差別は続いています。汽車に乗せてもらえないなど、セバスチャンは様々な差別に直面します。彼の父は「わきまえず、多くを欲しがった」ため、リンチに遭って殺されているのです。

加えて、カナダの先住民族に対する白人の行った残虐行為もドラマの中で言及しています。アンが親しくなったネイティブ・アメリカンの少女は、カナダ政府が開いた英語などを教える学校に行くと、同化政策により髪を切られ英語を強要され、自分たちの文化を否定的に扱われます。逃げ出してきた少女は再び白人たちに捕まり、連れ戻そうとした両親やアン、マシュウは警備の白人男性たちから、銃をつきつけられます。

この問題は、ドラマの中で解決先が描かれないまま終わりますが、もしも続編が作られたならば、そこで掘り下げられただろうと解釈できます。

国際NGOアムネスティ・インターナショナルによれば、カナダ憲法は3つの先住民族を規定しています。ファースト・ネーションズ(北米インディアン)、メティス(先住民とヨーロッパ人の双方を両親とする人々)、イヌイット(北極地方の人々)で、全人口の4%を占めています。1874年以来、カナダの先住民族の子ども達は教会が運営する寄宿学校に強制的に入学させられ、英語とキリスト教を強要されたそうです。

ドラマが描くのは、まさにこの問題であり、カナダ政府は1970年代まで、こうした寄宿学校に補助金を交付してきました。カナダのスティーブン・ハーパー首相(当時)は2008年、同化政策が先住民族を深く傷つけてきたことを公式に謝罪しています。

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◆大胆な「人権アップデート」でも原作の世界観を壊さない

ここまで紹介してきたように「アンという名の少女」は、グリーン・ゲイブルズに引き取られた孤児の少女のストーリーを大幅に脚色しています。このドラマは、女性や子ども、先住民族や黒人の尊厳と命を奪った負の歴史に正面から立ち向かいます。名作を現代人の鑑賞に堪えるものに更新するにあたり、その世界観、登場人物の個性を重視しつつ、当時の価値観では許容された諸問題から逃げなかったことが、本作品の最大の価値だと私は思います。

2020年、アメリカでは、構造的人種差別を訴えるブラック・ライヴズ・マター運動を契機に、南北戦争前後のジョージア州にあるプランテーション農場を舞台にした名作映画「風と共に去りぬ」の描写が問題視されました。奴隷制度の残酷さから目を逸らし、南部の視点のみで描いたことが一番の課題です。名作といえども、当時の法制度や社会慣習の制約を受けていることは、他の作品についても当てはまります。

原作の「赤毛のアン」は、女性に参政権がなく、女の子は進学できなくても仕方ない、という当時の価値観に基づいて描かれている上、特定の民族に対する差別的な表現も残っています。

「アンという名の少女」は、こうした時代に名作を再解釈する意義を具体例として示しています。原作の優れたところを生かしつつ、現代の人権感覚に即した読み直しやアップデートは、今後も増えていくはずです。ポリティカル・コレクトネスを強く意識した作りでありながら、説教くさくはなく、美しく多様な登場人物の個性と生き方を楽しんで見られる高度なエンタメなのです。

◆「アンという名の少女」(2017~2019年、カナダ)
出演:エイミーベス・マクナルティほか。シーズン3まで放送。カナダCBCとNetflixの共同制作。シーズン1は2020年にNHKでも放送された。Netflixで配信中。

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治部れんげ Jibu Renge/1974年生まれ。1997年、一橋大学法学部卒。日経BP社にて経済誌記者。2006~07年、ミシガン大学フルブライト客員研究員。2014年よりフリージャーナリスト。2018年、一橋大学経営学修士課程修了。メディア・経営・教育とジェンダーやダイバーシティについて執筆。現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。東京大学大学院情報学環客員研究員。東京都男女平等参画審議会委員。豊島区男女共同参画推進会議会長。朝日新聞論壇委員。公益財団法人ジョイセフ理事。一般財団法人女性労働協会評議員。著書に『「男女格差後進国」の衝撃:無意識のジェンダーバイアスを克服する』(小学館)、『炎上しない企業情報発信:ジェンダーはビジネスの新教養である』(日本経済新聞出版社)、『稼ぐ妻・育てる夫:夫婦の戦略的役割交換』(勁草書房)等。



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