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独りになることで、なぜ癒されるのか?

新刊『「孤独」という生き方』(織田淳太郎著)より、「はじめに」、目次、1章の冒頭部分を公開します。

※写真はすべて織田氏撮影

はじめに

2016年11月20日、私は先妻との一人息子を病で亡くした。

暗雲で覆われた私の心の状態は、とうてい言葉で言い尽くすことができない。

私はただ、独りになりたかった。

都会の喧噪は私を失意の淵へと追いやるだけで、どんな慰めの言葉も哀しみを助長させるだけの「騒音」にしか聞こえなかった。テレビやインターネットに飛び交う情報の嵐も、私を深い孤立の闇へと突き落とすばかりだった。

世間が提示する何ものも、自分の心を救うことはできない。そのことを痛烈に思い知らされたとき、私は人里遠く離れた山の奥に逃げ込んでいた。

本書の短い「物語」は、ここから始まる。

「孤独」から逃れるという「孤独」にさえ耐え切れず、さらに深い「孤独」へと身を隠す。

この衝動に駆られた自暴的な選択、そして息子を失ったことで唐突に始めた山の生活が、その後の私の心にどんな変化をもたらしたのか。

たしかに言えることは、失意と哀しみに揺れ動きながらも、私の心が緩やかに、しかも確実に癒されていったことである。

自らの死をも希求していた私が、なぜ「癒し」という思わぬ活力を得ることができたのか。しばらくその理由がわからなかったが、とにかく私は少しずつ笑顔を取り戻し、以前とはまるで違う穏やかな自分がそこにいるのを、やがて見出すようになった。

いまでは、その理由がわかる。

インターネットの爆発的な普及などによって肥大化した情報社会、それによって人びとが群れ集い、繋がることを良しとしてきた世間的な価値観……。しかし、それも虚しさを深めるだけの形骸化した繋がりでしかなく、人びとが傷つけ合う土壌とさえなってきたという現実。そのことに、私の心は早くから疲れ切っていたのかもしれない。

そして、群れ集うことで、必然的に喚起される「監視されている」「価値判断されている」といった息が詰まるような感覚。そこから逃れたいという衝動を押し殺し、社会的集団の足並みに辛うじて歩を合わせていたその私に、最愛の息子の死という事態が襲いかかった。

私が突如として野生動物の跋扈する深山に入り、そこを生活の拠点にするようになったのも、「解放されたい」「ありのままの自分でいたい」という潜在的な欲求が、息子の死をきっかけに堰を切って溢れ出したからなのだろう。

こうした「ありのままの自分」でいることへの憧憬は、もちろん私だけが持ち合わせているものではない。

本書では私以外にも、山で「独り生きる」多くの人たちが登場する。なかには世間から隔絶された文字通りの秘境に住む人や、私と同じように最愛のわが子を失ったことで山奥に逃げ込んできた人もいる。

彼らはなぜ、山に惹かれたのか。自然との共生は彼らに何を教えたのか。自然へと導かれたそのプロセスはそれぞれ異なるものの、私たちに共通していたのが、世俗の制約から解放された「ありのまま」の自分との邂逅という心地よさだった。

私はそれを「独り在ること」と呼んでいる。

「独り在ること」は、孤立としての「孤独」とは明らかに意味が違う。私はそれを以下のように定義した。

〈いまここにいる自分以外の何かになろうとすることを放棄した心の状態〉

本書にも登場する公認心理師の米倉一哉さんは、これを「良いと思われる部分も悪いと思われる部分も含めて、自分自身のすべてと繋がっている心の状態」と定義している。

そして、新型コロナウイルスの世界的な災禍に見舞われたいま、多くの人が行動制限による閉塞感を抱いている一方で、「独り在る」心の状態を求める人が増えてきたのも、紛れのない事実なのだろう。

本書でも紹介しているが、2020年の後半、内閣府が1万人を対象にコロナ禍による生活意識や生活行動の変化などの調査を行った。それによると、リモートワーク経験者の24.6パーセントが地方移住への関心を高め、64.2パーセントが「仕事より生活を優先させたい」と答えるなど、「個」を尊重する傾向が浮き彫りになった。この傾向は若い世代でも目立ち、都内23区在住の20歳代の35.4パーセントが、地方移住への興味を示すなど、ある意味普遍的な欲求であることが示唆されている。

裏返せば、そこにあるのは、群れることへのアンチテーゼに他ならない。テレビ朝日系の「ポツンと一軒家」や他局の田舎来訪番組が、長期にわたって根強い人気を誇ってきたのも、「解放されたい」「独りでいたい」という人びとの潜在的な欲求が、そこに投影されているからなのだろう。

「そういう意味で」
と、米倉さんは言う。
「多くの人が田舎に移住したり、東京オリンピック・パラリンピックの強行開催に反対したのも、コロナ対策という側面もさることながら、群れ集うことの疲弊感から解放されたいという潜在的な願望が、そこに映し出されたからなのでしょう。
いまや時代そのものが〝人々が集まる時代〟から〝人々が離れたがっている時代〟に移行しつつあるのは、間違いないような気がします。そして、良くも悪くも、その価値観の転換に大きく関与したのが、コロナの蔓延ではないかと、私は捉えています」

私がそうだったように、私たちの多くは恒常的な満足や幸福を得るために、自分以外のあらゆる何かを必要とし、それを執拗に追い求めてきた。「お金があれば」「恋人がいれば」「世間に認められれば」「崇高な教えがあれば」……幸せを手に入れることができる、と。

しかし、それは一過性の儚い満足しか、私たちに与えることができない。願いはいつか裏切られ、人びとは静かな絶望のなかで深い溜め息をつく。私たちはそんな虚しい闘いの日々を、あまりにも長く繰り返してきたのではないか。

私はいま、改めて自分自身に問う。乱されることのない平安、揺らぐことのない自由、依存することのない幸せ……は、どこにあるのか。操り、操られるこの監視社会の市井の人として生きながらも、そこから超然として「在る」生き方とは、いったいどこにあるのか、と。

やはりそれは、自己の内面深くに静かに佇む「ありのままの自分」との出会い、つまり「独り在ること」の静寂のなかにしか見出せないのではないか。
私は息子の死という体験を通して、そのことをほとんど無条件に受け入れることができたような気がする。

2021年7月15日 山荘「悠庵」にて             

織田淳太郎

目  次

はじめに 

1章 「ありのままの自分」でいることのできる、自分だけの居場所を求めて  

人里離れた禅寺への逃避行  
「自分に嘘をついて生きてきた」  
シカの赤子  
ラブラドール犬  
独り在ること  
自分だけの庵  

2章 静かに続く田舎暮らし・別荘ブーム  

「完全に一人になれる静かな空間が欲しかった」  
「ポツンと一軒家」  
座右の書は『方丈記』  
「本当の自分は孤独のなかに見つかる」  

3章 自分の庵での生活  

時間が消え去ったような感覚  
倒木の危険  
水の問題  
山荘のご近所さん  
害獣と虫 
水の問題再び──山水の管理  
前の所有者との対面  

4章 国立公園内で一人暮らす仙人  

大杉谷  
日本有数の豪雨地帯  
「あとの半分の人生は自分の好きなように生きよう」  
台風21号  
「おれは貧乏や。けど、お前らよりは贅沢しとるぜ」  
絶滅動物?との遭遇  

5章 独り在ること  

自然ほど優しいものはない  

おわりに  

参考文献  

1章 「ありのままの自分」でいることのできる、自分だけの居場所を求めて

人里離れた禅寺への逃避行

そこは、まるで幽界を思わせる秘境だった。

関東地方の人里遠く離れた、とある山中。標高850メートルに広がるその世界は、霊妙な気に溢れ、私の意識をしばし現実から遠ざけた。

いくつもの渓谷を刻む深山の黄色がかった紅葉が、真冬日の寒々とした陽を浴びて眼下に揺らめいていた。

東の山間で1羽の大鷲が悠然と弧を描いていた。その下のほうに、松や杉の大木に囲まれた禅寺が、古色を帯びた姿態をわずかに覗かせている。

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私は再び車に乗り込み、禅寺へと続く狭い山道を慎重に下り始めた。200メートルほど下った左手に、水飛沫を上げる滝のような清流があった。そこから山道は右に急カーブをとり、その正面に場違いとも思える西洋風の瀟洒な一軒家と境内の入り口が見えてきた。

突然、複数の犬の吠え声が静けさを打ち破った。西洋風の家のサッシに3頭の大型犬の姿が、小さく見えた。そのうちの2頭は仔犬で、ともに一つの檻に入っていたが、さかんに吠えながらも、みな一様に尻尾を振っているのがわかった。

家のドアが開いて、作務衣姿の住職が出てきた。続いて1頭のラブラドール犬も勢いよく飛び出してきた。ラブラドール犬は喜び勇んで私に飛びつくと、大きな舌で私の顔をペロリとなめた。

「やあ、いらっしゃい」
住職の表情が穏やかだった。
「犬は平気ですか?」

私は「犬は好きです」と答えた。それから「何日か籠りたい」という急なお願いにもかかわらず、こうして私を快く受け入れてくれたことへの感謝を口にした。

「どうぞ、こちらへ」

住職に案内されたのは、江戸時代に建てられたという本殿の大広間だった。大広間の引き戸を開けると、縁側の先に境内が広がっていた。その向こうの傾斜地には、松や杉の大木が本殿を守るかのようにどっしりと林立している。

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私が車から荷物を大広間に移すと、次に住職は私を境内の奥の高台にある座禅堂へと案内した。そこは薄暗く、凛とした荘厳さが漂っていた。ちょうど向かい合うような形で、壁伝いの台座に座禅用の座布団が並べられている。
座禅堂の廊下にも座禅用の台座が用意されていた。台座に面する窓を開け放つと、目の前に数本の松の大木がどっしりと構え、その先に息を呑むような壮大な自然が広がっていた。

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「お腹でゆっくり呼吸しながら、この風景を半眼でぼんやり捉えるんです」
住職が言った。それから自ら手本を示し、座禅のやり方を教授してくれた。
「腰の角度は90度。臀部と両膝の3点で上体を支えます。さらに全身の筋肉をリラックスさせて、呼吸がしやすい体勢を維持します。ご自分の体を一本の木に見立て、丹田にその根があるのだと想定するのもいいでしょう。私の場合は、海中深くに沈んでいる自分をイメージします。その海底から海面のさざ波を見つめているような感じです。
さざ波とは雑念です。執着とはさざ波であるその雑念を掴まえていようとする心の働きに他なりません。ですから、雑念に巻き込まれることなく、ただそれを離れたところから見ていてください。すぐにはうまくいかないでしょうが、そのうち雑念も消えていきますから」

住職はそう言い残して、座禅堂を後にした。

私は教えられたように半跏趺坐(片方の足をもう一方の足の腿の上に乗せる)の形で足を組むと、台座の外に広がる幽玄の世界を半眼で見つめ、遠くから届く清流の囁きに耳を解放した。

2016年12月12日。

私の山暮らしの第一歩が、ここから始まっていた。(了)

※続きは本書にてお読みください。


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