見出し画像

【ひと休み②】みうらじゅんさんに思う幸福への道

嬉野珈琲店へようこそ。
マスターは大の珈琲好きである「水曜どうでしょう」カメラ担当ディレクターの嬉野雅道さん。店ではこだわりの珈琲を淹れながら、マスターが人生のあれこれについてじっくりと語ります。マスター独特の視点から語られる、胸に詰まった息がすっと抜けるお話――。今回も、前回に続いてみうらじゅんさんの言葉に刺激された嬉野さんの気づきを綴ります。

前回はこちらから
ひと休み①

人はなぜ、フンコロガシの活動をついつい見てしまうのか?

嬉野です。今回は、「え? こんな話が、みうらじゅんさんのお話に繋がって行くんですか?」と、疑われるような場面から書き出してまいりますが、実に見事に、みうらじゅんさんのお話へと繋がってまいりますので、どうぞご心配なくお読みください。

さて、「水曜どうでしょう」でアフリカロケを敢行したときの話です。現地でフンコロガシを見つけまして、こいつを撮影したんですが、見てましたら、実におもしろいんですよ。だって本当に糞を転がしていたんです。「あ!オレ今、本物、見てるんだ!」っていう興奮も、きっとあのとき、あったのかもしれない。アフリカの乾いた大地を、フンコロガシは逆立ちしながら後足で器用に糞を転がしてコミカルに前進を続けておりました。まぁ、正確に言うとバックしてるんでしょうけどね、でも、バックでも気持ちは前進してるみたいなことなんです。で、あのフンコロガシは寝ぐらに戻っていたところだったのか、さらなる糞を探していたのか、それとも、たんに転がしながら糞を丸めて転がしやすくしていただけだったのか、分かりませんでしたけど、大事そうに後足で糞を抱えて器用に転がしていくその一生懸命な姿にほだされて、私はもう目が離せなくて、フンコロガシが可愛く思えて、ずっと目で追っておりました。

画像1©hiroko

でも、転がしながらしばらく行くと石にぶつかって前進を阻まれ、フンコロガシは困っているのです。助走をつけて勢いよく糞を転がしてなんとか石を乗り越えようとするんだけど、石が大きいから力が足りず押し戻されて乗り越えられない。それでも、何回も、何回も、やっているのです。いや、ちょっとその石を迂回すれば、石の脇を抜けて楽に転がして行けるんだよって、思うんですけど、フンコロガシは、そんなことはしない。まぁ、気づいてないだけなんですけどね、で、またチャレンジ。それを飽きずにずっとやっている。あぁいうのって、じれったいはずなのに、なんでか飽きずに見ていられる。一生懸命なのがこっちに伝わってくるんでしょうかねぇ。見ていたって、たいした事件も起きないし、この先も起きる予感もしないのに見てしまう。物語性も、山場も、おもしろいことも、これといって無いのに、見ていると、なんだかおもしろく見てしまう、ってものがあるんですよ、世の中にはね。

ひょっとして、自分のことも、フンコロガシを観察するように、自分の、もっと上の方から、自分で自分を見下ろせちゃう視点から見てみたら、自分の人生も他人事みたいに見られて、意外に楽に、おもしろく見ていられるかもしれない。そういうことを思いました。あのほら、ドローンで高いところへ上がって見下ろす映像、あの視点から見た映像って、見ていて見飽きないじゃないですか。あのちょっと先の方まで周囲が見えるあの視点から自分を見下ろすことができたら、それだけで自分の人生が楽に思えそうな気がするんです。

「あいつも(私のことですね)、あぁ見えて、大変そうだけど、まぁ生きてるんだから、なんとかするんだろう」みたいなね、「あぁ、やってる、やってる、いや、むりむり、そこはむり、ははは、バカだなぁ」みたいなね、自分のことでも、ドローンの視点なら他人事みたいに呑気に見ていられるって、なぜか思ってしまうんです。

画像4©hiroko

樹木希林さんは、フンコロガシを見るように自分を見ていたのか?

このまえYouTubeで樹木希林さんが、「あたしは、昔から自分のことは、案外、雑に扱って来ましたからねぇ」って、さりげなく言ってて、その言葉が妙に心に残ったんです。

「自分のことは、雑にあつかって来ましたからねぇ」

なるほど。そういえばフンコロガシを上から見ていたとき、たしかに私は、フンコロガシに対して「雑」だったと思うんです。だって他人事だから、というかフンコロガシだし、みたいなね、雑な扱いで見てました。ということは、樹木希林さんは、あのフンコロガシを観察するような視点で、自分のことも「他人事みたいに見てきたのよ」って、おっしゃりたかったんでしょうか。

なんかね、その希林さんの言葉を聞いたとき、不意に思ったんです、いや、これはもちろんイメージ的になんですけど、そういえばフンコロガシを見ていたとき、フンコロガシの心の声ってものは、私には何ひとつ聞こえてこなかったなぁ、と。まぁ当たり前ですけどね。でも、ひょっとしたらね、だからアレって、楽に見ていられたんじゃないのか、って思ったんです。

心の声が聞こえてこないと、なんか、楽でいられる。

いや、たんなるイメージなんですけどね。でも、そうするとね、もしドローンの視点から自分を見下ろすことができたら、ひょっとして私の心の声も聴こえてこなくて、自分を楽に見下ろしていられんじゃないか、そんな気がしたんです。「あぁそうか、それを思うから、だから私はドローンの視点から自分を見下ろしてみたい、見下ろせたら呑気に自分を眺められて、なんか、人生、楽かもしれない」と、そんなふうに思ったのかもしれない、って。

画像4©hiroko

だって、自分の心の声ってうるさくないですか? くよくよ、くどくど、泣き言を言うじゃないですか。あれが聞こえてこないなら、それだけでも、だいぶ朗らかでいられるんじゃないでしょうか。それくらい心の声ってうるさい。だから樹木希林さんの「自分のことは雑にあつかってきましたからねぇ」という発言も、「自分の心の声なんか、聞いてやったところでねぇ、そんなの煩わしいだけよ」みたいな理由から、希林さんは心の声を聞かないために、戦略的に「自分を雑に扱って」おられたのかなぁと思ったんです。つまり、他人から酷いことを言われても、希林さんは「いちいちくよくよした心の声なんて聞く気はないからね」と、心の声を無視するために「自分のことを雑に扱う」というイメージを自分に習慣づけてきた、って、ことなのかなぁと思ったんです。

自分を大事に扱ってると、心の声に追い詰められ、へとへとになる

そんなことを思ったのは、なんか、みうらじゅんさんにしても、樹木希林さんにしても、人生とか、幸福とかの話になるとねぇ、必ず「自分」って言葉が出てくるからなんです。やっぱり、あれなんでしょうね、幸せってものを考えるときに、「自分」というのは、間違いなくキーワードなんでしょうね。だって、自分はやっぱり「感じる主体」ですからね。

「辛い」「哀しい」「怖い」「不安」「悔しい」「腹立つ」「緊張する」「恥ずかしい」と、きりがないくらい感じてるわけですからね自分の心は。そして感じる度に声を出して泣き言をいい出すわけです。それが始まるとうるさいから、その心の声を黙らせたいわけです。そして静寂の中で粛々と人生を過ごしたい。そういう欲求は私にもあるんです。それを、樹木希林さんは、自分を雑に扱うというイメージで実践してらしたのかもしれない。

実は、そのことと、まさにリンクするようなことを、みうらじゅんさんも、こんなふうに言ってたんです、

「基本的に人間って真面目じゃないですか。ていうか、基本的にどころか、自分に対して自分ってやつはメチャメチャくそ真面目で、自分に美味しいものたべさせてやりたいし、自分に、なんか、立場良くしてやりたいし、みたいな、他人には不真面目でも全員自分に真面目すぎて病気なんだよね」って。

画像3©hiroko

みうらじゅんさんが言う、この、自分に対する真面目さっていうのが、だから、心の声を聞いて、その心の声に応えようとしてしまうクソ真面目さってことなんだろうなと思ったんです。樹木希林さん的に言うと「それはあなた、自分のことを雑に扱わないから、そんなふうに自分が可哀想に思えて自分にくそ真面目になっちゃうのよ」みたいなことですよね。つまり、ほとんどの人が、ふつうに自分を大事に扱っちゃってるから「心の声に応えてあげなきゃ」って、クソ真面目になってるんだなってことですよ。そうして、みんな、へとへとになってしまう。

だから樹木希林さんは自分を大事に思わないで、雑に扱うというイメージで、心の声を聞かないようにしていた。ということは、心の声を聞かなくするには、なんらかのイメージを使って「脳を騙す的なテクニックが必要だ」ってことなんでしょうね。

一方、みうらじゅんさんは、樹木希林さんとは違った、だいぶおかしな方法と、だいぶおかしな思想で、脳を混乱させてしまったために、図らずも自分の心の声を聞かない方法にたどり着いてしまったようなのです。こんなことをみうらじゅんさんは言ってました、

「小学生のとき、なんか今ひとつ自分には個性もないし、個性的になるには、どうしたらいいかって、ずうっと考えてたときに、『好き嫌いをなくすべきだ』って、オレ、途中で思ったんですよ。これは好きで、これは嫌いって決めるのって普通だから。それ、だれでもそうだから。だけど、普通の人が、『それ、要らないでしょう!』って言うものを、好きになったとき、『おまえ、個性的だなぁ』の声って、出ると思うんですよ周囲から。でもそんな、普通の人が『それ、要らないでしょう?』っていうものが好きだなんて、一般的には『どうかしてる状態』だから、そのどうかしてる状態にあえて行くには、自分を追い込んで、追い込んでいかなきゃならない。修行ですよ」

画像8©hiroko

つまり、小学生のとき、めっちゃイケてるわけでもなく、個性的でもないと自覚して、せめて個性的な奴になろうと誓ったみうらじゅん少年は、その日から、自分が個性的な小学生になるために、他人から「おまえ、どうかしてるな」って、言われるようなところへばかり自分を追い込んできたというのです。そんな人生は、まさに修行で、例えるならば、その場に立っていられないほどの水圧で落ちてくる滝にあえて飛び込んで打たれながら、「オレ、なんでこんなキッツイことしてるんだろう」と、わけがわからなくても、それでも、よそにまたキツそうな滝を見つけると、「う〜ん、やっぱり、こっちの滝にも、一応、打たれとかないとなぁ、個性的な奴にはなれないなぁ」と、また、修行に行ってしまう、みたいな、そんな、一般的には「どうかしてる」人生を、みうらじゅんさんは自分に課し続けて来たというのです。

「オレ、この前も、女子高生向けのアニメ見に行って、でも、別に見たいわけではないから、初めは当然腰が重いわけ、だって、もっと本当は見たい映画いっぱいあるけど、でも、見たい映画見たって、しょうがないんだよ、そういう映画はみんなが見てんだから。だったらオレは、『どうかしてんなおまえは。大丈夫か?』って言われるところへ行かなきゃいけないから、毎月見る映画だって、新作を見に行くときは、『わ、これは、キッツイなぁ』みたいな映画を見に行くんだよね。となるとまぁ、その映画は、少女漫画原作とかになっていくわけよ。自分を追い込むってそういうことだからね。「なんだよこのアニメ」って思うけど、周りはもう女子高生ばっかりみたいなところに、不思議なロン毛のジジイがいるわけで。そしたら隣のやつらがオレのことガッて見るよね、『こいつは見るべきじゃない!』みたいな目で見られるときに、もう、ほんと、恥ずかしくて、その場に消え入りたいけど、でも、そういうときって、やったぁみたいなガッツポーズが出るときなんだ。だって、その状況が、可笑しいわけだから」

画像5©hiroko

脳に先んじて行動し、脳を混乱させ、心の声を黙らせるみうらじゅん方式

結局、みうらじゅんさんは、個性的な奴になるために、「好き嫌いをなくすんだ」と小学生のときに自分に誓って、それ以来、映画館には好きになれない映画ばっかり見に行ってるわけですよ。その時点でもう、意味がわかんなくて笑うんですけど。でも、「おまえ、そんな映画、見に行って大丈夫か?」って言われそうな映画を見に来てしまってるから、映画館にいても映画に集中できない。そうなると人間の意識は「こんな女子高生しかいないような暗いところで、いったい、オレは、なにしてるんだ」と、自分が置かれた状況に向かうようになってしまう。この状況がみうらじゅんさんに「自分をフンコロガシを見るみたいに観察してしまう」視点を与えたのかもしれない。だから、ほんとに、恥ずかしくて消え入りたい状況に追い込まれてしまっても、一方では、そんな状況を、かなり引いた目で観察しているもう一人の自分が出来てしまっていて、そいつが、「だって、そんなところへおまえが行っちゃってるんだから、そりゃ、そうなるだろうよ」と面白がってるようなのです。本人が消え入りたい状況に追い込まれているときに、その状況を可笑しいと笑っているもう一人の本人が同時に存在しているわけだから、これはある意味ねぇ、ドローンを使わないで、もう一人の自分が、ドローンの視点まで上昇して、心の声が聴こえてこない視点から自分を見下ろしてるって状況に、相当近いんじゃないのかと思ったわけです。

どうしてこんなことができるのか。それはみうらじゅんさんが、日常的に脳を麻痺させているからでしょうね。だって、好きでもない映画を見に行くっていう時点で、脳は「なんでよ?」って思いますよね。そればかりか、映画館では女子高生に囲まれて辱めを受けて消え入りたいとまで思わせられるわけですから、またしても脳は「なんでよ?」って思いますよ。みうらじゅんって人が、好きでもない映画を見に行くって段階で、脳は、すでにみうらじゅん本人をコントロールできていないわけですから、脳は混乱しますよね。でも、脳が分からないのも無理はないんだ、だってみうらじゅん本人も、なんでそんな映画を見に行くのか分からないんだから。こうして脳が発するこの「なんでよ?」の連続技で、みうらじゅんさんは自分だけでなく脳までも追い込んでいたわけです。追い込まれた脳は、もう、わけが分からなくなるばかりで混乱して、どうにも考えが整理できない。「え〜っと、なんでこんなことになってんだっけ?」と、脳は状況を整理することに追われて心の声を唱えるゆとりもない。

画像6©hiroko

これなんです。この時点でみうらじゅんさんは心の声を黙らせることに成功している。こんな修行をみうらじゅんさんは小学生のときから50年以上続けてるってことでしょ? もの凄いことです。偉業です。10代でこんなこと考えつくなんて偉人としか思えない。

まぁ、ここまで凄いことを、みうらじゅんさんと同じように我々が実践するのは、能力の面、経済力の面で困難ですけど、でも「どう考えて生きたら楽になれるか」のヒントなら、みうらじゅんさんから無尽蔵に学べるってことです。

腸が煮えくりかえっても心の声が聞こえてこない場所づくりこそ幸福への道

そして、いまさらのように気づくのは、みうらじゅんさんが語ってくれる「自分の話」が、ここまでおもしろく安心して聞いていられるのは、みうらじゅんさんが語る「自分の話」からも、あのうるさい心の声が、まるっきり聞こえてこないからです。その場に消え入りたくなるような話を聞いていたって、くよくよした心の声はちっとも聞こえてこない。だから「みうらじゅんさんの自分の話」は、全部、笑って聞いていられる。そして笑ったあと、気が楽になっている。つまり、心の声が聞こえてこないものに触れていると、人は、知らないうちに心が癒される、ってことなんじゃないですかね。そんなふうに考えを巡らせながら、私はまた、アフリカで懸命に活動していたフンコロガシの情景を懐かしく思い出すんです。

画像7©hiroko

きっと、「水曜どうでしょう」だって、フンコロガシを見ているように、長閑に見られているんじゃないだろうかって、思えてくるんです。旅する車中で、あんなにも罵りあって格闘しているのに、あそこから4人のくよくよとした心の声は、ちっとも聞こえてこない。だから見ている人は、フンコロガシが4匹、ひとつの糞にたかって糞を懸命に転がしているみたいに、あの番組を見ていられる。だから「見ていてとても癒されます」なんていう人が現れるのかもしれない。「水曜どうでしょう」から心の声が聴こえてこない理由は、旅の渦中にいるあの4人が、知り合ってもう25年も経つというのに、いまもって4人の関係に、心の声を滲ませるような素の自分を持ち込む気がまるでないという立ち位置を、続けるからだと思うんですが(これは#1-5で詳しく書きました)。だから、まったく容赦のない言動が飛び交うあの番組からも、くよくよした心の声は、微塵も見えてこないし聞こえてもこないのです。だから、あの番組には、ごたごたした裏事情もないければ、水面下での骨肉の争いも、ましてや解散など、金輪際ないわけです。

「くよくよとした心の声がまるで聞こえてこない場所」

幸福を求める人間の安心は、きっとそういうところにも知らないうちに反応して、ちゃんと求めようとしているんだなって、今回の話を書きながら、私はいまさら気づく思いでした。(酷い目に遭ってるときも、くよくよとした心の声が聞こえてこない場所。商売のヒントは、この辺りにも、なにか、ありそうですよね)
(次回は4月1日更新です)

追伸
「21年目のヨーロッパ21カ国完全制覇」は、ただいまHTB北海道オンデマンドで、「水曜どうでしょう2020最新作」として好評販売中でございます。まだご覧になっておられないのに、うっかりこのコラムを読まれて興味を持たれた方々は、ただちにお求めください。        
                              嬉野雅道

嬉野雅道(うれしの まさみち)
1959年生まれ。佐賀県出身。「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)のカメラ担当ディレクター。愛称は「うれしー」。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞優秀賞など多くの賞を受賞したドラマ「ミエルヒ」では企画を担当し、福屋渉氏とともにプロデューサーも務めた。「愛と平和と商売繁盛」「負けない」がモットー。どうでしょう藩士と奥様に人気。著書は『ひらあやまり』『ぬかよろこび』(ともにKADOKAWA)など多数。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
光文社新書

よろしければサポートをお願いいたします。もっと読んでいただけるコンテンツを発信できるように、取材費として大切に使わせていただきます!

アランちゃんも喜んでいます!
58
光文社新書の公式noteです。光文社新書の新刊、イベント情報ほか、ぜひ手にとっていただきたい既刊本のご紹介や注目の連載をアップしていきます。お気に入りの一冊について書かれたnoteを収録するマガジン「#私の光文社新書」は、常時投稿をお待ちしています!