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想像以上に穏やかな暮らし!? 標高5300mでのキャンプ生活|上田優紀

光文社新書

多くの人を惹きつけてきた世界の頂、エベレスト。その頂上までの道のりは険しく、極寒のキャンプ生活に登山者を飲み込むクレバス、いるだけで生命が削られるデスゾーンなど試練ばかりが待ち受けている……と想像する人も多いのではないでしょうか。たしかに、この厳しさはエベレストの一面です。しかし、標高8000メートルからの夜明けや緑溢れる麓の街道など、そこには穏やかな一面もあります。
新刊『エベレストの空』では、そんな訪れた人だけが知ることのできる表情豊かなエベレストの全貌を、ネイチャーフォトグラファーの上田優紀さんが、130枚もの美麗な写真とともに描きます。本記事ではその中から第3章の一部を抜粋して公開。エベレスト登山の拠点となるベースキャンプで、挑戦者たちはどんな生活を送っているのでしょうか?

ベースキャンプでの日常

 エベレストのベースキャンプは標高5350メートル。富士山はもちろん、ヨーロッパ・アルプス最高峰のモンブランよりも高い場所にある。そんな標高が山の入り口にすぎないから驚きを超えて呆れてしまう。

 ベースキャンプはいわゆる登山口のような場所だが、ここに到着したからといっていきなり登山を始めるわけではない。スケジュールや天気などによって違うが、これまでの登山でも、ベースキャンプに着いてから最初の入山までに3~5日間は休息日を設けていた。今から約1ヶ月かけて標高6000、7000、8000メートルと人間の限界を超えた領域まで登らなくてはいけない。この異常な環境を正常にするために、じっくりと時間をかけるのが最善策だ。まずはしっかりと休息し、ベースキャンプの高さに順応することが登山のファーストステップ。どうせ天気の安定する5月の中旬以降にならないとサミットプッシュはできない。焦る必要はないのだ。

氷河に囲まれ、目の前にはヒマラヤの山々が広がるベースキャンプ。

 ここで、皆さんは休息日をはじめエベレストでの生活といえばどんなものを思い描くだろうか? 食料を削り、猛吹雪に耐え、テントに籠って必死に山と対峙する、みたいな過酷なものを想像するかもしれない。もちろん山に入ればそんなこともあるだろう。だが、遠征生活の基軸となるベースキャンプではほとんどありえない。期待を裏切る?ようだけれど、僕のエベレストでの日常はかなりゆったりとしたものだった。そんな1日の流れを紹介しよう。

 休息日、つまり順応など何の予定もない日は朝7時頃に起床する。起きるとまず、保温ボトルに入れていたお湯をタオルにとって顔と体を拭き、保湿クリームや化粧水、日焼け止めを塗りたくる。お肌のケアというものに無頓着なので日本ではそういったものを塗ることはないが、ヒマラヤでは違う。極度に紫外線が強く、乾燥が激しいため、日焼け止めを塗っていても火傷(やけど)のようになってしまうのだ。もちろんそれは肌を通り越して、体の内部へダメージを与える。標高8000メートルを超えると、海抜0メートル地点より80パーセントも紫外線が増えるというデータがあり、マナスル登山の時は口の中まで日焼けし、熱い味噌汁を飲んで火傷した時のようになっていた。当然、リップクリームもUVカットのものを使う。それでも遠征が終わる頃にはいつも唇はただれて、帰国してからもしばらくの間、肌はボロボロの状態が続いてしまう。

 ひと通り準備が終わるとダイニングテントに行き、朝食を食べる。ベースキャンプにいる間の食事に関してはキッチンシェルパが用意してくれる。キッチンシェルパはチリンのように一緒に山に入るシェルパとは別で、ベースキャンプに滞在し、食事やお湯の準備、食料の管理など多岐にわたってお世話をしてくれる人たちのことだ。

 朝食はほとんどお粥、もしくはトーストで、お粥の日には日本から持参したふりかけやお茶漬けの素を入れて食べる。またお湯をもらってインスタントのお味噌汁を飲んだりもした。ベースキャンプの食事はキッチンシェルパによって内容が結構変わるから面白い。例えば、アマ・ダブラムでお世話になった人は日本に出稼ぎに来たことがあったので天ぷらなど日本食を多く作ってくれた。今回のシェフはというと韓国に出稼ぎに行っていたらしく、ビビンバやキムチ、韓国のりなんかをよく出してくれて、どれも好物なので、いつも美味しく頂いていた。

 朝食後は歯を磨き、軽く運動する。テントの前の大きな岩の上が僕のストレッチスペースだ。この時間になるとようやく山の向こう側から太陽の光がベースキャンプに届き始める。温かな光を受けて、ゆっくりと体を伸ばすと本当に気持ちがいい。体が温まってきたら腕立て、腹筋、スクワットそれぞれ30回を3セット。始めた4月の中旬は10回もすると息が苦しくなり動けなくなったが、次第に連続でこなすことができるようになった。休憩を挟みながらこれらを行うのが午前の日課だ。雪の日にはダイニングテントの中でそれらをこなしていた。

 運動が終わったら自由時間で、コーヒーを飲んで山を眺めたり、小説を読んだりして時間を潰す。正午になれば昼食をとる。ランチは焼き飯やインスタントラーメンが多かった。一度だけエージェントがカトマンズから日本食をヘリで輸送してくれて蕎麦を食べたが、思わずにやけてしまうほど美味しかった。昼食の後は少し休憩して、朝と同じトレーニングを再びこなす。その時に聞く音楽は決まって中島みゆきの『ファイト!』だった(ちなみに朝はあいみょんをよく聞いていた)。午後からはまた本を読んだり、アイスフォールの手前まで散歩しながら撮影をしていた。

入山前にはしっかりとアイゼンにやすりがけをする。

 夕食が始まるのは午後6時。メニューは意外と華やかで、好物のダルバートやパスタ、カレーなどを作ってくれた。食後は温かい紅茶を飲みながら本の続きを読んだり、日記を書いたりする。時には月明かりに照らされた氷河の撮影もしていたが、8時前には自分のテントに戻って日本でスマホに入れておいた映画を見てから10時前に就寝。春とはいえ氷点下10度以下になるのでナルゲンボトルに熱湯を入れて、いつもそれを湯たんぽ代わりに抱きながら寝ていた。

 時々、SNSを使ってベースキャンプでの様子も発信していた。使う人が多い日中はネットがかなり遅くなるので更新は夜中から明け方に行うことが多かった。こんな世界の端にもWi‐Fiは飛んでいるから恐るべき時代の進歩だ。詳細は忘れてしまったが、ベースキャンプにはエベレストリンクという会社が出している有料のWi‐Fiがあり、確か何ギガまで使えていくらみたいな感じだったと思う。曇りになったり機材トラブルだったりで使えない日も多かったが、ベースキャンプにいた1ヶ月半でSNSの更新や仕事のメールチェック、後は天気の確認などに使って最終的に600ドルも払っていた。驚くほど高額だが、ここはエベレスト。Wi‐Fi料金だってエベレスト級なのである。

快適な暮らしを求めて

 総期間2ヶ月にも及ぶエベレスト遠征だが、高度順応中の休息やサミットプッシュまでの天候待ちなど、そのほとんどはベースキャンプで過ごす。山に一歩足を踏み入れると、一瞬の判断が生死を分ける。普通に歩くことさえ困難な環境で、常に死がちらつき続けることは想像以上に辛い。そんな精神的なストレスは時に足を止め、つい諦めようかという思考を招く。長期間のテント生活に耐えられる精神力はヒマラヤ登山の最低限必要な能力といってもいいだろう。だからこそ、ベースキャンプでいかにストレスなく快適に過ごすかは登頂を左右するほど重要なものだと僕は考えていた。

 確認したわけではないが、前述したリッチなグループがシャワーブースを用意したり、ダイニングにワインを用意したりするのは快適なベースキャンプライフを送る最たる手段だと思う。世界的に有名な登山家の中にはダイニングテントに絵画を飾って、リラックスするという話も聞く。僕もそこまでではないものの、やはり少しでも快適なキャンプ生活を目指していた。そのためにいつも用意するのがコーヒーと本だ。

 ベースキャンプでは毎日コーヒーを飲む。インスタントコーヒーではなく、日本からちょっと良いスターバックスの豆をジップロックに密封して持っていき、それをドリップしている。毎朝、豆を挽くのは日本でも一緒で、もう10年以上、朝起きてまずコーヒーをれるのが習慣になっている。僕にとってコーヒーは山だけでなく、日常から切っても切れないものなのだ。日常で極地を思うことで心豊かになるように、極地では日常を思うことで満たされるのかもしれない。

 単純に自然の中で飲むコーヒーが一番美味しいというのもあるが、標高5350メートルでスタバのコーヒーが飲めることがいかに幸せなことか、一度経験してほしい。ひょっとしたら世界一高い場所でスタバを飲んだのは僕かもしれない。そんなくだらないことを考えながら壮大な自然の中でコーヒーを飲む時間は幸福度が最高に高まる。僕のチームにワインはないけど、スタバのコーヒーがあるから問題ない。

 もうひとつ欠かせないものは本だ。チームを組んでいたらおしゃべりしたり、カードゲームで遊んだり、色々できるのかもしれないが、僕は単独隊だ。たった一人、長いベースキャンプ生活で時間を潰す娯楽は想像以上に少ない。そんな中、本は数少ない娯楽のひとつだった。ベースキャンプまでとはいえ、どうしても持っていける本の数に限りがあるので珠玉の数冊を持っていき、何度も繰り返し読んでいた。

 ちなみに、レギュラーとなっているマスト本は星野道夫『旅をする木』、太宰治『人間失格』、沢木耕太郎『深夜特急』、村上春樹『海辺のカフカ 上・下』、夏目漱石『こころ』である。これらに加えて中島敦の『山月記』だったり古典や純文学をいくつか持っていくことが多い。この原稿を書きながら改めて思ったのだが、『人間失格』だったり『こころ』だったり、もう少し気分が明るくなる本を持っていったらいいのに。けど、なぜか遠征では特に『人間失格』をほしがってしまう。もしかしたら、人の暮らしから遠く離れることで本能的に人間臭さを求めているのかもしれない。

毎回持っていく本。

 今までは同じ本を何度も読み返すのでこれだけでも十分だったが、今回はいつも以上に長丁場となるエベレストだ。いつものラインナップに加えて、キンドルを買って、追加で小説と漫画をいくつか入れていった。なぜ全ての本を軽くて、便利な電子書籍にしないかというと、電池がなくなれば続きが読めなくなるという欠点があるからだ。それと僕はどうしても紙でペラペラとめくる本が好きだった。資源の削減が叫ばれる世の中だが、好きなものは好きだから許してほしい。

 さらにいつもと違うのはスマホに映画や音楽などを入れて持っていったことだった。あらかじめアプリを入れて映画も数本ダウンロードしてきたので、Wi‐Fiがなくても映画鑑賞を楽しむことができる。これはかなり画期的だった。なんで今まで持っていかなかったのか理解ができない。毎晩、寝る前に見る映画が楽しみでしかたなかった。

 ちなみに、スマホやキンドルの充電はソーラーパネルで行う。アマゾンで買ったA4のパネルが三つ折りになっているものをもう何年も使っている。確かアメリカの軍も同じものを使っていると説明書に書いてあった気がする。これが意外と優秀で、折りたためば小さくなるし、スマホの充電も、晴天であれば1~2時間で完了するほど強力なので重宝している。

ばっちり充電できるソーラーパネル。

 世界の片隅で『ジュラシック・ワールド』にドキドキして、あいみょんに心打たれ、星野道夫に癒される。意外かもしれないが、そんな身近なエンターテイメントが世界の果てでは想像以上に効果的だ。山に囲まれ、数ヶ月もずっと緊張しっぱなしでは心が壊れてしまう。そんな時はいつも文化やアートが心を満たしてくれる。

カバーの装画はなんと雪下まゆさんに描いていただきました!

目次

第一章——準備
第二章——街道
第三章——順応
第四章——停滞
第五章——頂上
エピローグ

より詳しい目次はこちらをどうぞ!

著者プロフィール

上田優紀(うえだゆうき)
1988年、和歌山県生まれ。ネイチャーフォトグラファー。京都外国語大学を卒業後、24歳の時に世界一周の旅に出かけ、一年半で45ヵ国を周る。帰国後は株式会社アマナに入社。2016年よりフリーランスとなり、世界中の極地・僻地を旅しながら撮影を行う。2018年にアマ・ダブラム(6856メートル)、2019年にはマナスル(8163メートル)に登頂。そして、2021年にはエベレスト(8848メートル)登頂を果たす。



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