山口周さんの幻のデビュー作『グーグルに勝つ広告モデル』を全文公開!【その4】5章
5章 テレビvs.インターネット
*テレビにどんどん近づくネット
3章で指摘した「提供情報」「情報の消費シチュエーション」「アクセススタイル」の三つの観点から、「テレビの代替されやすさ」を検討してみると、近い将来、ネットはきわめてテレビに近いプラットフォームになりうることが理解できます。
すでに提供情報については、映像クオリティ的に遜色ないものが見られるようになりつつありますし、情報の消費(視聴)シチュエーションという点では、リビングとデスクトップという差はあるものの、両方とも屋内という点でもとより大きな差異はなく、近年ではモニターの互換性も高まっています。
最後のアクセススタイルだけが、いまだにネットとテレビでは大きく異なり、テレビとネットの代替性を考える際に大きなキーポイントになってくるのではないかと考えています。
テレビは非常に受動的なメディアで、ボタンを押せばあとは勝手にコンテンツが垂れ流されてきます。それに対してネットは、コンテンツにもよりますが、常に自分から能動的なアクションを起こさないと前に進まない、しかもそのアクションが直観的ではない、という特徴があります。
実はここに、テレビ視聴者がネット視聴者にスイッチする際の最後の防波堤があるのですが、ここ数年の技術開発は、大きくこの部分、つまりアクセススタイルの柔軟性の獲得に向けられています。
例えば、NBCユニバーサルとニューズ・コーポレーションが共同で立ち上げたIPTVアプリケーションのフールー(Hulu)は、非常に使いやすいインターフェースで、「24」や「ザ・シンプソンズ」といった人気テレビ番組や、20世紀FOXやユニバーサル等のメジャー映画会社のコンテンツを無料で提供しています。
また、スカイプ(注1)の創業者であるニコラス・センストロムとヤヌス・フリスが設立したジュースト(Joost)は、PC上でテレビと同じような操作感を実現して、MTVやCNN、ナショナルジオグラフィックといった大手コンテンツ企業の番組を無料で提供しています。
注1 スカイプ:ルクセンブルクに籍を置くSkype Technologies社が提供するインターネット電話サービス。
もちろんネットならではの機能も備えていて、ジューストの場合は、番組ごとにチャットができたり、RSS(注2)ベースでティッカー(注3)を組み込んだりしています。
注2 RSS:ニュースやブログなど各種のウェブサイトの更新情報を簡単にまとめ、配信するための文書フォーマットの総称。
注3 ティッカー:特定範囲内に文字列を流して表示させる表示方式。右から左(あるいは上から下)に文字が流れるので、限られた領域に多くの情報を表示することが可能。
これら以外にもバベルガム(Babelgum)やベオTV(VeohTV)といった新興サービスが話題になっている一方、オンデマンド型ではなく同時再送信形式を採用するサービスも登場しています。
例えば、ザトゥー(Zattoo)はCNNやBBCといったメジャーテレビ局と提携しており、これらのテレビ局が放送する番組をリアルタイムで再送信しています。
その活況は、1990年代半ば~後半にかけてのブラウザのデファクトスタンダード(注4)競争を思い起こさせるものがあります。
注4 デファクトスタンダード:事実上の標準。デファクト=「de facto」はラテン語で「事実上の」の意。国際機関や標準化組織による公的標準ではなく、市場の文脈によって事実上の標準とみなされるようになった規格や製品を指す。
現状では、これらのサービスのどこがデファクトスタンダードになるのかは不透明ですが、各社ともオペレーションの簡便性を高めるという方向でサービスに磨きをかけていることでは一致しています。その点から、いずれネットでの動画配信というのは、テレビとの代替性が非常に高いサービスになることと考えられます。
*視聴率に縛られたビジネスモデル
では、地上波テレビというビジネスが生き残るには、どのような方向性が考えられるでしょうか?
いろいろな打ち手が考えられるのですが、一つには視聴率を伸ばすという方向から視聴率の単価を上げる、という方向に舵を切る、というのがあるのではないかと筆者は考えています。
理由は二つあって、一つは先述のようにアテンションの数を増やすことが難しい状況が見えているからです。二つ目の理由は、視聴率が売買の単位として成立するための社会的な前提が、いくつか変化しているからです。
アテンションが増やせないことは、すでに説明しましたので、ここでは後者について考察してみたいと思います。
*なぜ視聴率が必要だったのか?
そもそも視聴率とは「広告取引に一種のアカウンタビリティ(説明能力)・透明性を与える指標」です。これは電通の四代目社長である吉田秀雄が、前近代的で不透明な取引が横行していた広告業界に透明性を持ち込もうとして、雑誌の部数を第三者機関として計測するABC協会の設立を提唱したのと同じことです。
では、取引に透明性があると何がいいのでしょうか?
結局のところ取引コストが下がる、というのが、そのもっとも重要な理由だったと思います。価格設定に不透明な印象が付きまとうと、常に価格設定に関して交渉や駆け引きが発生しますし、疑り深い会社や担当者だとそもそも購入を検討してくれない可能性があります。
要するに、お客を開拓するにも提案するにも手間がかかるということです。
広告代理店というのは、基本的に取引手数料でしか生計を立てられないビジネスモデルですから、生み出される企業価値の総計は、単純化すると、
取引の回数×{(平均取引額×手数料率)-取引一回あたりコスト}
に決定されます。
価格設定が不透明だということは、説得に時間がかかることになりますから、「取引一回あたりコスト」にマイナス面で響いてきます。他方で取引が不透明だと顧客の数をなかなか伸ばせない(そんな不透明な価格設定に対してお金は出せないヨということ)ので、これは「取引の回数」にマイナスの影響として響いてきます。
価格設定が不透明だということは、収益を分解した式の二項目に、同時にマイナスのドライバーとして効いてくるわけです。平たくいえば、広告代理店のビジネスにとってきわめて悪い影響を持っているわけです。
吉田秀雄は、前近代的な広告業界の中で、おそらくこのことに早い段階で気づいたと思われます。そしてこの考え方を、民間放送によるテレビ広告というビジネスモデルを策定する際にも導入しました。
広告主の立場としては、よく見られている番組に出す広告にはお金をたくさん払ってもいいけど、あまり見られていなければお金を出したくないでしょう。そのため、テレビ番組が実際にどれくらいの人に見られているかを客観的に示す指標が必要だったのです。
これが、視聴率が必要になった理由です。
*視聴率一単位の価値のバラツキが大きくなっている
テレビ放送が始まった当時、広告取引の透明性を向上させるために導入された視聴率ですが、現在ではその指標が依拠している前提の多くが崩れてしまっているために、きわめて意味の薄弱なものになってしまっているように感じられます。
視聴率に応じて広告料金が変化するというビジネスモデルが合理化されるためには、「視聴率一単位の価値が同じである」という要件が満たされる必要がありますが、これが難しくなってきているのです。
視聴率一単位の価値が同じである、という要件が成立するためには、さらに二つの小要件が満たされる必要があります。
視聴率一単位の価値が同じである= ①視聴者全体の所得や消費性向のバラツキが小さい。 ②視聴率一単位が表す広告接触人数のバラツキが小さい。
この点について、テレビ放送が始まった当時と現在を比較すると、非常に大きく状況が変わってしまったことがわかります。
テレビ放送が始まった1950年代から1980年代まで、「一億総中流」といわれたように、所得のバラツキは少なかった。これは実際の可処分所得の多寡に加えて、気持ちの上で属している「クラス感」ということもあったのでしょう。
かつて国民のほとんどが、自分は「中流である」と思っていたわけですが、現在では大きく変わってしまいました。
世の中の所得格差の程度を表す指標として、ジニ係数があります。日本のジニ係数は中長期的に上昇傾向にあり(図7)、巷間いわれるように確かに格差は拡大の方向で動いています(ただし、アメリカはもちろんのことカナダよりも低く、ドイツとほぼ同じ程度であり、国際的に見るとまだ相対的には格差の小さい社会だといえます)。
加えて、気持ちの問題としての格差、属している「クラス感」の格差、もっといえば「未来に対する希望」の格差は大きくなってきています。
例えば、筆者が5歳のとき、1970年に行われた大阪万博の記録映像を見ると、画面から匂い立つような未来へのオプティミズムが伝わってきます。時代がいかに変わってしまったかを皮膚感覚で感得させられます。
次に、視聴率一単位の価値が同じであるためのもう一つの要件=視聴率一単位が表す広告接触人数のバラツキが小さい、という点について考察してみたいと思います。
図8は、1980年から2010年の世帯あたりのテレビ台数と人員数を比較したものです。1980年時点での世帯あたりのテレビ台数は1.4台でした。一方、世帯あたりの人員数は3.2人ということで、あくまで平均ですが、世帯におけるテレビ一台あたりの人員数は2.3人ということになります(3.2÷1.4≒2.3)。
一方、2010年時点を見てみると、テレビの世帯あたりの台数は2.5台、人員数は2.6人ということで、テレビ一台あたりの人員数は1.0人ということになります(2.6÷2.5≒1.0)。これは1980年時点と比較して半分以下です。
もちろん、この数値はあくまで平均値です。そもそも世帯あたりのテレビ台数が増えたといっても、すべてのテレビが同じように世帯の中で見られているわけではありません。ですので、実際にここまでの差があるかどうかは、さらに検証してみないとなんともいえません。とはいえ、単純計算でこれだけの差があるわけです。
また、この指標に関する世帯間でのバラツキも大きくなっています。
核家族(親だけ、または親と子供だけの世帯)の構成比は、1980年と2010年でも大きく変わりません。その一方で一人暮らし世帯は、1980年の19.8%から2010年の30.3%へと跳ね上がり、大家族(ここでは便宜上、一人暮らしでも核家族でもない世帯を全部大家族としています)の比率は、1980年の19.9%から2010年の11.9%へと低下しています(図9)。
これはつまり、昔は2割の広告が大家族へ届いたのに対して、今は1割強しか届かない、ということを意味します。
*視聴率=アテンションの数ではなく、単価を上げる
筆者が視聴率から脱却すべし、とした論拠を、もう一度簡単に整理してみたいと思います。
まず、ポイント1があります。
ポイント1 マスメディアの売上げは獲得したアテンションの数に比例する。
で、次にポイント2と3があります。
ポイント2 アテンションの絶対数は増えない。
ポイント3 各局のアテンションシェアは減る。
したがって、次の結論が導かれます。
結論 今後マスメディアの売上げは減る。
だから、前記のポイント1を命題として棄却する、つまり売上げがアテンションの数に比例するビジネスモデルから脱却することが、中長期的に必要ではないか、というのが筆者の提案です。
実はこれ以外にも、取りうる方法論のオプションはいろいろあると思います。
例えばコンテンツのマルチウィンドウ化(映画やDVDといった別パッケージに展開)、事業売上げの増加といったものです。
もちろん、こういった活動によって減りゆく広告売上げを補填していくのは必要なのですが、インパクトの大きさと収益構造を考えると、どうもこれだけで埋め合わせていくのは難しいのではないかという気がします。
例えば、東京キー局を取り上げてみると、近年の決算では売上げの約7~8割を放送事業による広告収入で上げており、いわゆるコンテンツ販売等の事業収入は1~2割強しかありません。一方で放送事業の原価構成比は6割前後で、その他事業のそれは2割前後となっています。
つまりテレビ局というのは、地上波放送に広告を流すという非常に儲かるビジネスのほかに、それほど儲けの出ない事業を細々とやっているという構図になっているのです。この事業構造が従業員への高待遇を支えているわけですから、とりあえずこの構図は活かしたままで未来に向けた布石を打ち込んでいき、緩やかに事業構造を変えていくことが求められるわけです。
*企業変革のキモ
世の中にはヤッカミからなのか、テレビ局の職員は給料が高すぎるので、まず合理化を進めて新規事業投資の原資を作るべき、というような暴論をいう人もいるようですが、このアプローチでは企業変革はおぼつかないと思います。
先述しましたが、企業というのは、今現在の儲けを生むシステムに対して、組織を最適化しようとするドライバーが常に働いています。事業アイデアとしては秀逸なのに往々にして新しい取り組みが失敗するのは、事業戦略と、それまで行っていた事業を運営するために磨かれた組織や風土、人事制度や行動様式、さらにいえば理念や価値観といったものがフィットしていないためです。
企業の体質というのは、ちょっとやそっとじゃ変えられません。というか、変えろと命令して変えさせるのはそもそも不可能だと思ったほうがいいです。企業の体質が変わるときというのは、企業の構成員一人ひとりが「自分が変わろう」と思ったときだけです。
では、今のメディア関係者に「自分が変わろう」という気持ちはあるでしょうか?
筆者はあると思っています。ただ、そのためには犠牲を最小限にしなければいけません。犠牲が大きくなればなるほど、変革へのエネルギーはしぼんでしまいます。
ですから、テレビ局の高待遇を維持したまま、どのように未来に向けた事業構造変換ができるか、いやむしろ、今現在の高待遇をさらによくできないか、を考えることが絶対に必要なのです。
さらに加えていえば、筆者自身はテレビ局の職員の高待遇に関しては何の問題もないと考えています。給料が高いことは公表されていますし、職員になる機会は、基本的に入社試験というシステムを通じて公平に社会に開かれています。テレビ局の高待遇がほしいと思えば、努力してテレビ局に入ればいいだけです。
また、テレビ局の社員ではないが、テレビ局の高待遇ぶりは納得できない、というビジネスパーソンであれば、広告を差し止めればいいし、広告予算を持っていない一般の市民であれば、テレビを消せばいいのです。
先ほどから申し上げているように、テレビ局のビジネスは、集めたアテンションの卸売りです。
集めたアテンションというのは、つまり、アナタのアテンションであり筆者のアテンションですから、テレビ局のビジネスのやり方や高給に納得できないのであれば、テレビを見ない、というのが一番有効な対抗策です。そうすれば、彼らは売り物がなくなるので、当然今のビジネスを維持できなくなります。
(6章以降に続きます。毎日更新予定)