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2:ボウイは「スターリン?」と笑い、アナーキーは「なーにが日本の」と吠えた~ハードコア炸裂、ジャパノイズ勃興、風雲急を告げる80s開幕——『教養としてのパンク・ロック』第34回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第5章:日本は「ある種の」パンク・ロック天国だった

2:ボウイは「スターリン?」と笑い、アナーキーは「なーにが日本の」と吠えた

衝撃的な「速さ」

 と、そんな下地を経て、78年に「東京ロッカーズ」として日本で「萌芽」したパンク・ロックは、まずは音楽ファンのきわめて一部から、しかし「熱い」注目を集める。後継バンドたちも活動を始める。SEX、自殺、PAIN、8 1/2、BOLSHIE(ボルシー)ら、より若い世代のバンドによるオムニバス・イベント「東京ニュー・ウェイヴ '79」(79年1月29日)は、同年6月、同名のアルバムとして発売された。NON BAND(ノン・バンド)も動き出す。東京組に対抗する動きとして、やはり79年、その名も「関西NO WAVE」と自称するバンド群が登場、同名のイベントもあった。ここにはのちに作家・町田康となる町田町蔵のINU(イヌ)、JOJO広重が在籍していたウルトラ・ビデ、Phew(フュー)が在籍していたアーント・サリー、変身キリン、そしてSSら関西在住のバンドらが参加していた。

 顔ぶれのなかで特筆すべきは78年結成のSSで、京都を基盤としていた10代の彼らは「ラモーンズより速い」スピード・パンクを自称した。アメリカにおいて無数のハードコア・パンク・バンドが「のちに」目指していく方向性をまるで先取りしていたかのような彼らのアイデアおよびスタイルへの評価はいまなお高い。

 しかし日本における「速さ」の決定版というと、大阪のS.O.B(SxOxBとも表記)を置いてほかにない。85年に結成、86年12月にインディー・レーベル「セルフィッシュ」からリリースした7インチEP『リーヴ・ミー・アローン』における「速さ」は衝撃的で、驚愕と称賛が文字通り世界中のアンダーグラウンド・シーンの一部を駆け巡った。その証拠のひとつが『リーヴ・ミー・アローン』の約半年後にリリースされた「英グラインド・コアの雄」ナパーム・デスのデビュー・アルバム『スカム』だ。同作のサンクス・リストのなかにS.O.Bの名が記されているのだ(この件を機に両者の交流が始まり、89年にはS.O.Bが初の海外ツアーをナパーム・デスとともに欧州でおこなうことに)。だからもしかしたら、S.O.Bがいなければナパーム・デスはおろか、グラインド・コアですら「もっと違う形」に落ち着いていた可能性すらあったかもしれない。

「Japanoise(ジャパノイズ)」

 そしてSSからS.O.Bの大活躍に至る、つまり70年代末から80年代末の10年間に本格的に動き始めた日本発のアンダーグラウンド音楽、なかでもポストパンクにおけるインダストリアル系の流れを汲む「ノイズ」音楽は、広く海外の同好の士の注目と尊敬の念を集めることになる。たとえばS.O.Bとともにユニット「SOB階段」を結成、作品を発表したこともある非常階段。秋田昌美のMerzbow(メルツバウ)。灰野敬二――これらのアーティストの作品は、たとえば90年代あたり、アメリカのリベラル系大学が所在する地域の学生街のレコード店ならば、ほぼどこでも「ひととおり揃えられている」ことが多かった。日本発の「ノイズ」音楽ということで「Japanoise(ジャパノイズ)」なる造語も生まれていたから、そのくくりにて「棚」が作られている場合も、よくあった。のちに国際的に活躍するボアダムスを結成する山塚アイ率いるハナタラシ――数々の「過激」伝説に彩られている――も、80年代には、ハードコアとノイズの領域をすべて破壊した上で極端化したような活動をおこなっていた。またのちに作家としても活躍する中原昌也の暴力温泉芸者、のちにNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』の音楽までも担当することになる大友良英も、この肥沃なる「ジャパノイズ」の大地にてすくすくと根を張りめぐらせていた時代が、80年代だった。62年にジョン・ケージを招聘した草月アートセンターや黛敏郎、武満徹、そして一柳慧らの「前衛」音楽活動の文化的遺伝子が、インダストリアルやパンクの影響を受けてカジュアルに転生したものが「世界に誇る」ジャパノイズの真の姿だったのかもしれない。

 また、あらゆるカテゴリーの外にいる孤高の存在となるバンドも、この期間に続々と活性化し初めていた。TACOの山崎春美がヴォーカルや作詞、痙攣をおこなっていたガセネタは、77年から79年のあいだは存在していた。80年にインディーのパス・レコードからデビューする突然段ボールの結成も77年だった。そして80年には、EP-4も結成された。

ザ・スターリン

 日本における「正調」ハードコア・バンドについて触れよう。前述したとおり、76年から77年あたりの、たとえばロンドンの「オリジナル・パンク」のようなスタイルで、同じ時期に活動していた日本のバンドは、記録らしい記録には残っていない。78年あたりを起点にして、ある種ニューウェイヴもポストパンクも、ノー・ウェイヴもノイズも、まるで闇鍋のように織り交ぜて摂取しながら登場してきたのが、広義の「日本のパンク・ロック」第1期生だった、というのが定説となっている。77年結成の名古屋のザ・スタークラブも、初のミニ・アルバムをインディー・リリースしたのは80年だった。

 そしてここからが「日本らしい」特殊状況なのだが、この「80年以降の世代」に位置するのが、よりパンク・ロックらしい形態へと音もヴィジュアル(アーティストの服装やスリーヴ・アートなど)も整理されてきたバンド群となる。つまりこれが「日本のハードコア・パンク」の黎明だった。日本のパンクはポストパンクから始まり、そして「パンク・ロックらしい」日本のバンドは、基本、ハードコアからのスタートとなったのだ。

 代表選手は、言うまでもなくザ・スターリンだ。ヴォーカルの遠藤ミチロウを中心に80年に結成。同時期に活動を始めたじゃがたらとともに「過激な」ステージ・パフォーマンスを繰り広げたことが話題となり、週刊誌ネタにまでなった上でメジャー・デビュー。82年7月に徳間音楽工業(のちの徳間ジャパン)傘下のクライマックスからリリースされたアルバム『STOP JAP』がオリコン・チャートの3位まで上昇して、日本においてかなり広く「パンク・ロックとは、どういうものなのか」知らしめていくことになる。

「デヴィッド・ボウイが笑った」事件

 このすこしあとの時期、僕はスターリンについての思い出がある。「デヴィッド・ボウイが笑った」事件だ。NHK-FMで放送されていた帯番組『サウンドストリート』は、そのころ毎週火曜日の夜は坂本龍一がホストをつとめていた。ときに1983年11月22日、デヴィッド・ボウイがゲスト出演する回があった。映画『戦場のメリークリスマス』のプロモーションだったのか、違ったのか。来日していたボウイとともに、同時通訳として、ピーター・バラカンもスタジオにいた。番組冒頭、PiLの「(ディス・イズ・ノット・ア)ラヴ・ソング」がかかって、明けて、坂本とボウイが(通訳を介した)会話を始める。ボウイが坂本に質問する。社会状況の厳しさを反映したパンクもしくはポストパンクみたいなバンドが、日本にもあるんじゃないかな、なんて。すると坂本はこう答える。

「あのね、それに近いようなバンドは、あるらしいんだけど。僕は観たことないんだけどね。スターリンとかね。観てないから悪口は言えないんだけど、どうしてもピストルズのコピーとか、イギリスのムーヴメントのコピーみたいに僕は感じちゃうから。あまり積極的に『観たいな』と思わないんだけれども……」

 彼のこの答えが通訳されている、そのときだった。バラカンの喋りを遮って、ボウイがちょっと驚いたように聞き返す、二度も。

「スターリン? スターリン!?」

 それからボウイは、笑い始める。はっはっはっは、と高らかに。なんとラディカルな名前じゃないか、と。つられてバラカンも坂本も、笑い出す……。

 この当時のNHK-FMの音楽番組は、日本全国のかなり広い範囲で聴かれていた。だから僕の友人の大阪のパンク少年も聴いていた。大きなトロージャン・ヘアとレザー・ジャケットでキメていた彼は「ボウイ、殺す……」と、かなり真剣に怒っていた。なに笑ってやがんだよ!と。

 とはいえ僕自身は、ほんのすこしだけ、違う感興を覚えていた。「名前だけで、あのデヴィッド・ボウイから一笑をもぎとる」なんて、結構すごいんじゃないか、と。いっしょに笑ってたバラカンと坂本は、置いといて。

アナーキー「東京イズバーニング」

 同じ番組のなかで名前が挙げられていたのが、アナーキー(のちに「亜無亜危異」とも表記)だった。ボウイはTVK(テレビ神奈川)の音楽番組『ファイティング80's』で「クラッシュみたいな日本のバンドを観た」と、自ら話題にしていた。78年結成、80年にレコード・デビューしたアナーキーは、音楽的には、当初スターリンよりもハードコア色は薄く、もっとオーセンティックだったかもしれない。デビュー時には、スティッフ・リトル・フィンガーズあたりの「ハード・パンク」スタイルにて、ロンドンの「オリジナル・パンク」をやり直しているかのような手触りがあった。

 出色なのは(前述のバラカンには「カヴァーをしている」だけだと切って捨てられていたのだが)クラッシュのナンバー「ロンドンズ・バーニング」にオリジナル日本語詞をつけた「東京イズバーニング」だった。デビュー・アルバムに収録された、これぞアナーキーの真骨頂と言えるナンバーで、ここではなんと、真正面から「日本における天皇制批判」をおこなっているのだ! こんな歌詞だ。肝心のところはブザー音で隠されているのだが……「なーにが日本の」のあとに(ブザーの後ろで)「象徴だぁー」と、歌っている。そして「なんにもしねえで、ふざけんな」と続く。つまりここが、原曲における「London's burning (With boredom now) / London's burning (Dial 99999)」にあたるのだが、最も強烈にして、破壊力満点なのがこの直前の一行。いわゆる「サビ前」のフックにあたる箇所だ。原曲ならば「Everybody's sittin' 'round watching television」のところが、こうなっている。

「ただその家に、生まれただけで!」

 まさに日本という国のありかたの根源にくっついて離れぬ宿痾、家制度や世襲制そのほかの無価値性を問う――というよりも、なによりも。「そんなの、俺らが知ったことかよ!」とひと息に踏み潰してしまうような、野蛮きわまりないパワーの噴出とでも言おうか。あとにも先にも、こんな内容と口調の日本語の歌、「東京イズバーニング」以外に僕はひとつも聴いたことがない。本質的な意味でまさにセックス・ピストルズの「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」にも匹敵する、これぞパンク・ロックと呼ぶほかない、見事なる1曲がこの「東京イズバーニング」だった。比べてもらえば一目瞭然、はっきり言ってクラッシュの原曲よりも、アナーキーの歌詞のほうが全然いい(演奏と録音は、もちろんクラッシュのほうが上だったが)。

 しかし当然、こんな曲を「メジャー」アルバムに収録してしまうのは、無茶だった。ビクターから発売されたセルフ・タイトルド・デビュー・アルバムに対し、右翼からの抗議が殺到、結果回収措置に。初回盤以降は「東京イズバーニング」を外した形で商品化されることになる。とまれこのアルバムが10万枚以上のヒットとなって、スターリンともども「最初に広く日本に」パンク・ロックを知らしめることになった。またアンダーグラウンドの「変態」バンドとして認知されていったスターリンに比べると、アナーキーのほうがより若年層への受けがよかった。サブカルチャー・ファンだけではなく、ヤンキー層の一部にもよく受けたという。ロンドン・パンクにおけるOiムーヴメントと、どこか近いものがあったのかもしれない。髪を逆立てて旧国鉄の作業服で揃えた初期アナーキーの佇まいは、ほとんど暴走族の特攻服姿を思わせたし、なにより「正面から(天皇などの)権威に楯突く」向こう見ずにしてすがすがしい反逆の姿勢が、同じく「反発心の強い」若者らの共感を呼んだのだった。

「インディーズ・ブーム」

 スターリンとアナーキーが、結果的に「メジャー」なロック・シーンを騒がせているのと同じころ、アンダーグラウンドでもハードコア・バンドが活性化していた。そうしたバンドは、イギリスやアメリカ同様、日本でもインディー・レーベルから作品をリリースした。遠藤ミチロウのレーベル「ポリティカル」から81年にソノシートを出したTYPHUS(チフス)が、京都のSSと並ぶ先駆者的バンドだった。そのほか、G.I.S.M.(ギズム)、GAUZE(ガーゼ)、THE COMES(カムズ)、THE EXECUTE(エクスキュート)が東京にいた。故マサミが率いたGHOUL(グール)、GUSTANK(ガスタンク)も、メタルに傾斜していった音楽性も含めて支持された。奇形児、MASTURBATION(マスターベーション)、あぶらだこ、といった面々も雷鳴を轟かせていた。名古屋のthe原爆オナニーズ、福岡の白(読みはKURO)やスワンキーズ、京都のコンチネンタル・キッズ――SSのギターだったシノヤン(篠田純)の新しいバンドだ――もインディー・シーンを騒がせていた。さらに関西ならばZOUO(ゾウオ)、MOBS(モブス)、そしてLAUGHIN' NOSE(ラフィンノーズ)などがいた。

 このときのシーンの貴重な記録となったのが、メジャー・レーベルのジャパンからリリースされたオムニバス・アルバム『グレイト・パンク・ヒッツ』(83年)だった。ギズム、エクスキュート、あぶらだこ、ラフィンノーズ、The Clay(クレイ)、そして元スターリンのタムのリーダー・バンドであるG-ZETが収録されていた。なにしろメジャー流通なので、郊外の駅前商店街のレコード店にも、入荷するところにはしていた。取り寄せることだってできた。だからこの1枚とスターリンやアナーキーの諸作が、全国津々浦々までパンク・ロックを啓蒙していくことになる。そして日本で「インディーズ・ブーム」が巻き起こることになる。

ラフィンノーズ

 このブームにかんしては、パンク・ロック側から見てみるならば、ラフィンノーズの名を外して語るわけにはいかない。世に言う「インディーズ御三家」とは、ラフィンノーズ、THE WILLARD(ザ・ウィラード)、有頂天だった。インディー・バンドが、そんなふうに「御三家」呼ばわりされていたのだ。まるで橋幸夫と舟木一夫と西郷輝彦、郷ひろみと西城秀樹と野口五郎みたいに。

 83年より自らのレーベル「AA」から作品を発表し始めたラフィンノーズは、大きな人気を獲得、85年にメジャー・デビューする――のだが、このパターンが80年代後半に、幾度も幾度も模倣されては繰り返され、そのたびに巨大化していく。いわゆる「バンド・ブーム」の幕開けだった。つまり、まるで1977年当時のロンドンにおける「パンク・ブーム」のように、日本でも次から次にバンドがデビューしてくることになる。その大半が(ラフィンノーズをお手本にしているのだから、当たり前なのだが)パンク(っぽい)ロック・バンドだった、ということは、文化史的に見てきわめてユニークだった。

 つまりここにおいて、パンク・ロックという国際的な音楽文化の輸入されてきた断片が、日本においては「インディーズ」というカタカナ語、和製の珍妙な概念のなかへと取り込まれていくことになったわけだ。しかも、80年代も後半にもなっての「パンク・ブーム」なのだ。つまり国際的なロック・シーンのトレンドとはほとんど同期していない、ほぼ日本独自の、ガラパゴスのように孤絶したエリアのみで完結した「ブーム」がこれだった。

「ホコ天」と「イカ天」

 そんな動きを加速させたのは雑誌『宝島』および同誌が主催していたレーベル「キャプテン・レコード」、そしてインディー・バンドが競って演奏する場所が井ノ頭通りは代々木公園脇の放射第23号線部分の路上における歩行者天国、いわゆる「ホコ天」だった。つまりものすごい速度で、日本におけるパンク・ロックは、商業主義にまみれて、陳腐化していった。最後のトドメとなったのが『イカ天』こと『三宅裕司のいかすバンド天国』だった。89年2月より放送開始されたこの深夜放送TV番組は「インディーズ」バンドが次から次に登場しては、審査員の前で「競い合う」というしつらえで、つまり権威主義的であり、バンド側にとってはきわめて屈辱的な枠組みだった――のだが、人気プログラムとなった。出演したがるバンドなど、いくらでもいた。しかし早くも90年の年末には、燃え尽きるようにして番組は終わる。番組に関わった多くの出演バンドや、さらには「インディーズ」バンド」という概念そのものをいっしょに焚き付けにして。

 こんな狂騒が巻き起こった理由のひとつには、当時の日本の世相があった。80年代末の一大バブル経済の発生と破綻へと邁進していく日本経済の、囂々たる拡大基調が影響していた、という見方は正しい。国際的には「米ソ冷戦」時代の最末期の、表層的には豊かな日本において、生活は親がかりのままで「子供部屋」に住まう若者たちは、ちょっとしたアルバイトだけで、趣味に投資できるぐらいの資金はすぐに手に入った。手にしたお小遣いを冬はスキー、夏は海外旅行に、あるいはDCブランドのバーゲンセールなどに費やす層は、世に少なくなかった。そうした「趣味」と比較するならば「インディーズ」バンドのライヴに行ったり、レコードやグッズを買ったりするのは、質素きわまりないぐらいのものだった。もちろん、自分で楽器を「買って」バンドを始めるのも。ホコ天やイカ天を目指すのも。だからインディーズなんて、パンク(っぽい)バンドなんて「誰でもできる」かのようだった。実際に「誰もが」やろうとしていた、かのようでもあった。寒風吹きすさぶ77年のロンドンや、同時期の荒れ果てたニューヨークなどとは、まったくもって「180度逆」の社会状況が、このとき、日本ならではの「パンク・ロックに似たものの特殊なシーン」を生み出していた。そしてちょうど「団塊ジュニア」と呼ばれる世代の若者が、これらシーンから生み出されるあらゆるビジネスにおける最初のターゲット、格好の消費者層となっていた。

【今週の13曲】

INU - フェイド・アウト

現在は作家の町田康が「町田町蔵」だった時代に率いていたバンドINU(イヌ)。81年のメジャー・デビュー1stアルバムのオープニング曲がこちら。かなりポップ色の強いポストパンク・サウンドだ。

Aunt Sally - Aunt Sally

のちにDAF、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンやカンのメンバーとも活動することにもなるヴォーカリストPhewが率いたアーント・サリー。79年の同名アルバムから、タイトル曲を。

SS - Mr. Twist

映画『ロッカーズ』より、SSの勇姿。コメント欄にもあるように、79年時点でこの速さ(を選択する本能、実践できる能力)は画期的だ。全員10代だった。

S.O.B. - Leave Me Alone

そして当時「地球最速」とも呼ばれたS.O.B.。84年のデビューEPからタイトル曲を。

非常階段 - Live at Final Wars

86年の中野公会堂、サイキックTVらと共演したライヴから「ジャパノイズ」爛熟期の貴重な映像を。

Merzbow - Live in Paris 1985 - Untitled 2

メルツバウ、85年のパリ・ライヴからの音源。うなるノイズが織りなす、極彩色の「音の波」。そして工場のハンマーのごとき、リズムには奉仕しないビート……インダストリアル音楽の概念の「その向こう」へと、淡々と、平然と突き進んでいくかのような逸品。

HANATARASH

そしてハナタラシだ。現ボアダムスの山塚アイが、怪我だけではなく、下手したら死亡、しかも場内大量の、だからテロ行為にもほぼ近い――という、ほとんど「破壊のための破壊そのもの」パフォーマンスにて、ノイズどころかあらゆる表現の極北を目指してしまった活動歴の全容をテロップ紹介してくれる動画がこちら。もちろん音も。

THE STALIN - 虫 (1983)

遠藤ミチロウ率いるザ・スターリン、83年のライヴより。上半身裸でこのアイメイク、そして「叫びと挑発」が、まず最初に日本パンク・ロックの象徴となった。

暗黒大陸じゃがたら - でも・デモ・DEMO

OTO参加後、アフロ・ファンク色を増したじゃがたらの人気曲がこちら。ノー・ウェイヴ~ZEからの影響もさることながら、ヴォーカリスト江戸アケミの強烈な個性がバンドを牽引していた。

アナーキー - 東京イズバーニング

本文でも触れた、日本パンク・ロック史上に燦然と輝くストロング・ナンバー。言葉のこの直截さ、最短距離感――これぞパンク。収録のアルバム初回盤は回収されたが、しかしいつまでも、デジタルの海には存在し続けるはずだ。

G.I.S.M.-Fire[[Unofficial Video]]

まるで名場面集のようにギズムの勇姿が編集されている(チェンソー多数)、ファン・メイドと思われる動画。V.A.『グレイト・パンク・ヒッツ』にも収録の人気曲に合わせて。

Gauze - Destruction (1983年)

自販機雑誌『HEAVEN』創刊記念イベントから始まったシリーズ・ライヴのうち、日比谷野外音楽堂にて開催された「天国注射の昼」からのガーゼ演奏シーン。投稿内にも記されているとおり、ライヴハウスに集うキッズたちから慕われた「マサミさん」ことGHOULのマサミの姿も客席側に見てとれる(大きなモヒカン姿で暴れている)。

LAUGHIN' NOSE - GET THE GLORY

このエネルギー、外向的なポップ感――いわゆる「インディーズ」ブームの引き金を、さらにはバンド・ブームの引き金をもひいてしまった大成功バンド、ラフィンノーズ初期の代表曲。Oi!を日本パンクに引っ張ってきた歌の嚆矢のひとつでもある。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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