【#3】赤瀬川原平さんの世界に魅せられて
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【#3】赤瀬川原平さんの世界に魅せられて

嬉野珈琲店へようこそ。
マスターは大の珈琲好きである「水曜どうでしょう」カメラ担当ディレクターの嬉野雅道さん。店ではこだわりの珈琲を淹れながら、マスターが人生のあれこれについてじっくりと語ります。マスター独特の視点から語られる、胸に詰まった息がすっと抜けるお話――。本日は連載開始から4カ月、嬉野さんがまさにマスターとなって「喫茶店」と「赤瀬川原平さん」の魅力について語ります。

マスターと名乗らないまま4カ月が経ちました

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さて、本日は、皆様に連絡事項があるんですがね。

「え? なんすか? いきなり」(読者の声を代弁しています)

いや、まぁ、たんなる趣向というか、思いつきなんですけどね。

いや、そもそもの話ね。この連載は、タイトルが「嬉野珈琲店」なわけですよ。普通このタイトルなら喫茶店でマスターと会話しているみたいな設定での連載を想像しますよね。それなのに、連載第1回目から勢い込んで「水曜どうでしょう」2020新作のことを書き出したもんですから、タイトルの喫茶店感を出さないまま、ここまで来ちゃってるわけです。

でも、「水曜どうでしょう」2020新作の話も、あらかた書き終えた今、私もふと冷静になり、あらためて思うわけです。

「たしかに連載タイトルが『嬉野珈琲店』なんだから、ここらでそろそろ珈琲屋のマスター然とした感じで書き始めないと、いつまでもタイトルとの整合性がつかないままズルズル連載を続けることになってしまうなぁ。それもまた、いかがなものか」と。

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とはいえ、突然、私がマスター然と語り出すのも唐突すぎる。何より私に心の準備が出来ていないもんだから照れくさいというか、なかなか書きだせないわけです。もしかしたら皆さんの方が、私以上に、とってつけたような今更な書き出しに違和感を覚えるかもしれない。みたいなことまで思っちゃってね。

ですからこの際、私と皆さんとの間で、物語みたいに設定を作って、それを確認しあった上で書き始めれば、スルッと素直に「嬉野珈琲店」で再出発できるかな、と思いましてね。なんで、本日は、まずその辺りの説明からさせていただこうと思ったわけです。まぁそれだけのことです。

で、思いついた設定ですがね。私がおりますここは日本のどこかの町にある喫茶店です。それもカウンター席しかない小さな、小さな喫茶店です。そんな喫茶店を、私は一人で切り盛りしている。

ある日のことです。私は、この小さな喫茶店の店内から、皆さんに向けて音声だけのライブ配信をやりだしたのです。ここがミソですね。つまり皆さんは、私の喫茶店にやって来たお客じゃない、皆さんは私のライブ配信をたまたま見つけて聴いてくれているリスナーという立場になるわけです。まぁ、もちろん実際は、皆さん、ぼくが書いたものを読んでるだけなんですが、そこは聴いてるイメージで読み進めていただければと思います。よろしいでしょうか。よろしければ、さっそく始めますよ。まずはご挨拶から。

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皆さん。ようこそ嬉野珈琲店へ。

マスターの嬉野です。

これは、あなたの知らない町の喫茶店からお送りする音声だけのライブ配信です。まぁ私の独り言のようなことになるのかもしれませんが、おつきあいください。

おや、さっそく、コメント来てますね。

「なんでマスターは喫茶店でライブ配信なんかやりだしたんですか?」

なるほど。まぁ、それは店がヒマだからです。お客が来ないんですよ。私だって、店が繁盛してればライブ配信なんかやりませんよ。でも、毎日、毎日あまりにヒマで、やることがなかったわけです。おかしいですよね、こんなにおいしい珈琲を出してる店なのに。たまに何かの間違いみたいに店のドアを開けてくれた人は、必ずおいしいと驚いて帰るんですけどね、それでも、その人だって、そんなに頻繁に通うようなことにはなりませんもんね。私だったら通いますよ。なんでだろう? この違い。私ばかりが異常に珈琲が好きな珈琲体質なんですかねぇ。

まぁ、なんにしても、そういう事情でね、ヒマつぶしに始めたことなんです。なので、万一、お店にお客が来ちゃったら配信はそこで終了しようと思ってます。

「え? そんな唐突な」

またコメント来ましたね。わりと熱心なリスナーさんいますね。喫茶店より繁盛してるってことですね。なら、やってよかった。

いや、たしかに皆さんにしてみれば唐突な終わりかたですよね。でも、お店に来てくれたお客に内緒でライブ配信を続けるわけにもいかないですよ。だからって、お店に来たお客にいちいち配信を続けるために承諾を取りつけるのも説明するのが面倒でしょ? だったら問答無用で皆さんへの配信を終了するのが一番手っ取り早い。なので、そういうことにさせていただきますよ。でもまぁ大丈夫。まず来ませんから、お客なんて。

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ところでどうですか皆さん。世の中、コロナも一向に終息しませんけど、あれから毎日皆さんご無事でお過ごしですか? 私は、なんとか本日も元気で終えられそうです。コロナももう2年目になりましたね。

まったく、オッカナイ時代になりました。なんでこんなことになったんだろうって、今も不意に思うことがあります。でも、こういうふうに疫病が流行るみたいなことって、これからは当たり前になっていく時代なのかもしれませんね。その予感もあるんで、私はもう、コロナは、あんまり気にしないことにしようと決めました。だって、熱心にニュースを見てたら、毎日、コロナに関する新しい脅威が情報として目に入ってくるじゃないですか。それを見るたびに不安にさせられて、でも、だからって、打つ手がない脅威なら別に教えてもらわなくても良いなぁってこのごろ思うんですよ。だって、私にやれることって手指消毒の徹底とマスクの励行くらいですから。

この先どんな脅威が現れたって、できることは、その二つくらいなら、私はすでに来る日も来る日もせっせとやりつづけています。みんなもそうです。だって、街中へ出れば、どこにだって消毒用のアルコールは置いてあるし、皆さんマスクしてくれてますもんね。手指消毒とマスク。今後もその二つだけで我々は無事でいられるようにするしかないんです。そして今や、そこに気を張るとかではなく、そのもっと先の、習慣でついそうしてしまう、くらいには2年目の今は、なっていると思うのです。

だったらどんな新たな脅威がやってきたってやることは一緒ですから。もうこれ以上、新たな脅威の情報は要らないかな、って思うわけです。きっと国も何かやってくれてるんでしょう。なにぶん寡聞にして知りませんが。だから、ついつい「なんにもしてくんないな」とかって思ってしまいますけど。そんなことないわけですからね。きっと国政を担う人らは、素晴らしいことを計画してくれていると信じることにしていますから。だってもう、日本の国を運営してくれる立場に立ってる関係者の皆さんなんですから、国民の幸福を考えて国を運営してくれていると信じる他ないですからね。

あと、オッカナイのは、毎日毎日発表される感染者数です。あれも、私にとっては日々の不安を募らせる素になるばかりで、まるで有益な情報ではありません。どのような狙いがあって毎日発表されているのかも謎です。怖がらせるのが狙いで発表してるなら、その効果は絶大だから狙いどおりですけど、そうじゃないなら意図が不明です。

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ヒマそうな喫茶店がもたらす安心感

まぁ、コロナの話はもういいですね。

でも、思うんですけど、不思議なもので喫茶店って、とにかくヒマが似合う場所ですよね。食堂がヒマしてると「大丈夫かな?」って店の前を通るたびに心配になりますけど、喫茶店だと、これが、どれだけお客が入ってなくても、妙に「それが普通」みたいな安心感があるんですよね。

だから昔は、脱サラで喫茶店始めちゃう人が多かったんじゃないんでしょうか。きっとほら、満員電車に毎日乗ってるうちに思ったんじゃないですか? 

「こんな天気のいい日に、昼間からヒマな喫茶店でひとり、お客を待っているマスターなんて、いい身分だよなぁ」

とかなんとか。で、勝手に羨ましくなって、そんなときに、たまたま、ヒマな喫茶店のマスターを主人公にした推理小説かなんか読んだりすると、一見、なんの価値も無さそうに見える定年後のオヤジが、繁盛しない喫茶店のオヤジのくせに明察な推理なんかしちゃって、事件は解決するは、若いお姉ちゃんには惚れられるは、敏腕刑事には一目置かれるはで、羨ましいエピソードが続出するから、すっかり小説だってことも忘れてね、ヒマな喫茶店のマスターに憧れる、みたいなことってありますから、物語の中の喫茶店はヒマな方が似合いますよね。

でも、小説ではなく、リアルを生きる喫茶店のマスターは、たとえヒマでも、毎日身だしなみを整えて、お店の掃除に余念が無く、キビキビ立ち働いている感じを見せるのが大事ですよね。棚に並べたコーヒーカップも、カウンター周りに置いた珈琲器具もピカピカにしてね、いつお客が来たってすぐに珈琲が落とせるように薬缶からは常に白い蒸気が出ていたりすると外から店内を覗き込む客の気持ちとしては、

「お、なんか、感じのいい喫茶店だな、ちょっと気分転換に一杯飲んで行こうか」

みたいな気持ちになって、入りやすい店になる。だからそう思って私も毎日それ、やってるんですけど、来ないねぇ客。それだから、こうやって手持ち無沙汰が昂じて、店内から音声だけのライブ配信をやりだしたわけなんですがね。

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でも、どうです? 皆さん、ここまで読んでたら、なんとなくぼくがどっかの珈琲屋に居て、ライブ配信やってるような絵が見えてきたんじゃないですか? カウンターの中で、白いシャツとか着て、ネクタイなんか締めて、黒い前掛けを腰に巻いて、ヒマそうにお客を待ってる、みたいなイメージを、皆さん銘々、ご自分で知らないうちに思い浮かべてらしたんじゃないですか? ねぇ。これをしてしまうのが人間の持つ、想像力という特殊能力ですよね。物語を与えられると、ついつい映像的にイメージを思い浮かべて、自分から物語の世界に入って行ってしまう。この能力があるから人間は物語の中の人物に感情移入できてしまうわけだけど、同時にこの能力があるから他人にダマされるんじゃないかとも思うわけです。つまりこの能力がなかったら「振り込め詐欺」にあっても誰もダマされなかったかもしれない。いや、ひょっとしたら、「ダマされる」ってことは、そもそも人間の中に「ダマされたい」って欲求があるから、ってことなのかもしれない。そんなことを思いますよね。

引き込まれる赤瀬川原平さんの妄想世界

もう、亡くなられましたけど、赤瀬川原平さんという作家の方がおられましてね。もともと画家で、美術の人で、でも、芥川賞も受賞されて、その赤瀬川さんの文章が絶妙で、私はちょうど20代の前半でしたから、もう夢中で赤瀬川さんの著作を読みまくってました。結局、20年くらい読み続けたと思います。幸せな時間でしたね。

赤瀬川さんの文章を読みながらあの方の妄想世界に入り込めば、途中から本当かどうかなんてどうでも良くなってしまって、裏が取れてるかどうかなんて問題じゃなくなってしまって、なんなら嘘でも、思いつきでもいい、赤瀬川さんが信じて、見てしまったその妄想と同じものを目撃してしまったくらいの気持ちになってしまってね。いや、もはやそうであるとしか考えられない、みたいに思えてしまってね。興奮しましたよね。そんな深淵を覗き込むような独特の妄想をあの方は書かれるわけです。

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たとえば赤瀬川原平さんは、薄暮に通りを歩いているとき、自分の眼の前で、不意に街灯に明かりが灯る瞬間なんかを見てしまうと、〝どうして自分に向けて、今、街灯は明かりを灯したのだろう〟と考え始めるような人だったみたいで、たしかに、街灯が灯る瞬間には普段あまり遭遇しないから、そういうものに遭遇したとき、赤瀬川さんは、そこに自分に向けられた、何かしらの〝信号が送られてきた〟と受け取ってしまうのか、深く深く考え始めるようで。でも、その考えの果てに、息を呑むような深淵を覗き込んでしまうようなところのある、そんな人だったように思うんです。

一度、夏の夕方に、赤瀬川さんは自転車に乗って多摩川の土手を走っていて。そのとき小さな羽虫が眼に飛び込んできて。それが一度ならず二度も三度も。それも決まって右目にばかり。ここで赤瀬川さんのスイッチが入ったんでしょうね。

〝どうして毎回右目なんだろう〟

最初は、そのことをいつまでも考えていた。ところが、入った羽虫を洗い流すために赤瀬川さんの右目から涙が溢れ出すと、溢れた涙は、そのまま赤瀬川さんの頬を伝って流れ落ち、赤瀬川さんの唇を濡らしたんですね。そしたら赤瀬川さんはその涙を舐め、そして塩っぱいなと思うんです。そのとき、赤瀬川さんは思い出すんです、そういえば人体の65%は水だと聞いたことがある。それも塩水だと。そしてその塩水は古代の海水の塩分濃度と同じだと。

生命は古代の海の中で発生したという。そして長い間、その海の中で生命は進化を続けてきた。だが、それはいつかは分からないが、太古の昔のある日、生命の中から、あるものが、海から陸上に上がって来た。そのものの進化の先に自分たち人間もいる。

自転車に跨り、夏の夕風に吹かれながら、赤瀬川さんの想念は悠久の時間を遡る。最初に陸に上がってきた生命体が、どのような姿であったのかは分からないけれど、海から上がり、渚に立つ、そのぼんやりとしたひとつの生命体の姿がおぼろげに見えてくる思いがする。だが、そのとき不意に赤瀬川さんは「泣く」という漢字を思い出して、ハッとするのです。

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だって「泣く」という漢字は、三水(さんずい)に立つと書く。それってまさに海を捨てて来た生命が、初めて陸へ上がって、渚に立った、記念すべき瞬間の姿じゃないか。それなのに、そのイメージが「泣く」という漢字とダブるなんて。その偶然の符合に気づいて、赤瀬川さんは愕然とします。そしてさらに気づくのです。

「涙」という漢字は三水(さんずい)に戻ると書く。人間は体の中に今も古代の海を持って生きている。ということは、人は、泣いて涙を流すたび、今も、〝懐かしい古代の海に戻ろうとするのだろうか〟。そんなことを赤瀬川さんは自分の涙の塩っぱい味を噛み締め、自転車のペダルを漕ぎ漕ぎ妄想するのです。

人の心は嘘を求めているかもしれない

私は、この赤瀬川さんの妄想の書かれた文字を目で追いながら、もう、そうであるとしか思えなくなってしまったのです。もちろん、そうであるはずがないのです。だって、漢字に馴染みがなければ、このような話には、なんの意味も感じられないでしょう。それなのに私には、海を故郷として生まれた生命が、決意して陸へあがって来た記念すべき瞬間が、泣くという行為の中で行われたのだと思えて仕方なかったのです。

でも、だとすればそれは、海を捨てたのではなく、海を追われ、海を捨てざるを得なかった我々の祖先の、泣きたかった運命を、そこに見る思いがするからなのかもしれない。そんなふうにも思えてくるのです。

我々の祖先が渚に立ったその日から、いったいどれくらいの時間が経ったか分からないけれど、いまだに人は、おいおい泣きながら、流す涙と一緒に懐かしい古代の海へ帰っているのだなと、私には疑いようもなく思えてしまうのです。

20代の初めに読んだ、赤瀬川さんのこの妄想は、それから40年近くも消えることなく、私の記憶に刻まれたままなのです。やっぱり人の心は、「ダマされたい」と、嘘を求めるところが、あるのかもしれない。

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でも、赤瀬川さんの妄想のように「ダマされて良かった」と思える嘘って、いったい何なのでしょうね。もしかして、意外にもそれは、あながち嘘ではない、ということなのかもしれませんね。

さて、本日の配信はここまで。お店には、とうとう誰も来ずじまいでしたね。おいしい珈琲あるのにねぇ。
(次回は5月13日更新です)

嬉野雅道(うれしの まさみち)
1959年生まれ。佐賀県出身。「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)のカメラ担当ディレクター。愛称は「うれしー」。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞優秀賞など多くの賞を受賞したドラマ「ミエルヒ」では企画を担当し、福屋渉氏とともにプロデューサーも務めた。「愛と平和と商売繁盛」「負けない」がモットー。どうでしょう藩士と奥様に人気。著書は『ひらあやまり』『ぬかよろこび』(ともにKADOKAWA)など多数。

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