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【#5】初台駅前に人生の劇場あり! 新国のことじゃないですよ

嬉野珈琲店へようこそ。
マスターは大の珈琲好きである「水曜どうでしょう」カメラ担当ディレクターの嬉野雅道さん。店ではこだわりの珈琲を淹れながら、マスターが人生のあれこれについてじっくりと語ります。マスター独特の視点から語られる、胸に詰まった息がすっと抜けるお話—―。本日は、30年以上経っても記憶に刻まれたうな重の話から始まります。

うなぎ赤垣おそるべし

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ようこそ嬉野珈琲店へ。
本日も、わたくしのヒマな喫茶店からお送りする音声だけのライブ配信におつきあいください。

前回も話しましたが、私がいるこの喫茶店は日本のどこにあるのか、そこはいったいどんな町なのか、実は私にもまだ分からないのです。いや、もちろんこの設定は私が勝手に考えた設定なのですが、ただ、その設定の中でも、私は、どうやら物理的にこの町へ越して来たというわけではないようです。むしろ、ふと気がつくと、この店に私の日常がダイレクトにつながっていた、だから私はこの店にいる、なんだかそんな話です。

まぁ、私は昔からSFやファンタジーが好きだったので、やっぱり書き始めるとどうしても不思議な方に引き寄せられてしまう。それはまぁ当然といえば当然なことなんでしょうが、それでも長く生きていると人生にはいろんなことがあるもので、それこそSFみたいに説明のつけられない不思議なことが現実に起きたりするものです。でも、そんなとき人間は不思議なことを不思議に思いながらも受け入れてしまうものです。ですからこの喫茶店だって、考えてみれば不思議な場所ですが、不思議なままに私の日常とつながって、すでにここも私の日常になってしまったようにさえ思えるのです。

ということで、前口上も済んだところで今日もひとつ、おいしい話につきあってもらおうと思うのです。

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つい先日、出張で東京に出たときのことです。せっかく上京したのに緊急事態宣言が発出されてYouTubeの撮影場所が急遽使えないということになり、仕事がひとつ飛んで、不意に東京で一人、ぽっかりと時間が空いてしまったわけです。そこで私は、久しぶりに東京の友人に連絡をとり、一緒に昼メシを食うことにしました。

そのとき、「何を食べたい?」と、友人がいくつか候補を挙げてくれた店名の中に、聞き覚えのある名前があったのです。それは私の記憶の中に長く仕舞いこんだままにしていた、初台にある「うなぎ赤垣」でした。

「たとえば、初台にある赤垣のうなぎか、それとも……」
「え? 赤垣? 赤垣、まだあるの?」
「あるよ。え? 知ってるの?」
「知ってる。でも、行ったのはもう30年以上も前でね、それも一度きりなんだけど。でも、うまかったんだよ。今もまだあるんだね」
「あるよ」
「あるなら行きたい。赤垣、行きたい」

初台の「うなぎ赤垣」。それは、私にはクソ懐かしい名前でした。

我が想い出の中の初台

あれは今から30年以上も前、私がまだ独身だった頃の話です。そのころ私はフリーランスの助監督として東京で働いていました。フリーランスといえば聞こえはいいけど、仕事の基礎を教えてくれる人もいないままぶっつけで現場をこなしていたので、仕事は見よう見まねのよく分かっていない状態だった私は、かろうじてハッタリで世間をごまかしながら仕事をしていました。私もまだ28歳だった頃の話ですが、危うい28歳だったと思います。

それでも当時の日本社会はバブル経済驀進中だったので、私みたいな頼りない状態の人間にも頻繁に仕事の電話が掛かってくるのでした。それくらい世の中は次々と仕事が生み出され景気が良く慢性的な人手不足だったのでしょうね。

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そんな時代に私は初台にあった小さな制作プロダクションに縁あって出入りしていたのです。そこで私は一人の京都弁のおじさんと知り合いました。京都弁のおじさんはフリーランスのベテラン照明技師で、そのプロダクションを立ち上げた若い社長(当時43歳くらいだったのかもしれません)と昔からの知り合いのようで、会社の分室にマンションみたいに流しのある部屋があったのを良いことに、家にも帰らず半分その分室に住みついた状態で、夜な夜な仕事で居残る若手スタッフを捕まえては酒を飲んで愉快そうに説教をする“くせもの”でした。

京都弁のおじさんは、あのころ50代半ばだったでしょうか。思い出すと記憶の中のおじさんが今の私より年下だったことがなんだか不思議に思えてきます。小柄で、ロマンスグレーの天パがちょっとガラの悪いギリシャ彫刻のダビデ像のようなうねりのある頭髪に見えなくもなく、赤ら顔で、声はでかい、目つきはぎょろっとしておっかなくて、それでいて笑うと人懐っこい顔になる人でした。そして酒が過ぎると不意におそろしげなことを言い出すのです。

「なぁ嬉野」
「はい」
「おまえ、先の尖った鉛筆で、人の目ぇ突け言われても、よう突かんやろ?」
「当たり前ですよ。できませんよ。やめてくださいよ。尖端恐怖症なんですから」
「そやろ? でもなぁ、わしは平気なんや。なんとも思わんと目ん玉ぷすう突けるんや。おまえもためしに、その目ぇいっぺん突いたろか」

京都弁のおじさんは、ビビる私を見ながら愉快そうに笑うのでした。たしかにケンカ慣れした雰囲気のある人で、自分で言う通り、実戦ともなれば未だに平気で残忍な行為に及ぶだろうと思わせるに十分な雰囲気を醸す不敵な笑みを残す人でした。

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「仕事は一流の人間とやんなきゃダメ」

そんなおじさんでしたから相手が誰だろうと言いたいことをずけずけ言っていました。あれでは敵も多かったことでしょう。あの性格が祟って世間を狭くしてもいたのでしょう。ところが、そんなおじさんでしたが、奥さんは京都の有名な照明会社のお嬢さんだったそうで。一度だけ「これ、うちの女房」と、誰かの受賞パーティーみたいな会場で奥さんを紹介してくれました。予想外にそれがえらい美人で、それはもう顔もスタイルも総合的にそうなんですが、なんだかその物腰がとてもチャーミングで、未だにそのときの印象が残るほどステキな人だったのです。

「ずいぶん綺麗な人じゃないですかぁ」と、奥さんと別れたあと、そう私が驚き顔で囁くと。「そんでもおまえ、そんなもん飽きるやん」みたいなことをおじさんは言うわけです。謙遜とも思えない本気顏で。

とはいえ、京都にしっかりした奥さんの実家があるにもかかわらず、京都弁のおじさんは東京で仕事をしているわけですから、「そのあたりには、なにか、京都にいられない事情でもあったのかなぁ」と思わせるところも大でしたが、まぁ、おじさんも何も言わないので私も何も聞きません。だから未だに知らないままです。そもそも照明会社の社長であるお義父さんに見込まれて娘と結婚したのか、略奪に近い恋愛の末に駆け落ちでもしたのか、どっちとも取れるだけにまったく分かりません。

言動も行動も生き方も、なにかと乱暴そうに思えるおじさんでしたが、私の目からは、しごく真っ当な人に見えました。

「嬉野ねぇ。仕事は一流の人間とやんなきゃダメ。こんなインチキプロダクションに出入りしてるような連中に、ろくなやつおらへんで」

聞きながら「いや、でも、あなたも、その出入りしてる奴の一人なんでしょう」と思わないでもなかったのですが、それでも、京都弁のおじさんは昭和11年生まれ。たしかにおじさんの青年期は、戦後に勃興した日本映画の黄金期と共にあったわけです。

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であれば、日本の有能な若者たちがこぞって映画界に集まってきた時代とおじさんの青春時代はシンクロしていたはず。それはテレビすらない時代だったわけです。日本人の老いも若きも映画というだけで目を輝かせて映画に憧れを抱いた時代だったと思われるのです。それであれば、その時代の若い才能と資金とがどんどん映画界に集まり熱く沸き返っていた光景を長らく見てきた者として、おじさんは、時代の流れと共に下流へと変わっていく人のありように、どこか、おもしろく思わないところがあったのかもしれません。

今も私が心の師と尊敬する、故、松川八洲雄(まつかわやすお)さんに引き合わせてくれたのも、その京都弁のおじさんでした。

「おまえ今度、松川に会わしたるわ。松川八洲雄。ドキュメンタリー映画の巨匠や」

しかし、そう言われても、田舎青年だった私には黒沢明や小津安二郎の名前には聞き覚えがあっても、ドキュメンタリー映画の巨匠の名前までは聞き覚えがなく。いや、そもそも田舎でドキュメンタリー映画なんか見る機会すらないのですから、名前も作品も知りようがないのです。それでも松川さんに会って、私は「才能のある人と仕事をするとこんなに楽しいのか」ということをつくづく思い知りました。

だって、自分が携わる、この目の前の作品に未整理のままあった問題という問題が必ず解決されてゆくのです。そして作品が何処へ向かいたがっているのかが編集作業の中で発見され整理整頓され始めるや、あるときを境にべらぼうにおもしろくなっていくという興奮を、仕事という流れの中で直に体験できたのですから。これはたしかにおじさんが言うように「仕事は一流の人間とやらないとダメだよ。こんなプロダクションに出入りしてるような連中にろくな奴おらへんのやからね」という口の悪さも、あながち暴言ではないかもと思われてきたのです。

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待ち時間も、うなぎの醍醐味や

さて、そんな風に一流人との人脈もあり、仕事もできるおじさんでしたが、なぜかお金はなかったようでした。半分事務所に住んでるような形で仕事ばかりしていたのに不思議なことでした。

そのお金のないおじさんが、ある日、私をつかまえて言うのです。「嬉野。うなぎ食いに行こか」と。

「いいですねぇ、うなぎ。食いたいです」
「そやろ。すぐ近くに、ええ店があるんや」
「行きましょう! お金あるんですか?」
「おまえのおごりや」
「えぇ?」
「えぇ? て。おまえ。こっちは授業料も取らんと、おまえにどんだけ仕事を教えてやってる思うてんのや」

そう言われて連れて行ってもらったのが「うなぎ赤垣」でした。

これが、うまかった。30年たった今もその印象は消えません。

「うなぎはなぁ嬉野」
「はぁ」
「注文してから出てくるまで、時間の掛かるもんや」
「そうですか」
「そうや。注文してからさばくんやからな。そしてな、そっからの焼きが勝負や。強火で余分な脂を落としながらじっくり丁寧に焼く。焦ったらアカン。そら時間もかかるで」
「なるほど」
「でもな、この待ち時間もうなぎの醍醐味や。おまえビール飲むやろ? 大瓶頼んでええか?」
「え?」

たしかに、おじさんの言う通り、うな重を注文してからの待ち時間は異様に長かったのです。それは本当によく覚えています。かるく40分は待ったと思います。しかし、その果てに出てきたうな重のうまかったことが。私は夢中で食ったと思います。そのときの「赤垣のうなぎ体験」は、私の中で「赤垣ショック」となって脳裏に深く刻まれ、私のうなぎに対する認識をすっかり変えてしまいました。そしてそれは未だに変えられたままなのです。

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それからというもの、私はよそのうなぎ屋へ行っても、うな重を注文してどれだけ待たされるかが密かな楽しみになってしまい、注文して15分と経たないないうちに、うな重を出す店があったりすると、

「なんて酷い仕事をしてくれるんだ」

と、私はショックで反射的に腹が立ってきて、「なんだこの店は」と、思わず立ち上がって、「こんな店のうなぎが食えるか」と、椅子を蹴って店を出たくなるほどガッカリするようになりました。反対に、注文して、40分はとおに超えたというのに、出てくる気配すらないときなんかは、「いや、マジか、まだ出さないか。おいおい、この店は凄いんじゃないのか」と、うなぎへの期待感が勝手に膨らんで、たんなるオーダーミスかもしれないのに、一人で興奮して盛り上がるのでした。

「うなぎは待つもの」。この認識を私に植え付けてしまった赤垣でしたが、その赤垣もコロナ禍の今は予約制になりました。なので、電話で予約すると、ちょうど良い来店時間を指示してくれるので、お店に入るとたいして待つこともなく、すんなりうな重が出てきます。

赤垣のうな重は「並」がおすすめ

その日、私は初台の南口で友人と待ち合わせました。地下鉄の階段を上がって地上に出ると、すぐ目の前に赤垣の看板が見えました。私は30年ぶりに懐かしい初台の駅前に降り立ちながら、しかし目の前に展開する風景になんら懐かしさを感じることはありませんでした。初台に通っていたころのことは、もうまったく覚えていないのですね。やはり私には、あのあと引越していった先で送った25年の北海道人生の方が強烈に濃かったのでしょうね。赤垣の店の前まで来ても、懐かしさの“よすが”はどこにもなく、その店構えにすら見覚えがなく、入り口の引き戸をガラガラと開けて店の中に入っても「こんなに狭い店だったんだ」という具合で、なにひとつ覚えてはいなかったのです。

ただ、そのあと食ったうなぎは、やっぱりメチャクチャうまかった。30年の時を隔てて食う赤垣のうな重でしたが、そのうな重は、私に、あらためて「赤垣ショック」を刻印するほどうまかったのです。

赤垣のうな重にも、もちろん「上」もあれば「特上」もあるのですが、あの店のすばらしいところは、「並」が一番うまいんじゃないかと思わせるところです。それは、ご飯とうなぎとの量の配分バランスなのか……それとも。いや、いかん。こうして書いている今も、書きながら赤垣のうなぎの味をこの鼻と口が思い出すので勝手に唾が出てきて堪らんのです。書きながらこの口が「赤垣のうなぎを食いたいぞ」と、地団駄を踏み始めるのです。記憶だけで人をしてこのような目に遭わせしむる赤垣のうなぎ恐るべしです。

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現在赤垣では、お店のテーブルの真ん中に、よそでは見たことのないほど特大サイズのアクリル板の“ついたて”が置いてあり、迎え合わせで席についたあなたと私を、それはもう話し声だって聞こえにくいほど遮りますから、コロナ対策はバッチリです。

こうして待つこと15分ほどで、お兄さんがうな重を運んできてくれるのです。

私の前にコトンと置かれた蓋のされたうなぎの赤いお重。その横にコトコトと置かれた小皿に乗った古漬けの漬物と汁椀。これで赤垣の「うな重の並」は揃いです。お兄さんが店の奥へ消えると、はやる気持ちを抑えきれない私はお重の蓋を開けて顔を近づけます。このとき、ホカホカと立ち上って私の鼻腔を刺戟するうなぎの香ばしさがあまりにも鮮烈で、不意をつかれて、いきなり「うまそうだぁ」と膨らんだ期待感が私の食欲に点火して、「あぁ、この香ばしさって何をどうやれば可能なんだ」と、私の頭は狂いはじめるのです。

それは、蒲焼のタレの甘い匂いの奥から私の鼻めがけて拳を繰り出してくるほんの少し焦がした感じの香ばしさで、その微かな香ばしさが、うまそうなうなぎの匂いと渾然一体となって私に殴りかかってくるような、でもそれが、白魚のようにたおやかな乙女のセクシーな手によるアッパーカットのように「あぁもっと殴って」とばかりに幸せに私の鼻先にヒットするので、その一発一発が致命的な威力を発揮しつつ、しかし極楽往生もまた疑いないという憎い衝撃なのです。とにかく、あの蓋を開けたときにくる刺戟的な香ばしさを嗅いだときから、お客は全員やられ始めているのです。

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そこへ、あつあつの白米の上に横たわって程よい照りを見せつける堂々たるうなぎの蒲焼が目に飛び込んでくるわけです。いまや私は、王女の妖艶さのとりこになったように、俗世も忘れて、わり箸を割り、その箸先をうなぎへ伸ばし身を割りほぐすと、ホカホカのごはんと一緒に口の中へ運ぶのです。そうしたらもう、うなぎはふわふわの、熱々の、旨旨で。しかもそのうなぎは実に丁寧な火加減で過不足なく焼かれていることが舌の上で明瞭に分かり、私は「はふはふ」言いながら、ひと口目から、うなぎのうまさで幸せいっぱいです。

しかし、ごはんは、ほんの少し堅めかもしれない。つやつやの保湿十分の白米という繊細さにはあえて行かず、その手前で少し趣を違えているのだろうか、「これは、どういう計算だ」と、ほんの一瞬思わせるのですが、しかし、その私の動揺すら、はじめから店主の計算に入っているのではないかと思わせるほどに、満足感は最後の瞬間まで私から去らないのです。

そうなのです。赤垣のうな重は、食うほどに店主の計算の緻密さを思い知らされる旅でもあるのです。順を追ってお話ししましょう。

赤垣、うなぎ劇場

ふだん、私は漬物には手が伸びない男です。なぜといって、料理のうまさの中で味の始末が付けられている場合、私にはそこへあえて口直しにほかの味を加えるという欲求が浮かばないのです。ところがそんな私が、赤垣の「うな重の並」を食うと途中から必ず古漬けに手が伸びてしまう。もはや私は操られているのです。操られながら、それでも考える私は、最初、それが「赤垣のうな重の並」のうなぎと白米のバランスだと思っていたのです。つまりおかずのうなぎが微妙に足りない感じになるバランスです。ところが、どうやらそんな単純なことではなかった。いや、勿論その側面もありはする。しかし決定的な理由はそこではない。それは赤垣のうなぎのタレの味付けにあったのです。

赤垣のタレは甘いだけではないのです。食っていればどこかで分かります。あのタレには微かな酸味があるのです。あのタレの微細な酸味が古漬けを呼ぶのです。そしてそこに用意されている赤垣の白菜の古漬けの酸味が強くて、これがまたむやみとうまい。まさに赤垣のうなぎと古漬けが呼応してうまさが化学反応を起こして炸裂する「赤垣マリアージュ」です。

「あぁここまで感動を呼び起こすとは、赤垣という店は、なんという劇場であろうか」。私は、新国立劇場がすぐ近くにあることすら忘れて「赤垣うなぎ劇場」に感嘆し感動するのです。

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こうして最後に涙を流しながら飲むのが汁椀です。赤垣の汁椀は肝吸いではないのです。なんということでしょう、赤垣の汁椀の蓋をあけてそこに顔を出すのは味噌汁なのです。「うなぎに味噌汁! 聞いたことがない!」。ところが、意外な組み合わせとも思わせるこの味噌汁ですが、汁椀を持ち上げ口へ含んだ瞬間、「これ以外にないね」と、納得させられるうまさのエンドマークなのです。飲んでみれば分かります。

「うなぎだけでは、うなぎのもたらすうまさの世界は体験できない」

もはや私には、赤垣の店主が、そう叫んでいるとしか思えないのです。うなぎをメインに据えながら絶妙にタレを焦がしては香ばしさを研ぎ澄まし、甘いタレの味に分かるか分からないほどの微かな酸味を加え、そこから古漬けを食わせ、吸い物よりも塩味の強い味噌汁を飲ませる。この円環した関係性の中へと客を追い込むことで、うなぎだけではとうてい体験することのできない極楽浄土へと我々を連れ去り成仏させるのです。

だったらこれは感動と感涙に打ちのめされる人生の劇場です。赤垣の店主のこの緻密な計算によって、我々はオノレの内にある高度な感受性を知るのです。「うまい!」と叫ぶまでに、我ら人類はこれだけの高度な旅をすることができると教えられるのです。

ならば人よ、人生に何を悔やむことがあろうか、なにを羨むことがあろうか。おまえはそこまでしてうなぎになりたいのか。おまえはおまえのままで良いではないか。人には役割というものがあると思い知れ。おまえは気づかれないかもしれないあの奥ゆかしく香ばしい焦げではいやなのか。気づかれないかもしれないタレに加えられたあの微かな酸味では役不足とでも言うのか。うなぎのお重にも入れない古漬けじゃぁかっこ悪いとでも言うのか。そしたらおまえの古漬けをおまえの見ている前でオレが食ってやろうか。それをおまえは我慢できると言うのか。飲みもしないで「なんでオレは味噌汁なんだ!」と、おまえは人生を嘆くのか。恥を知れ。

と、赤垣の店主になり代わって私が言うのですが。とにかく、口にするものすべてに意味が有ると思い知るほど味が緻密に計算され尽くしております。なので、まだの方は行ってみてください。やたらと幸福な気持ちなりますから。そうしたら赤垣が人知れず続けている仕事の崇高さに自然と頭が下がります。

故人曰く、「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」。

最後は京都弁のおじさんの話で閉めようと思って書いていましたのに、とんだ計算違いで赤垣のうなぎに熱を入れすぎて思いのほか書きすぎてしまい、もはやここで終わらざるを得ない流れになってしまいました。うなぎ赤垣、おそるべし。

それではまた次回、ここでお会いしましょう。
(次回は6月10日更新です)

嬉野雅道(うれしの まさみち)
1959年生まれ。佐賀県出身。「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)のカメラ担当ディレクター。愛称は「うれしー」。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞優秀賞など多くの賞を受賞したドラマ「ミエルヒ」では企画を担当し、福屋渉氏とともにプロデューサーも務めた。「愛と平和と商売繁盛」「負けない」がモットー。どうでしょう藩士と奥様に人気。著書は『ひらあやまり』『ぬかよろこび』(ともにKADOKAWA)など多数。

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