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ポルトガルで気がついた日本語のすごさ

wasabiです。
最近友人からの紹介で、日本語を勉強しているポルトガル人の女の子とランゲージ・エクスチェンジ・パートナーになりました。つまり、お互いに日本語とポルトガル語を教え合っているわけです。

彼女と話していると、私は日本語で文章を書くことを仕事にしていながら、日本語について全然知識がないな、と思わされます。

この前、彼女に聞かれたのは「"は"と"が"の違いについて教えてほしい」ということです。つまり、「私が」と「私は」の違いを教えてくれというのです。

皆さんはパッと答えられますか? 私は結構長い時間考えてしまいました。ググればすぐに出てくると思ったのですが、ここは私自身の感覚を伝える方が面白いだろうと思い、考えてみました。

私の見解では、「私はライターです」と「私がライターです」の違いは強調度合いにあります。「私はライターです」は単に私の属性を表すものであり、「私がライターです」と言うと「私」という主語が強調されます。

英語だと"I am a writer”と”I am THE writer”の違いですね。
日本語を話すときにあまり意識したことがなかったので、私にとって新しい視点でした。

次に聞かれたのが「日本語では理由を述べる際、文章中のどこにその要素を配置するのか」ということです。

「私は友達と図書館へ行きます」

という文がベースだとして、「雨が降っているから」という理由を入れるのは一体どこなのか? 「私は」の前なのか、それとも文の最後なのか。

これは日本語話者としての感覚で簡単に答えることができました。理由が来る部分は、文の最初、つまりここでは「私は」の前です。

彼女からするとそれがとても不思議だったようで、「なぜ日本語では理由が最初に来るの? 日本語って最後まで聞かないと意味が通じないよね?」と返ってきました。

たしかに文法にとどまらず、日常生活でも「人の話を最後までしっかり聞くこと」が日本では美徳とされます。英語を始めとするヨーロッパ の言語ではこれと順番が逆のことが多く、一般のコミュニケーションにおいても人の話を最後まで遮らずに聞くことが日本ほど重視されません。どちらかというと、意図を伝える「機能」が優先されます。

一方、日本語からは文章として完成された「作品」をしっかり見て欲しい、というアーティスト気質を感じます。人の話は最後までしっかり聞かないと意味が分からないって、日本人からすると普通のことですが、こうして他の言語と比較してみると、悪く言えば「めんどくさい」反面、リッチだなと思います。

このように書きながら思い出すのは、昨年夏にポルトガルで友達になったアルゼンチン人のラッパーのことです。私は彼のラップが気に入ったので、どこで音楽をチェックできるか尋ねました。彼は「俺のラップはスペイン語で、君はスペイン語が分からない。自分のリリックには1つ1つものすごく深い意味が込められていて、翻訳できるものでもない。君には特別に教えるけど、自分は基本的に分からない奴には教えたくないんだ」と語りました。ここでの"分からない"とは言葉が分からないという意味だけではなくて、自分の作品の世界観を理解できない人にはそもそも見せたくない、ということです。

私はこの姿勢がすごくカッコイイなと思いました。つまり、この人は何かを理解するということにそれほどまでに真剣に向き合っているということだからです。相手の言うことについて分かったふりをしない。自分の思想を大切にするからこそ、相手もリスペクトできる。

「人の話を最後まで聞かないと分からない」というのは一見するとめんどくさいかもしれない。けれど、これは本質だなと思うのです。人は発する言葉の裏に、言葉にならない様々な経験や感情を抱えていて、実際に口にしたことに思いの全てが現れているわけではない。人が何かを話すとき、その時の自分の潜在意識と顕在意識がギリギリ接するところから懸命に言葉を紡ぎ出している。

そこへのリスペクトを持って、人の話を最後まで聞く。その人が話したことを、その人の視点から考えて、たくさん想像力を働かせて耳を傾ける。

「日本語はリスペクトがある言語だ」というのは日本語を勉強している人たちからよく聞く感想であり、それは敬語や文法にも現れているのだと思います。

私が英語を勉強し始めた10歳頃、「英語は敬語がなくてなんて楽チンなんだろ〜日本語って、敬語があってめんどくさい!」とボヤいていましたが、今では「めんどくささこそ愛すべきもの」という考え方に変わってきました。とはいえ、綺麗ごとだけを言ってもいられず、やっぱりめんどくさい時はめんどくさい(笑)。

それが人間を人間たらしめるものだし、お互いを認め合うカギ。自分のこだわりを大事にする現代こそ、日本語のエッセンスが生きると感じます。

日本語話者はこの感覚を無意識に、日常的に体験していることになるわけですよね。それがグローバル化した社会の中でどれほど強みになることか。そして、当の日本人がそのことに全く気づいていないのではないか。コロナで自粛の中、バルコニーでお茶を飲みながら一服して、そんなことを考えています。

【プロフィール】1991年生まれ、東京都葛飾区出身。2014年獨協大学卒業後、就活をせずに新卒フリーランスの英日翻訳家/ライターとして、2015年春にベルリンに拠点を移す。行き先をドイツに決めたのは、大学在学中にイギリス・マンチェスター大学へ留学し哲学と社会学を専攻したことからドイツ哲学に出会い、大いに感化されたことがきっかけ。現在はポルトガルに住み、翻訳家/通訳者として国内外のクライアントと複数契約するほか、ライター・ブロガーとして様々な媒体へ積極的に寄稿。
https://wsbi.net/
https://twitter.com/wasabi_nomadik?s=20

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